訝しい
現社長もマロの一族で、アンドレにとっては従兄にあたるはずだ。翌日の午後、ザルチ氏は社長室を訪れる機会があったので、別件の報告のついでに
「最近、前社長の容態はいかがですか?」
と尋ねてみた。アンドレの父である前社長は数年前に脳卒中で障害を負って以来、長きにわたって療養中である。
「いや、特に話はないから、変わりないんじゃないかね」
「そうですか、アンドレさんが元気がないようにお見受けしたもので、何かあったのかと思いました」
彼が会社に泊まっている理由を知りたくて、遠回しに探りを入れる。
「アンドレが?そういえば昨日も、ちょっとぼうっとしていたかなあ」
社長はザルチ氏の顔を見上げた。どうやら、社長にも心当たりがないと見える。
「お忙しいのか」
といいかけるザルチ氏の言葉を、社長ははっきりと断ち切った。
「いや、彼には負担をかけないようにしているんだ。風邪でもひいたかな?離婚して以来、一人だろう、気をつけてくれる人も家にいないからね」
社長は記憶を辿るように額をさすって、言葉を続けた。
「ややこしいのと縁が切れてもう半年、一年近いしなあ。案外、誰かいい人と出会って、恋の病だったりしてね、それなら安心なんだが」
社長の気楽な言葉に、ザルチ氏はとりあえず笑って同意し、アンドレの奇妙な残業についてはまだ話すのを控えることにした。
その日の夜は、妻と出かける約束があったため、ザルチ氏はアンドレ・マロの退社を確かめることはせず、勤務時間終了後、早々に会社を後にした。ビルの正面玄関から出ると、太陽が西に傾き、街路には斜めに影が伸びていた。最近急に日が短くなってきたようだ、とザルチ氏がなんとなくあたりを見回した時、車道を挟んだ反対側の歩道に、気にかけていたその人の姿があることに気付いた。
アンドレは歩道に立って、会社の入っているビルを見上げている。鞄を手にしているから、帰宅するところなのだろうが、何を見ているのだろう。ザルチ氏はつられて自分も建物を振り仰いだが、彼のいる位置は真下すぎて、よくわからなかった。もう一度、アンドレ・マロに目を向けると、すでにこちらに背を向けて歩きだしたところだった。遠ざかるグレーの上着の背中を見つめてザルチ氏は首をひねった。
しかし、この場でアンドレを追いかけて、何を見ていたのかと問い詰めても、たいして役に立ちそうにもない。それにザルチ氏が妻と待ち合わせしている店は、アンドレの去ったのとは逆方向にある。妻との約束の時間が迫っていたザルチ氏は、不審に思いつつも、その場を立ち去ることにした。
ザルチ氏の妻は民族音楽が好きで、時折彼を演奏会につき合わせる。その日は約束通り、彼女のお勧めのなんとかいうバンドのライブを見てから、別の店で夕食にした。もちろん彼女もアンドレ・マロとは面識がある。なにしろ、お互いの結婚式に出席しあったのだ。ザルチ氏の結婚式のとき、アンドレはまだ小学生だったが。
ザルチ氏は夕食の席で、いきなりアンドレの話を持ち出したりしなかった。戦略的に、まず妻に好きなだけ語らせ、ほどほどに相槌をいれる。やがて皿が下げられ、話題が途切れるときが来た。そのタイミングを狙ってザルチ氏は、
「前社長のとこのアンドレ君だが、最近何だか様子がおかしくてね」
と持ち出した。妻は、
「あら。あの子、離婚してからは落ち着いたって言ってなかった?あの最中にはいろいろあって、大変そうだったけど」
と、少し首を傾げた。
「それはそうなんだが、何かおかしいというのは、会社に泊まり込んでいてね、それも3日ぐらい続けてだと思う。仕事は忙しくないはずなんだが」
「家に帰りたくないのかしら。掃除できないとかで。私の従弟のアルなんかそうだったのよ。離婚して、それまで掃除なんてしたことがなかったもんだから、みるみる家じゅう足の踏み場もなくなって、しょっちゅううちに来てはご飯食べていったもんだけど」
店の男が二人の前に菓子の皿を並べる。ザルチ氏はその間に妻の意見を吟味して、あり得る話だと思った。ただ、アンドレはそのへんは几帳面な性質のはずだが、口に出しては
「家政婦がいると聞いたがね」
というにとどめた。うっかりして妻の親族を下げるわけにはいかない。
ザルチ氏の妻はゆっくりとコーヒーを啜ってから、
「借金取りが来る、とかじゃ、ないわよね」
と遠慮がちに述べた。ザルチ氏は口を結んだ。前社長の療養は長期に渡っているが、これといった治療法があるわけでもなく、改めて大きな費用が必要になるとは思えない。アンドレは離婚時にまとまった慰謝料も得たはずだ。それから一年足らずのうちに、借金を抱えるまでになるだろうか。しかし考えてみれば、急に賭け事にはまるとか、投資に失敗しただとか、あるいは友人の保証人になってしまうとか、、借金の理由など、いくらでもある。
ザルチ氏が応えないので、妻は別の懸念を持ち出した。
「会社に泊まったりして、寝られるものなの?」
「さあ、そこが心配でね」
「身体が休まらないわよねえ」
「昨日は注意して帰宅させたんだが」
言葉を切ったザルチ氏を待って、妻は口を閉じた。
「実は、さっき会社をでるときに、彼が建物をじっと見上げていてね」
「会社の前で?なんだか、未練がある、みたい」
夫婦は見つめあった。