おかしい
人事部長こと、ザルチ氏が、なんとなくおかしいと感じたのは夏の終わり頃、部下から職場の鍵の異状について報告を受けたときだった。この会社の入っているビルでは、フロアごとに賃貸の契約をして、それぞれに鍵が用意されている。毎日各フロアの最終退勤者が戸締りをした後、鍵を地下の管理室に返却する。朝は管理会社がその鍵で扉を開けるのだ。ここ数日、当社の鍵の返却がなく、鍵はずっと開いているという。会社の鍵自体は、フロア内の所定の保管場所にあり、紛失しているわけではないという。
「誰か、連続で徹夜勤務するような状況だったのかね?」
ザルチ氏は部下に尋ねた。その場合、鍵をかけずに一晩中仕事をするということになる。
「聞かないですね。決算にしちゃあ、時期が早いですし」
「決算のために徹夜するような状況では困る」
部下の言葉に、ザルチ氏は経営層として妥当な反応をした。就業簿の最終勤務者を調べると、社員には極端な残業をしている者はいない、ということになっている。闇残業となると、野放しにしておくわけにもいくまい。
「実際に遅くまでいるのは誰か、それとなく聞いてみてくれ」
人事部の若い者に調べさせると、社員は普通に退勤しているが、このところ副社長のアンドレ・マロが残っているということがわかった。就業簿に役員は記録していない。まあ社員の問題でなくてよかったと思いながら、ザルチ氏は人事部門のオフィスを出て、経理部門の奥、電算チームの横をパーティションで区切っただけの副社長の席に向かった。
「マロさん、ちょっとお尋ねします」
「ええ、構いませんよ」
マロがパソコンから顔をあげた。ザルチ氏は彼の席に近づき、つとめて軽い口調で、
「最近遅くまで残られているのはマロさんですか?鍵の返却がないと管理会社から確認されまして」
と問いかけた。マロは額から前髪をかきあげ、事務椅子の上で背筋を伸ばした。
「すみません、管理会社に伝えておけばよかったですね。少し忙しくて、職場に泊まってしまったんです」
というのが彼の答えだった。
「それは大変ですね。なにか問題でも」
「いやあ、私の仕事が遅いだけですよ」
ザルチ氏の懸念を遮るように、マロは笑って答えた。離婚したマロは家に待つ人もいないので、職場に泊まるといっても大した問題ではないと思っているらしい。ザルチ氏は咳払いすると
「防犯上、よろしくありません。ほどほどに願いますよ」
と釘をさした。マロは苦笑いを浮かべて
「以後、気をつけます」
と答え、ザルチ氏もうなずき返すと、そのまま副社長の席を後にした。人事部門のオフィスへ戻りながら、アンドレ・マロはちゃんと寝ているのか、という新たな懸念がザルチ氏の心の内ではねまわり始めた。
そもそもこの会社は、合衆国に移民したマロの一族が開いた商店が起源なのである、と、ザルチ氏に聞かせたのは、アンドレの父である前社長であった。マロ商店は移民仲間に故国の食料品を販売するところから始まり、数十年かかってささやかな商事会社に成長した。そして、四半世紀前に中欧産のワインに注目すると、故国にも子会社を設立した。前社長はその時にアンドレを含んだ一家で、数世代ぶりに故国に戻ってきた。ザルチ氏は古くからの社員なので、マロ一族とはもはや家族ぐるみの付き合いになっている。アンドレは上位の役員ではあるが、親戚の子のようなものだ。
夕刻になって、勤務時間が終わると、ザルチ氏は机の上を片付けて帰り支度をしたうえで、ぶらりとオフィスを出た。社長室はもう灯りが消えて無人だ。コーヒーメーカーのある休憩コーナーでサッカーの話をしている若い連中の邪魔をしないように、遠回りした。経理部門のオフィスを出てくる社員に頷き返して、戸口から様子をうかがうと、経理部長は鞄を閉じているところだし、席に残っている社員はわずかだ。
アンドレ・マロは帰り支度をしてシュレッダーに向かっていた。
「マロさん、今日はちゃんと帰れますか?」
ザルチ氏が呼び掛けると、マロはあわててシュレッダーを止めて振りむいた。
「ザルチさん、おどろかさないでくださいよ」
「ははは、すみません。戸締りのことが気になりましてね」
「私はもうこれで失礼します。経理の彼があと30分残るそうですから、鍵は彼に任せますよ」
マロは経理部門でまだ席についている社員を示した。
「そうですか。3日ぶりのご帰宅だ。ゆっくり休んでくださいよ」
ザルチの言葉に、マロは一瞬目を泳がせたように見えた。そして、
「いやあ、まったくです、ではお先に」
と答えて、足元の荷物を取り上げた。職場に似つかわしくない、買い物袋が二つ三つだ。着替えでも入っているのだろう、とザルチ氏はにらんだ。
「また明日」
とザルチ氏が声をかけると、マロはいつものように軽く手を挙げて応え、オフィスを出て行った。マロの退社を見届けたついでに、ザルチ氏は経理部長に挨拶がてら、最近の忙しさについて二言三言問いかけたところ、やはり、普段と特に変わりないということだった。
マロは会社に連日泊まり込みで何をしていたのだろうか、と、ザルチ氏の懸念は深まった。ただし、子供のころから、その穏やかな気性を知っているアンドレに限って、例えば会社の金品に手をつけるといった単純な不正をするはずがないという信頼もあった。管理会社に、鍵の返却がなければ直接自分に報告するように依頼したうえで、ザルチ氏はしばらく、ひそかにアンドレ・マロの様子をうかがうことを決意した。