味覚
俺は走った。
一心不乱に走り続けた。
俺が人化スキルを手に入れて、おっさんを殴り飛ばしたときはどうやら夜だったみたいだ。
適当に建物の中を走って外に出ると月明かりだけが周囲を照らしている。
パッと見た感じでは電灯などが一つもない。
だが、これは逃亡しようとしている俺にとってはプラスになる。
俺は月明かりだけを頼りにして建物から離れるように走り続けた。
ここは何処なんだろうか。
明らかに日本ではないことが分かる。
道路は石畳でできており、周りの建物はレンガ造りの家だ。
獣人らしき人もいたことを考えると、ここは西洋風のファンタジー世界なのかもしれない。
夜遅いためか、周囲は静まり返っている。
入れそうな店もないため、俺は適当な路地に入り込み、壁に持たれるようにして体を休めた。
人化している状態でもきっと俺という存在は便器なのだろう。
特に眠気は感じなかった。
だが、夜は寝て体を休めるものだという常識が頭のなかにある。
眠る必要はないが目を閉じて体から力を抜くことにした。
そして、そのまま一晩を路上で過ごした。
翌朝になって太陽が上ってきてから俺は動き出すことにした。
適当に歩いていると共同で井戸を使っているところを見かける。
電気も見当たらないが水道もないのかもしれない。
俺は井戸を使う人がいなくなった頃を見計らって、水を汲むことにした。
井戸から水を汲むと、桶の中の水が俺の姿を映し出す。
そこには黒目黒髪の俺の姿があった。
日本で生活していたころの俺と全く一緒の姿だ。
空手を小学生の頃からやっていたので運動はできる。
だが、身長が伸びずに小柄で顔も中性的な感じのためよく中学生くらいに間違われていた。
しかし、間違いなく高校2年生の17歳の俺の顔だ。
やはり、あの時トラックに引かれてしまって転生したのだろう。
まあ、人化して顔の作りが便器みたいにならなかっただけよしとする。
とりあえず、この姿なら歩き回っても不審がられることもないだろう。
俺は、この街のことや自分の身に何が起こったのかを調べるために行動を開始した。
逃亡する際に身ぐるみを剥いだおっさんからお金も頂戴してきている。
多分、この金銀銅を使ったコインが通貨として使えるはずだ。
人の姿で生活すなら金銭感覚も必要だろう。
俺は適当なものでも買いながら情報収集をすることにした。
どうやら、この街は迷宮都市カンセルというらしい。
迷宮というのはいわゆるダンジョンと呼ばれるもので、迷宮の中に入ると階層式の空間が広がっているのだという。
そして、そこにはモンスターが生息しており、モンスターを倒して素材を手に入れたり、迷宮内で採取・採掘できるものを持って帰ることで報酬を得るのだそうだ。
俺ってもしかしてモンスターだったりするのだろうか。
便器型モンスターでないことを祈ろう。
「らっしゃいらっしゃい。そこのお兄ちゃん、串焼き食っていかねえか。安いよ美味いよ」
俺が歩いていると屋台のおっさんが声をかけてきた。
何の肉かは分からないが、炭火で焼いてタレを掛けている串焼きを売っている。
そういえば、転生してから何も食っていないことを思い出した。
と言ってもあまり腹は減っていないんだが。
だが、久しぶりに食べてみてもいいかもしれない。
そう思って串焼き一本をおっさんから買い、歩きながら食べる。
「ガッ。うえ……まっずい……」
だがしかし、串焼きを一口食べると思わず吐き出してしまった。
何だよこれ。
めちゃくちゃまずいじゃねえか。
よくこんなもん売りつけやがったな。
今すぐ引き返して文句を言ってやろう。
そう思って屋台の方を振り返ると、他の人が同じ串焼きを買って食べていた。
恋人同士なのだろうか。
若い男と女が二人で串焼きを分け合って食べている。
しかも「美味しい」「うまい」と絶賛しているではないか。
どういうことだ?
一口目でとても食べられないほどまずくて吐き出してしまったんだぞ。
うまいわけないだろうが。
そう考えていたが、他にも屋台で串焼きを買う人がいる。
だれも文句をいうような気配はない。
もしかして俺の味覚がおかしいのか?
