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「もし、かまわなければ、手を」


これが、ベッドの上のバツいち30男の口から出た言葉だと思うと、可憐過ぎて笑ってしまいそうだ。マータはベッドにもたれて床にすわったままアンドレ・マロの膝に右手を伸ばし、届きそうにないので向きなおって、左手でマロの右手をつかまえた。つかまえたその手が動いて、親指を握り返される。指が汗ばんで、冷たい。


マータは空いた右手でベッドの上に頬杖をついて、なにを話そうか、と考えた。


「マロさんねえ、ずっと父のCD聞いてるけど、おもしろいの?」


「どうかなあ」


マロは咳払いをして


「その、聞いている間は、ほかの事を考えなくてすむ」


「なんかクラシックしかないでしょ、モーツアルトとかショスタ、ショスタコビチとか、同じようなのばっかり」


マロは笑い声を出した。良かった。


「ベートーベンの交響楽全集ばかり、5種類くらいあるね」


「マニアかよって思っちゃうよね」


「折角だから、順番に」


「ベートーベン全集聞いてるんだ」


「うん」


「ベートーベン、好きなの?」


「そうでもない。あれは好き嫌いを超越している」


「どういう意味?」


「誰でもどこかで聞いた覚えがある、定番中の定番」


「第九とか」


「そう。他のも、映画とかTVのBGMで使われたりするし」


「いい曲なの?」


「うーん、どうかな」


マロは少し考えた。


「どこかで耳にしているせいかもしれないけど、こうなってこう来るだろうな、っていう、お約束どおり、かな?」


「音楽でそういうの、よくわからないけど」


「まあ、そういう曲ばかりだから、聞いていてものすごく安心できる」


「そうねえ、ハリウッド映画とかで、途中何があっても絶対にラストはハッピーエンドになるのがわかってるから、安心して観れるみたいな」


話しながら、マータはケイレブのことを思い出してしまって、胸が苦しくなった。現実にはハッピーエンドって、ぜんぜんないんだよなあ。頬杖をついていた腕に顔をうずめるようにして、こぼれそうになった涙を隠す。


「そんな感じかな」


マロは穏かに答えると、左手を伸ばしてマータの髪をそっと指で梳いた。マータは身をこわばらせた。


「悪いね、眠いのにつきあわせて。もう少しだけ、こうしててもいいかな」


「ちょっと!」


涙声になりそうでマータは言葉を切った。その間もマロの手櫛は、控えめに続く。思いのほか優しい手つきに、


「ちょっと、だけなら」


顔を伏せたまま、思っていたのと違う答えを続けてしまった。マロはしばらくの間、黙って手を動かしていたが、マータが反応をしないでいると、手を引っ込めた。マータはのろのろと顔を上げ、握っていたほうの手を離すと、普通の表情をつくろった。一度だけ、鼻がぐすっと鳴ってしまったけれど。


「そろそろ眠れそう?」


マロは、マータの顔を、量るように見て、うなずいてから、逆に聞き返す。


「明日の仕事、大丈夫かな?」


「このぐらい平気。じゃ、私戻るわ。おやすみなさいね」


マータは床から立ち上がり、戸口へ向かう。


「おやすみ」


マロの声がさびしそうな気がしたけど、振り返らずにマータは自分の部屋に戻って、ベッドに入ると急いで目をつぶった。5時に起きるつもりなら、全力で眠らないといけないからだ。その甲斐あって予定時刻に目をさますことができた。


まだ、外は暗い。静かに台所に向かうと玉ねぎと人参とカブとベーコンを細切りにし、トマトの缶詰を入れて煮込む。どっしりしたパンを多めにスライスして、チーズとハムと少しの玉ねぎをはさんでラップに包んでおく。夕食の時刻までなら持つだろう。昨日の重めのスープに火を通しながら、マロに頼みたい洗濯物をまとめて洗濯機に入れる。温もったスープを食べてから、残りに「こちらを先に食べて」とメモを残す。最初に着てきた服に着替えて、さっと化粧をして、7時を過ぎた。ぼちぼち出かけないと。


ちょうどよく、マロが部屋から出てきた。


「あ、うるさかった?」


「いや」


眠そうに、Tシャツの首元を掻いている。眠れた?と尋ねるのがいいのか、悪いのか、マータにはわかりかねて、ただ様子を観察した。髪に寝癖があって、目の下の隈が薄れているように見える。寝たんだよね?体調は、きっと来たときよりは、良くなっていると思う。


「私そろそろ行くけど、洗濯してほしいものはまとめておいたから、後よろしくね」


「うん」


マロは目をこすって、マータの顔を見た。何かいうのかな、と思ったらまた眠そうにうつむいた。その髪を、犬にするようにくしゃくしゃとかき混ぜててやったらなにかしゃべるだろうか、一瞬マータの脳裏にそんな衝動がよぎった。あわててリュックをとりあげて玄関に向かう。マロも後ろからついてきた。やだ、なんだか本当に犬っぽい。


扉の前で、


「じゃ、行ってきます」


と振り返ると、マロは片手を上げて


「気をつけて」


と、もごもごとした調子で応じた。ちょっとかわいい。マータは我知らず微笑みながら、マージェレの職場へむかって出発した。

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