もっと悪い
家を捨てたいというのはどういう意味なのか。ザルチ氏は返す言葉を思いつかずに、アンドレ・マロを見つめた。夜の街からは、ときおり自動車のエンジン音や、警笛が響いてくる。アンドレは机の上に揃えた両手から視線を上げない。
ザルチ氏は唇を少し舐めて考えてから、
「あなた、今お独りでしょう、家を捨てたいって、それは、引っ越しなさればいい話じゃないですか」
と話を続けた。アンドレが応えるのに、また間が空いた。
「確かにそうなんですが、引っ越しするのに荷物をまとめるとかが、嫌で嫌でたまらない、というより、あの家には、もう二度と入りたくありません」
そしてアンドレは急に紙コップを掴み上げて、一口ごくりと飲んでから、
「私は、あの家に入ったら、暴れたり、滅茶苦茶に壊して火をつけたりするんじゃないかという気がして、怖いんです」
と早口に付け加えた。
「それは、また…」
ザルチ氏は、再び言葉に窮した。慎重に考えながら、続ける。
「確か、結婚されたときに入居して、それからずっとお住まいでしたね。離婚後もずっと。普通に住んでおられたのに」
アンドレは頭を垂れた。ザルチ氏はもう一押し、質問を投げてみた。
「最近何かあったんですか」
アンドレは頭のてっぺんをザルチ氏に向けたまま、震えるような声で答えた。
「実は、一つには、変な手紙が、来る、というより直接ポストに入れられていまして、離婚した相手を名乗って、です」
「今更何の用だっていうんですかね」
「それが、頭のおかしいことが書かれていましてね。やり直したいと。最初の一通だけは読んでしまいましたが、後は読まずに弁護士に回しているんで、大体そういう内容だと聞きました」
アンドレは顔を上げて、ザルチ氏に向けて唇をゆがめて、笑い顔を作ろうとして見せた。
「彼らは今外国にいるんですよ。どこだか知りませんが。だから、別人が出しているんだろうという、弁護士の先生のご意見です」
「それは、気味が悪いですね。何回もそんなことがあったんですか」
「ええ、でもポストの前に防犯カメラを付けたらぴたっと来なくなりましたね。見張られているんですよ」
アンドレの声は相変わらず震えているが、その語気は次第に荒くなってきた。
「それだけじゃない、向こうには別れるように手紙が来たんだそうで、私が出したんだろうと責められる始末です。もちろんそれも弁護士を通してですが、冗談じゃないですよ。彼らが末永く一緒に暮らしてくれることを誰より願っているのは私だと思いますね」
「そのお気持ちはわかりますよ」
「いいえ」
アンドレはザルチ氏を見据えて首を左右に振った。
「ザルチさんにはわかっていただけませんよ。私は、自分が腐ってしまったような、取り返しのつかない、そんな気持ちです。なんとかして、結婚自体無かったことにできたらと考えてしまうんです。だから」
「だから、家に帰れなくなったんですか」
ザルチ氏は、アンドレの言葉を引き取った。しかし、答えは、違った。
「もっと悪い、ことが、あって」
震えはアンドレの身体にまで及び、歯がカチカチと音を立てて、話す言葉は途切れ途切れになった。
「私は、別に家には思い入れはなかった、だから、相手が出て行って、私はそのまま、住んでいたんです。ですが、その、あの家で、私の部屋で撮った写真、際どい写真ですね、そういうものが出てきたそうで」
「アンドレさん?」
「私が撮ったのだ、と、いう話なんですが、そんな馬鹿なことはしませんよ、私は。つまりあの家で今の相手とはまた別の、誰かとどうこうね、私はそれに何も気付かずに今までずっと住んでいたというわけなんです」
「それはひどい、とんでもない話ですね」
ザルチ氏はつぶやいた。アンドレは紙コップのコーヒーを飲み干すと、机の上に投げ出すように下ろした。視線をザルチ氏のいる側と反対の壁に向けて
「実に堪えました」
と付け加える。
「しかし、だからと言って会社にお泊りになっちゃあいけません。何より身体をちゃんと休めないと。うちに帰れば、寝るのは寝られているんですか?」
「いいえ、本当に8月の終わりから帰宅していないんです。弁護士から話を聞いたその晩から、ホテルを取りました。着替えやなんかはそのへんで買ってなんとか…ただ、ああいうところは、他の客の物音が耳について、それはそれで我慢がならない、それで時折こうして会社で過ごしていたわけです」
「ご実家は頼れないとしても、社長なりお友達に泊めてもらうというのはどうですか?」
「いや、こんな事情を話すのは、ちょっと」
「なるほどねえ」
ザルチ氏はうなった。
「そういうことなら、短期間で家具付きのアパルトマンでも借りられては?会社で契約している不動産業者から紹介させますよ、社宅扱いとはいきませんが」
と、提案しかけて、ザルチ氏は昼間社宅について検討していたことを思い出した。
「そういえば、社員で海外出張中に社宅の家賃を払いたくないと言っている者がおりまして、あなた、とりあえずそこへ入ってはどうですか。家賃を肩代わりするといえばきっと喜んで住ませてくれますよ」
アンドレは要領を得ない顔をしていたが、ザルチ氏は姿勢を改めてつづけた。
「役目柄申し上げますが、アンドレさん、あなたには落ち着かれるまで、仕事をお休みされることをお勧めします。もしこのような行動を続けられるなら、正式に役員会に諮ることになりますが、それは望まれるところではないでしょう?体調を考えてしばらく休むと、ご自分から申し出ていただけませんか。もちろん、内々に、私から社長にお口添えさせていただきます」
「いや、しかし」
と、アンドレは反論しかけたが、その後に続く言葉が出てこない。ザルチ氏がさらに、
「体調が万全でないのは事実ですよね?お休みの期間については、医師に相談していただけますか」
と付け加えると、アンドレは迷い顔ながら、うなずいた。
「ちょうど一か月ほど無人になる社宅がありましてね、遅くとも来週には入れるよう調整しますよ。ですから、もうしばらくの間、ホテルで我慢なさってください。それと、ご家庭のことは、仕事がなければ弁護士さんとじっくり相談もしやすいでしょう。私にも個人的に手伝えることがあれば、是非呼んでください」
ザルチ氏が立ち上がって手を差し出した。それを見てアンドレも立ち上がる。机越しに手を握り返すアンドレの肩をザルチ氏はいたましいような気持ちで抱いた。
こうして、アンドレ・マロは営業部のヨネスク氏が海外に出かけた間、その家に暮らすことになったのだった。




