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宿がない

自分の憧れていた人が、自分の親友と付き合い始めたら、誰だって凹む。今日のマータに起きたことは、それよりも何倍も酷い。仕事の取材に思ったより時間がかかって、帰宅の途についたのは夜の8時。お腹が空いたけどテイクアウトの店はあらかた閉まる頃だ。ルームシェアして暮らしている親友のミリアがたまたま料理を多めに作っていたりすればいいけど。歩きながらスマートフォンを確認すると、一時間ほど前にミリアからメッセージが入っていた。


『ごめん、今日どこかで泊まってきて』

『ケイレブが来てる』

『勝負決めたい』

『お願い、頼んだからね』


嘘。


マーサの足が止まる。ケイレブとミリアは仲が良かったけど、まだ付き合っているわけではなく、マータにだって望みがあるかと思っていたのに。メッセージに気づかなかった振りで乗り込んでやろうか、とも思ったが、そんなことをしても惨めになるだけだ。わかっている、ケイレブとマータは、ミリアを介して何度か一緒に食事しただけの間柄でしかない。どんなに彼が素敵でも、いや素敵だからこそ、二人の邪魔をすることはできない。


『了解』と一言だけメッセージを返す。スマートフォンをポケットに戻して、背中のリュックをゆすりあげる。このパソコンさえあればしばらく仕事に支障はないし、今晩どこへ行こう。ぎゅっと目を閉じて考える。あふれた涙は、ほんの少しで済んだ。ホテルに泊まる余裕はないし、友達のところへいって事情を話すのは御免だ。父の家に行こう。電車で一時間だ。この時刻なら十分行ける。マータは駅に向かって歩き始めた。


雨が降って電車は遅れて、マータが父の住む都市に着いたのが結局二時間後。地下鉄に乗り換えてタクシーを拾って、アパルトマンまでたどり着いたら11時前だった。疲れすぎてもう空腹すら感じない。途中でなんどか連絡を入れたが、父は仕事中なのか、メールにも電話にも反応がなかった。ワーカーホリック気味の父には珍しいことではない。しかしアパルトマンのドアを開けると明かりがついていた。


「お父さん、いるのー」


声をかけながら居間を覗き込むと、父ではなく見知らぬ男が顔を上げて、マータは固まった。


「誰?」


二人の口から同じ言葉が出た。


見知らぬ男が、父のステレオのそばの椅子に腰を下ろして、テーブルにはミネラルウォーターのボトルと、数枚のCD。父の姿はないが、どうやら泥棒の類ではなさそうだ。


「父の、お客さんですか?」


「ヨネスクさんの娘さん?」


男は大きく息を吐いて椅子の背にもたれかかった。


「そうですけど、あなたはどちら様ですか。父はどこなんですか」


男は額を握りこぶしでこすると、疲れた表情で答える。


「私はヨネスクさんの会社の者で、彼が一か月外国に出張している間、部屋を借りているんだ」


「え、出張、いつ、どこに?」


「三日前からモルドヴァだ。彼はあなたには連絡しなかったのかな」


「私たちはお互いに忙しいの。さっきから父に電話しても出ないんだけど」


「ちょっと待って。社に電話してみる」


男はスマートフォンを操作した。


「…私だが、ヨネスクさんに連絡がつかないかな。娘さんが訪ねて来たんだ。…うん、娘さんへ掛けるようにと、伝えてくれ。遅くにすまない。…大丈夫だ。じゃあ」


マータに向き直ると

「ヨネスクさんから電話してもらうから、もう少し待って」

といい、マータが今の入り口で立ったままなことに気づいたらしく、少しよろめきながら立ち上がった。

「私はアンドレ・マロ。良かったら座って話さないか。少し体調が悪くてね」


「あ、どうぞ、座って。私はマータ。普段はマージェレに住んでいるんだけど、今日はこちらに泊まろうと思って」


マータは戸口のそばの椅子を選んだ。


アンドレ・マロと名乗った男は、座ってミネラルウォーターを飲んだ。30代前半だろうか。やや長い薄茶の髪で、眼の下に隈がでている。体調が悪いというのは本当のようだ。髭はなく、ジャージやTシャツではなく白いドレスシャツを着ているところも、折り目正しさを感じさせられた。


「生憎だが、今は私が借りている」


「父の口から聞くまで信用できないわ」


マロは眉間のあたりを揉んで、答えない。マータは焦っていた。父がこの男に家を貸したというのが事実なら、あてにしていた宿がなくなってしまう。雨の中追い出されたらどうしよう。10分ほどたって、父からマータに電話がかかってきた。


「お父さん、どういうこと?泊りにきたら知らない人がいるのよ」


『おい、マータ、間が悪いな。お前何年もうちに寄り付かなかったじゃないか』


「何年もって、10か月ぐらいでしょ。本当に会社の人に貸したのね?私泊まるところがないのよ』


『家賃が無駄になるからな。お前はどこかホテルにでも行けばいいだろう』


「お父さん、もう真夜中よ、雨もひどいし。…ねえマロさんに一晩外してもらうように言ってくれない?」


『マロさん?』


そこへ、マータの視界にマロの伸ばした手が入ってきた。


「替わろう」


良かった、話が早いわ。安堵したマータからスマートフォンを受け取ったマロは、しかし思いがけないことを言い出した。





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