呆然と屋台を見つめていたら、視界の端でボロ切れを着た子どもがいた。
こっちを見ている。
じっと動かずに俺を見ている子どもというのはどこか気味悪さを感じるものだ。
だが、いいことを思いついた。
俺はその子どもに近づいていった。
目があったからかビクッと体を震わせる子ども。
だが逃げることもなかったため、そいつの前に仁王立ちになってこう言ってやった。
「おい、この串焼きまずくて食えないからお前が食え」
子どもは何を言われたのかわからなかったのかキョトンとしている。
しかし、俺が差し出した串焼きがいつまでも引っ込められないというのが分かって、慌てて串焼きを奪い取るように受け取った。
ガツガツと食べ始める。
よほど腹が減っていたのか無我夢中で食べていた。
「どうだ。くっそまずいだろ。まずかったらあそこの屋台に文句行って来い」
そう言うと、首をブンブンと横に振る。
そして、かすれて聞き取れないくらい小さな声で「おいしい」といいやがった。
マジで?
この世のものとは思えないくらいまずいだろ。
だが、子どもはあっという間に串焼きを食べきってしまった。
満足そうな顔をしているところを見ると、うそをついているようにも見えない。
久しぶりに食べ物を口にして、俺の味覚がびっくりしたのだろうか。
そう思って、今度は別のものを食ってみることにした。
少し先に進んだところにある果物やでリンゴっぽいものを買ってみた。
目の前で年寄りの婆さんが買っていったのを見る限り、これも食べることができるはずだ。
「う……だめだ、まずい……」
しかし、これもダメだ。
さっきの串焼きと同じくらいまずい。
どんなに我慢しても食べられそうにもない。
食べ物を捨てるなんてもったいない、と育てられてきた俺だがいくらなんでも無理だ。
こいつは捨てよう。
そう思ったら、さっきの子どもが俺の視界に入る。
なんかチラチラとこちらを見ている。
ポイッとリンゴもどきを放り投げたら、そいつはそれを空中キャッチしてパクパク食べ始めた。
やはり、美味しそうに表情筋を緩ませながら食べている。
これはいよいよ俺の味覚に異常が起きているようだ。
まあそうは言っても、腹が減ることもなさそうだし問題ないかもしれない。
食事も睡眠も必要ないということになったら、精神的に大丈夫なのかは気になるところだが、食えないなら仕方がない。
諦めも肝心だろうと思った。
が、俺の考えとは裏腹に、今俺の目の前に急に「美味しそうだ」と感じるものが出現した。
俺はひどく動揺している。
それは目の前をガラガラと音を立てて通り過ぎた荷車を引く馬がボトリと落としていった馬糞だったからだ。
なぜ馬糞がこんなにもうまそうに見えてしまうのか。
恐怖で全身がガタガタと震え出す。
もしかして、俺の食事は排泄物でなければならないのか?
そんなの嫌だ。
トイレ代わりに使われるが嫌で逃げ出してきたんだ。
何が悲しくて、自分からそんなもんを食わなきゃならないんだ。
しかし、体は正直だった。
グーッとお腹がなってしまう。
この場に留まっていてはいけない。
そう思って俺は馬糞から逃げるように走り出した。
どこをどう走ったのかは分からない。
だが、俺はあるところにたどり着いてしまった。
それはこの街に設置されている公衆便所だった。
無意識に走っていたつもりだったのに、自然とトイレに向かうなんて。
こんなことってないよ。
ガックリと地面に膝をついてしまった。
が、その時公衆便所から人が出てきた。
西洋風の金髪美女だ。
まるでハリウッド映画にでも出てきそうなスタイルのいい女性だった。
え?
この公衆便所ってこんな美人も使ったりするのか?
いや、よく見てみるとどうもこの便所は女性専用であるらしい。
その時に浮かんだ考えを俺は振り払うことができなかった。
おっさん連中や馬の糞と比べたら、ここは天国ではなかろうか。
同じ排泄物であっても女性のもののほうがまだいくらかマシではないかと思う。
そう思ったら、フラフラと引き寄せられるように公衆便所に入っていってしまった。
俺はもしかすると二度とここから出られなくなるかもしれない。
そう思いながら公衆便所の個室に入り、人化を解いた。