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匂い

 ターエストの郊外から、地下を通って首都に出る高速路線に、マータは初めて乗り込んだ。料金が高いにもかかわらず、乗客はそこそこ多い。皆、首都に急ぐのだろう。携帯電話で声高に何かの打ち合わせらしい会話をしている人がいる。マータの前に座った白髪混じりの中年女性は、座席に陣取るなりノートパソコンを膝に広げてなにやら作業を始めた。これにはマータも驚いた。首都に着くまでの区間が極端に長いから、座ってしまえばこちらのもの、乗っている間の時間を無駄にはしないという気構えらしい。市内の地下鉄とは別世界だ。


 しばらくの間、車窓から眺める景色は闇ばかりなので、マータは窓ガラスに映った自分の顔を眺めるしかなかった。思い立って首都に向かったものの、何をしようという目論見があるわけでもない。ただアンドレ・マロがいうように、冷静な評価や判断なしに、故郷のマージェレで働くことだけを目標にしていたのはよくなかったかも、とぼんやり認識しただけだ。


 新しい車両の窓枠に彫りこまれた誰かの落書きを爪でなぞりながらマータは考えた。路線図によると、首都についてから4駅ほどあり、港の近くまでいけるらしい。とりあえずは終点まで行ってみて、ケイレブとミリアに向かい合うのは、もう少しだけ後回しにしよう。


 当ての無い物思いにふけるうちに、時間がすぎて、マータの向かいの座席の中年女性が急に猛然とノートパソコンのキーボードを叩き始めた。大声で電話していた男も、


「じゃあいったん切るぞ」


と言っている。もうすぐ首都に着くのだ。もう座席から立ち上がって出入り口の前に陣取ろうとする乗客もいる。マータの前の席の女性はばたんとノートパソコンを閉じるとショルダーバッグに押し込み、、立ち上がって出入り口のほうへ向かいかけた。


「あ、袋、忘れ物」


マータはあわてて呼び止めた。彼女が座っていた座席の隅に、小ぶりの布製の袋かカバーのようなものが落ちていた。女性は、驚いた顔をして


「ありがとう、うっかり落としたわ、これ大事なの。娘が作ってくれたのよ」


と中年婦人の親密さで早口に説明しながらマータから布袋を受け取ると


「ホント、ありがとうね、助かったわ」


片手でそれを振って見せながら列車を降りていった。マータも我知らず手を振り返していた。


 多くの人が首都側の最初の駅で降りたので、車内は閑散としてきた。マータにも、スマートフォンを出して位置を確認しようか、と思える余裕がでてきた。終点の駅で下りて地上に出て、高速道路の下をくぐれば港だ。フェリーの船着場と待合所がある。そこまで行ってみよう。マージェレは内陸なので、マータは海に憧れを持っていた。


 しかし、秋の雨模様の日に眺める海は、これといってマータに感銘を与えなかった。濡れたシーツを山積みしたような鈍色の雨雲の下に、同じ色合いの海面がべとりと広がっている。端のほうにはペットボトルだのオレンジの皮だのが膜状の灰汁をまとってちゃぷちゃぷと冴えない水音を立てながら揺られ、どこから流れて来たものか、いたるところに始末の悪いプラスティックや発泡スチロールの小片がぷかぷか浮かんでいる。潮の香りというよりは、溝の匂いだ、と突堤の先端に立ったマータは考えた。


 海の眺めに背を向けて、マータは振り返って都心のほうを眺めた。新しい高層ビルや色鮮やかな看板もあちこちにあるけれど、全体的に建物が灰色の石造りで統一されているので、すっきりした印象だ。この街で暮らすというのは、どんな感じだろう。


「ねえさん、すまんけど地下鉄いうんはどっちかいのう?新しいにできたやっちゃ」


マータが暇そうに見えたのだろう、フェリー乗り場から出てきた老人に尋ねられた。西部の人らしく、言葉に、なまりが強い。


「ああ、あそこの高速道路の向こう側で」


指差しかけたが、


「一緒に行きましょう」


とマータは言葉を結んだ。これ以上ここに居る用事もない。


「ほらおおきに、助かるわ」


老人は、杖を手に慎重に足を進めた。マータは


「バス乗り場のほうが近くですけど」


と進めてみたが、老人はかぶりを振って


「バスはどこにでもあるけど、地下鉄はこっちにしか無いさかいにな。乗ってみんならん」


と言い張った。


「西部は地下鉄無いんですか」


「そんなもんあるかいな。西部は岩山ばっかしや。掘るのが大変や」


「首都からターエストまでは岩山掘りぬいたのに」


マータはさっきの路線を思い出して言ってみた。


「言うても山一つやろ」


老人は杖の握りで首都の裏山を指した。


「ほんでターエストもそこそこの都会やろ。それやったら多少無理して掘っても採算が取れるがな。西部は山と山の合間にちょこちょこっと人が住んどる谷間が何十も続いとるんや。国の南の端までなあ」


「何十はないでしょ」


「うん、まあせいぜい二十かな。えらい所やで」


「でも奇麗な所なんですよね。城や、砦がたくさんあって、<緑の谷間に綴れ織の宝石ひそみ>」


マータが古い詩を引用すると、老人は足を止めた。

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