眠れない
マータが予想した通り、アンドレ・マロは寝室から出て台所を覗き込んだ。
「ごめん、起こしちゃった?」
マータは努めて軽く尋ねる。
「いや、寝てはいない」
「私もお腹が空いて、どうしても眠れなかったの。悪いけど勝手に台所を使わせてもらったわよ。食べたら静かにするから、ちょっとだけ待ってね。それとも調子が悪いときに料理の匂いはまずかった?」
「いや…」
マロは何を言いたくて来たのだろう。マータは素早く気を回す。変な方に話が向かわないように気をつけなくては。
「あなたも味見する?それとも深夜に食べるのは駄目な人?」
「その、何の料理なのかな」
「オニオンスープ。消化は悪くないと思うけど」
「じゃあ、少しだけ」
「はい、どうぞ」
玉葱少なめの汁多めでマグに半分ほどよそうと、テーブルの上においてやった。マロは立ったままマグを取り上げ、口に運ぶ。マータは自分用にはスープ皿に盛って、玉葱をスプーンですくった。まだ煮込み足りないが、食べるのに支障はない。
「ああ、うまいな」
スープを啜ったマロがしみじみとした声を出したので、マータはびっくりした。
「よっぽどお腹が空いていたの?」
「んー、食欲が、あまり無くてね、今日は食べてない」
「あら、それはお気の毒。水分はちゃんと捕ってる?」
マロがうなずく。
「そういえば冷蔵庫に水しかなかったわね。何も食料を買ってこなかったの?」
「来た日に、ピザを買ってきて、受け付けなくてね。それから食べるのが恐くて、ずっと水だけ飲んでいたんだ」
「ちょっと、それまずいわよ。吐いたら塩分補給しないと、体調悪くなる一方でしょ。貸して」
マロの手からマグを取り上げ、スープを継ぎ足して、玉葱が掬えるようにスプーンも添えて渡す。
「ありがとう」
マロは椅子を引いて腰を据え、少しずつスープを飲んだ。マータも腰をおろして玉葱を食べることにした。雨の夜の台所に、二人の食べる音が響く。
「ごちそうさま。温まったから、眠れそうだ」
スープを飲み終えたマロは、出会ってから初めて見せる柔らかい表情になっていた。
「どういたしまして」
食器を受け取る。マロはきちんと歯磨きをしてから寝室に向かったようだ。マータもそそくさと食べ終えて、簡単に片付けをする。自分も歯を磨き直して、寝室に閉じこもると、寝間着がないので下着姿になってベッドに入った。こうして独りになると、やはりケイレブのこと、ケイレブとどうにもならなかったことが思い出されてしまう。何度もため息をついたり、寝がえりをうったりしながら、マータは落ち着かない眠りに入った。
急に、不安定な眠りからら醒めた。マータは寝起きの混乱した頭で周囲を見回すと、父の家だった。と、いうことは聞こえてくる呻き声は、また、父が悪夢をみている声だ。起こしてあげなくちゃ。
父の寝室の扉をノックする。
「お父さん、起きて」
扉を開くと、呻き声が高くなる。
「お父さん、ねえ、ねえ、起きて」
ベッドの上で苦しんでいる人を、そっと揺さぶる。
「ああっ」
短い悲鳴を上げて目を覚ましたのは、父ではない若い男だった。あれ、夢を見ていたのは私だったの?
「大丈夫、ただの夢。もう怖くない」
マータは父だった男の頭を抱きしめた。脂汗がにじんでかわいそうだ。
「もう大丈夫、また眠れるまでそばにいるから」
いつものように父の枕元に膝をついて、額を掌でなでる。普段の父はこれでまた眠るのだが、今夜の父は手を伸ばして、マータの指を握りかえした。やはりこれは、マータの見ている夢だ。マータは父の枕の横に頭をつけて、目をつぶった。とても眠い。膝立ちしていた腰が床に落ちて、マータが目を覚ますと、ベッドの上の人は眠っていた。握った手は放されていて、マータは静かに身を起こした。少しずつ脳が働くようになってみると、目の前に横たわっているのは父ではなく、昨夜であった父の会社の人だ。
「うわ」
マータの眠気が吹っ飛んだ。誰だっけこの人。父の寝室で寝ることにした、アレクセイ?いやアンドレだ。アンドレ・マロ。ベッドから飛び退ろうとして、自分が下着姿のままであることに気づいてぺたんと床に尻をつける。く、暗いし、見えなかった、よね。じりじりと這いずるようにして父の部屋を出る。自分の寝室に戻って鍵を閉めると、マータはなんとか状況を整理しようとした。
母の死後、父が悪夢に苦しんだ時期があった。夜中に父の部屋から呻き声が聞こえると、目を覚まさせるのがマータの役目になった。その記憶があって、今夜も、マータは父が魘されていると思いこんで出かけて行ったわけだが、気づいたら眠っていたので、一部は夢が混ざっていると思う。どこからどこまでが実際に起きたことなのだろう。
下着姿で男の枕元で寝ていたこと、これは事実だ。一度彼を揺り起こしたのは、事実、だと思う。でも何も言われなかった。うん、会話はしていない。普通、寝ているところを起こされたのなら怒ったりする、少なくとも何事かと尋ねると思う。ということは、マロが恐い夢に魘されていたことは、事実、ということだろうか。これまで夢だったら自分の立場がない。答えが出ないうちに、空が白んできた。まだ雨は続いている。朝5時すぎ、彼が起きて居間に向かう気配がした。