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恐れない

 ゲオルギ氏の言葉に、マータはトマト煮込みを掬いながら考えた。観光や旅行の仕事、それは確かにマータが夢見た「マージェレに人を呼ぶ」という目的に直結している。しかしマータが積んできた物を書くというキャリアは役に立ちそうにない。これまでの努力をいったん投げうって、方向を変えるというのは安全なのだろうか。そもそも観光の仕事といって、目指したらいきなり就けるものでもないだろうし…


 とにかく、会話を途切れさせたままではいられない。


「そういう、考え方もありますね。でも、なんかちょっと、違うみたいな」


 当たり障りなく、マータは答えた。老人は、ワインのボトルを取り上げてマータに示したが、彼女が首を振ってグラスを塞ぐ手つきをすると、自分のグラスに注いだ。最後のしずくを切ると、


「目的が変わるっちゅうのは、別によくあることやけど、そのことに気付かなんだら、なかなか難しいわな」


と言葉をつづけた。


「目的が、私、変わってしまった、って言われてるんですか」


「もう、あんたにとって、マージェレに人を呼ぶていうのは、二の次やないかいな」


「それは、どうなんだろ…」


マータには答えることができなかった。老人はしばらく黙ってワインを飲んでいたが、口調を変えた。


「けど、わしゃ、あんたが羨ましいで。あんたの年頃やったら、誰ぞ養わんならんたら、気兼ねがないねやろ?好きなことが出けるやないけ。自分が食うてゆくちゅうのはあるやろけど、好きな道を選べるちゅうのは、誰にでもさしてもらえることやない。思い込みで道を狭めんこっちゃ」


 グラスを持つ老人の手は、微かに震えている。彼の生きてきた時代は、マータなどの思いもつかぬほど、波乱に満ちてきたのだろう。やりたくてもかなわなかった事が、種々あるにちがいない。しかし、ゲオルギ氏は、


「もう、ほどほどにしとった方がええなあ」


と、ワインを置いて、給仕にコーヒーを言いつけた。コーヒーの香りから、マータの思いは父に移った。母の治療費のためにそれまで住んでいた農地を売却して、一家は病院のあるターエストに引っ越したのだが、父はその時に農家から勤め人への転職をしている。誰にだって、否応なく運命に進路を決められてしまう時があり、その時には死に物狂いで努力をするはずだ。今のマータならもっと余裕で闘える。


「そんなに、恐れなくてもいいのかな、変わることに」


コーヒーに向かってマータがつぶやいた。


「せや。あんたくらいしっかりしとったら、どこ行っても通用するわ」


老人の声は優しかった。


「どこ行っても、ってことはないでしょうけど、じっとしてても仕方ないですし」


マータは背筋を伸ばしてコーヒーを飲み干した。


「ごちそうさまでした。行きましょうか」


 結局、ワイン代だけゲオルギ氏が余分に出してくれることになって、二人は店を出た。マータが右手を出して、


「すごくいい店を教えていただいて、どうもありがとうございました」


というと、老人は年齢で濁った瞳でぎこちなくウィンクしてみせた。


「こっちこそ、別嬪さんとご一緒できて何よりやわ。ほな、元気でなあ」


手を握った後、軽く額に手をあげてから、ゲオルゲ氏は自分の用事に向かって歩み去った。


 店の前で見送ったマータは、なんとなく逆のほうへ足を向けた。マージェレへ帰る列車の駅はこの近くだが、まだ首都をなにも見ていない気がする。学生の時に王宮と都庁は見学したし、そういうのじゃなくて、お店をみようかな。マータは自分の服を見下ろして、いつものジーンズで来たことを一瞬後悔したが、入る店に気を付ければ大丈夫だろうと思い返した。


 少し歩いて、大時代なアーケード街に行き当たったのでそちらに曲がる。貴金属や外国の高級ブランド、銀食器に紳士服テイラーといった、敷居の高そうな店が軒を連ねているが、その合間に、アメリカのハンバーガーチェーンが胸を張って交じっていたりするのがおかしい。彫刻のあるアンティーク家具や、今時買う人がいるのだろうかと首をかしげるような喫煙具の店など、ショーウィンドーを眺めて歩くだけでも楽しかった。石畳の通路は、交差点ごとに車止めが設置されて自動車の通行ができない。荷物だけには気をつけて、マータはのんびりと歩いた。


 何ブロックかあるくと、普通の洋服やバッグの店があって、すこし街の雰囲気がくだけてきた。いかにも老舗でございと言わんばかりの、重厚かつ薄暗いコーヒーショップで、マータは特売のコーヒー豆を買ってみた。「ラジオ取扱」という戦前みたいな看板を掲げたままの携帯電話店の横には、気楽そうな中華料理店。中東系の店員がいる、世界中のナッツやドライフルーツを並べた店。マータはさっきコーヒー豆を買うんじゃなかったと後悔しながら、ミリアの好きそうな菓子類をあれこれと選んだ。


 大きめの書店がある。無料配布の求人雑誌を取り上げかけて、マータは手を止めた。無料の求人雑誌をあてにするのはやめよう。今の仕事だって、求人なんてなくって成人学校の講師の口コミで紹介してもらったのだ。そのかわり、不動産情報誌をもらっておく。まだ、首都に移るって決めたわけじゃないけど。もしかしたら、役に立つかもしれない。


 その先のブロックは、大工道具とか船外機といった、専門家相手の店が並び、酒場、質屋、階段しか様子のうかがえないホテル、道端に座って貴金属を売る謎の露店商や壁にもたれた酔っ払いが出てきた。このあたりはかなり下町のようだ。

 

 交差点に「北駅」を示す看板がある。知らないうちに、一駅分歩き切ってしまったようだ。そろそろ列車にのらないと、マージェレに返り着くのが遅くなる。マータはもう十分と判断して、アーケード街を離れて駅にむかった。高架のプラットフォームに立って、伸びあがって海のほうを覗いたが、ごみごみと立て込んだ石造りの小さな建物の群れの果てに、新しい工場や港の設備が壁のように並んでいて、わずかな隙間に灰色の雲だか海だかわからないものがもやもやしている。マータは鼻にしわをよせて、心の中で首都に向かって啖呵を切った。


「今度来たときには、海に沈む夕日を見せやがれ。でないと承知しないから」


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