難しい
マージェレは、昔は首都と肩をならべるような大きな町だったという話だが、今はただの地方都市だ。戦前の重厚な建物、冷戦期の素っ気無い建物と現代の派手な建物が混在する町並みを、醜悪だとけなす人もいるが、意外な組み合わせが楽しくて、マータは好きだ。
仕事を請け負っている会社は、地方新聞社の系列の出版社で、市の中心部ではあるが、駅からも市庁舎からもそこそこ離れた小さなビルに入っている。この町には地下鉄はない。普段なら歩く距離だが、今日はバスに乗ろう。列車が少し遅れたため、急いだほうがよい。
マータはバスを降りると、少し歩いた。これといって、特徴のない通りだが、古びたカフェを通りすぎると、コーヒーと何かおいしそうな香りがした。その次は何かの会社、彫像のある事務所、小さい商店、交差点、その先が目指す出版社だ。現代のビルだが、そっけない部類だと思う。
マータは受付に会釈して、3階まで上がり、パーティションで区切られた会議コーナーに入った。パソコンを出したり、準備していると、もう一人の外注のバルトが入ってきた。いつものとおり猫背なうえに、髭と眼鏡とで、浮世離れした雰囲気の男だ。お互いに軽く挨拶するけど、別に会話をしたりはしない。バルトは、人と馴れ合うのが苦手という、この業界では損な性格の持ち主であることをマータは知っている。マータと違って大学でジャーナリズムとかを修めて、優秀なのに、請負仕事にとどまっているのはそのせいだろう。
担当者のヨナスは10時を過ぎても姿を現さない。前の仕事が押しているのだろう。よくあることなので、気にせずにマータは自分の作業を進める。バルトは分厚いスケジュール帳を捲っていたが
「ヨネスク、ここの仕事は、そろそろ一年ぐらいか?」
と話しかけてきた。
「まあそうだけど。どうして?」
マータはパソコンから目を離さずに答えた。
「いや、前に、」
バルトが訥々と答え始めたところで、担当者のヨナスが急ぎ足で現れ、話は途切れた。
「おう、始めるぞ」
ヨナスは遅れたことを謝ったりしないのが通常で、ひどい場合はいきなり外注者たちを罵りながら姿を見せる。親会社である新聞社から、こちらの出版社のテコ入れのためにやってきたという触れ込みだけあって、仕事に関しては厳しい男だ。この会社の仕事を始めたときは素人同然だったマータが、ヨナスから教えられたことは多い。眼鏡の下の目は厳しく、舌鋒は鋭い。この業界には眼鏡も髭も多いけど、バルトとヨナスでは印象が全く違う。ヨナスの紫のフレームの眼鏡は、周囲に与える印象までしっかり計算した自己演出だ。
定例の打ち合わせは昼で終わり、マータはめずらしく褒められて、新しく、小さな小さなコラムを書かせてもらえることになった。報酬が増えるわけではないが、単なるお店情報なんかを書くのとはわけが違う。この調子で仕事をがんばらなくてはいけない。ケイレブを気にしてだらだら仕事をするのは昨日限りだ。マータは唇をぐっと結んだ。
ヨナスは誰かとランチミーティングの予定があるとかで、大股に立ち去り、マータが荷物を仕舞っていると、バルトが口を開いた。
「ヨネスク、あんたの前任の女は、ここの社員になったが、辞めたらしい」
「あ、そうなの。バルトと仲良かったの?」
バルトは首を横に降った。どういう話なんだろう。普段あまり雑談をしない相手なので、マータは不思議に思った。
「誰かが代わりに採用されるかも、っていうこと?だったらバルトはもっとアピールしなくちゃ」
「いや、声がかかるなら、俺よりヨネスコじゃないか」
「そんなことないでしょ。バルトのほうが経験あるし、難しい記事書いてるじゃない」
バルトは髭の伸びた顎をこすって
「上から見て、都合がいいってことだ」
と答えた。
「何なの、それ。声掛けられたら、実力ないんだから私の方から遠慮しろって?」
バルトはまた首を横に振った。両手もそれにあわせて振った。
「すまん、あんたを馬鹿にしたんじゃない」
「私だって怒ったわけじゃ」
マータの口調は、怒っているととらえられることが多いが、大抵そんなつもりはないのだと、釈明しようとしたが、バルトは、
「うん、まあ、忘れてくれ」
と、言い残すと、荷物を取り上げて出て行ってしまった。会話が面倒になったのかもしれない。残されたマータは大きく肩で息を吐いた。社員に採用されるなら、学歴からみても実績からみても、バルトのほうがふさわしいに決まっているが、本人はコミュニケーション面に劣等感を抱えているようだ。うまくいかないものだ。
さて、午後も、この会社で事務手続きの用事が残っているのだが、マータ独りではこの社内のどこかでお昼を食べるのは気がひける。いったん建物を出て、近辺の屋台でハンバーガーとポテトフライを買うと、バス通りから奥まった方向にマータは足を向けた。マータはこういうときには、水はけの悪い小さな公園へ行くことにしている。いつでも地面がぬかるんでいるので、アンダーグラウンドな連中もたむろせず、靴は汚れるが、安心だ。