泣けない
父からアンドレ・マロを説得してもらおうと思って電話を替わったら、マロは疲れた声で話し始めた。
「…マロです。ええ、部屋を。…いえ、娘さんにはこのまま泊まってもらいます。…私のことは問題なく信用して戴けると思いますが。ええ、…では、そちらの案件のほうをくれぐれもよろしく。失礼します」
いま泊まっていいって言ったわよね?彼はどこかへ出かけてくれるのかしら。マータがほっとすると、マロは通話を切ってスマートフォンを返してきた。
「お父さんの了承は得た。今夜は泊まればいい。私はヨネスコさんの寝室を使っていないから、あなたはそちらで構わないだろう」
「ありがとう。あなたはどうするの?」
「小さいほうの寝室に閉じこもるから、邪魔にはならない」
彼がどこかに行くんじゃなく一緒に泊まれと言っているんだ。マータは怯んだ。でも彼がここを正式に借りている以上、家主は彼だ。それにこの人、体調が悪いんだった。雨の中を出て行かせるなんて、私が嫌なのと同じくらいこの人にとっても酷な話だ。泊めてもらえるだけ助かったと思わなくては。でも、やっぱり知らない男性と一つ屋根の下というのは、怖い。
「悪いけど、そちらの部屋にしてもらえない?元々私の部屋だったの」
それは本当だ。そして思春期のころ、自分で内鍵をつけてある。父の部屋よりは安全に違いない。無闇に人を疑うわけではないけれど、これぐらいはしなくては。マロは肩をすくめた。
「私が二日泊まった後だ。自分で掃除なりベッドメークなりしてくれ」
マータがうなずくと、彼は立ち上がって、部屋からキャリーバッグと衣類を運び出してくれた。マータは戸棚からシーツ類を取り出し、入れ替わる。かつての自分の部屋だが、ミリアとルームシェアを始めたときに片付けて出て行ったので、私物はまるでない。ただカーテンや壁紙が懐かしいだけだ。今は何となく男の匂いがする。なるべく何も考えないようにしながら、シーツとカヴァーをとりかえて洗濯機の横に運び、そそくさとと洗顔をすませると、リビングの様子を窺った。マロは父のCDラックをを見ていた。
「マロさん、泊めてくれてありがとう。助かったわ」
「いや、気にしないで」
「じゃあ、おやすみなさい」
「ああ」
部屋に戻って、内鍵をかけて、ベッドの上に横たわる。12時前か。スマートフォンを見たが、ミリアからの連絡はなにもない。と、いうことは今頃、ケイレブとうまくいっているのだろう。胸も背中も、重苦しい。ケイレブとミリアには共通の友人がいて、そのグループで遊ぶことが多かった。マータは人数あわせで誘われて、何度か参加した。マータは人見知りをするほうではないが、多少は浮いていたことがあったのかもしれない。ケイレブは巧みに話題を振ったり、突っ込みをいれたりして盛り上げてくれる、とてもいい人だった。ちょっと暑苦しいほど睫毛が長くて、少しだけ猫背で、「彼女欲しい」が口癖で、そこでマータが「じゃあ私が」とかなんとか言えていたら何かが起きていたのかもしれない。ミリアは一度「あたしというものがありながらー!」とふざけて殴り掛かったっけ。
声を押さえて泣いたなら、家主の邪魔にはならないだろう。居間を挟んで離れた寝室のドアがしまる気配が、さっきした。でも、泣いてもいいんだ、と気をゆるめても、なぜか思っていたほど涙がでてこない。しばらくため息をつきながらぐずぐずしていたが、ついにマータは起き直った。静かにドアを開いて、台所に忍び込む。
一か月だけ部屋を貸すなら、父の買い置きの食材がまだあるだろうと見当をつけた通り、貯蔵庫に玉葱の籠があった。ベーコンは冷凍庫に入れられていた。卵とパンがないけど、まあいい。それにしても冷蔵庫は空っぽだ。ミネラルウォーターしか入っていない。あの人は外食派みたいね。マータは冷蔵庫を閉じた。
玉葱を3つ選んで皮をむくと、片っ端から薄切りにした。これで涙がこぼれるんじゃないか、と期待したんだけれど、効果はいまいちだ。こんなに惨めな気持ちなのに。思い切って玉葱を切った手で目をこすってみる、これは痛い。さすがにぽろぽろと涙が出た。この勢いに乗ろうと
「ケイレブ」
と唱えてみたけれど、マータの心のどこかで、ここまでくるともう完全に演技だよね、という声がきこえて、泣くことができなかった。
大なべにオリーブオイルと塩を温めて、玉葱をゆっくりと炒める。甘く香ばしいかおりが立ち込める。そういえば、結局夕食を食べていない。
ミリアはケイレブを狙うって、以前からマータに話してくれていたのだ。その時にマータが私もケイレブが好きみたいって、ちゃんと宣言しておくべきだった。それをしないで、いまさら、二人が深い仲になることに傷ついて泣いても遅い。自業自得だとわかっているから、涙がでてこないのかもしれない。
玉葱がとろっとしてきたところを見計らって、水とスープストックを追加し、凍ったベーコンをなんとか刻んで放り込む。なべをかき混ぜていると、父の寝室のドアが開いた。まずい、起こしちゃったか、と恐縮しながらも、さりげなくマータは包丁を手近におきなおした。