88.高鳴る鼓動
今回は主神目線でお送りしております。
彼は日に焼けた小麦色の肌を、現在は蒼白にして。
這う這うの体で逃げている真っ最中だった。
事の発端は、昨日。
身に覚えはなかったが、何故か襲撃された。
いや、他の誰か……特に女性関係のアレコレで襲撃されたならまだ納得はした。
特に相手が自分の正妻ならば……いや、やめよう。
襲撃される可能性は、気付かない身近なところに転がっている。
それでも、天界でも『触らぬ神に祟りなし』といわれている『彼』に襲撃される謂れはなかった筈だ。
だけど現実に襲われた。
納得がいかないまま、ぼこぼこにされた。
自分が何をしたと訴えれば、此方を足蹴にしながら『彼』は一言こう言った。
「身内の監督不行き届き」
………………そう言われたら、納得は出来ないが、抗議も出来ないんだが。
身内と言われても、それぞれもう良い年だ。
身内の監督などと言われても、それぞれが個性的で濃い面子も多く……主神だから、一族の長だからと言われても、監督なんてしきれる筈がないわ!
そう言いたかったが、その主張が通る相手ではなかった。
無念。
不意の嵐に巻き込まれたとでも思って、甘んじて拳を受けた。
これで後々の追及を避けられるなら、廉いものだった。
不本意ながら殴られるのには慣れている。嫁関係で。
どんとこいとは言えないが、殴られても泣かない程度の強さはあった筈だ。
だが、私の受難は終わりを告げた訳ではなかったらしい。
むしろ、それが始まりだった。
怪我の療養。
その名目で、私は可愛い女神の神殿に転がり込んだ。
前々から遊びに来たいと思っていた女神の神殿だ。
丁度良く、襲撃場所から近い場所にあった……これも天の采配。
天に住まう神である私だからこそ許される幸運というもの。
傷ついた主神の看病を望まれ、門戸を閉ざす者はいない。
……門戸を飛ばす者はいたがな。
そんな非常識な輩でもなかったので、女神は微笑んで私を迎え入れた。
「まあ、今日は愛らしいお姿ですのね」
「魔境関係者に襲われたからな。暫くは念の為、この姿でいるに限る」
気休めにしかならなかったが、心を強く保つにはこうするしかない。
何故かは知らんが……魔族は、人間の幼体に弱い。というか甘い。
魔境関係者に襲われた直後にそれを思い出した私は、女性と楽しく戯れながらも魔境関係者の手が緩みそうなギリギリの年頃に姿を変えていた。
念の為だ、念の為。
あれだけボコボコにされた後だ。
またすぐに殴りに来られるということはないだろうが……数日はこの姿の方が良さそうだ。
「かわいそうな主神様」
程よく女神の気も引けて都合が良いしな!
「ふはは、今日こそはお前の良い返事を聞きたいものだ」
「あら。ふふ、主神様ったら。私などに目を留めて下さるのは光栄ですわ。でもせっかく主神様をお持て成しする為に可憐な娘達を集めましたのに……私一人をお相手に、なんていけずなことは仰らないで?」
「……む?」
「主神さまー❤」
「きゃあ、主神様お可愛らしいわー❤」
「やぁん❤ わたくしのことも見て下さいませ、主神様ぁ」
「おお……これはなんと芳しき花々だ」
私の為に女神が集めたというのは、若き神々や妖精、半神の娘達。
いずれも普段であれば私に目通りすることもない、下位の者達だが……
位が低くても、麗しさに偽りはない。
接する機会の少ない階級の者達な為か、あまり馴染みのないノリだが……悪くない。
娘達は女神の合図で一斉に私を取り囲み、惜しみない笑顔で甲斐甲斐しく振る舞う。
常であれば正妻の目が気になるところだ。
だが、ここに正妻はいない。
こんなに遠慮なく娘達に尽くしてもらえる機会は、滅多にない。
悪くない気分で私は娘達の酌や他愛ない質問に応えていった。
……娘達がちやほやとしてくれている間に、いつの間にか女神が消えていたが。
私はそれにも気付かず、極上の美酒に溺れていった。
楽しい一時だった。
だが思ってみれば、楽しいピークはこの時だった。
後一週間は居座るつもりだったというのに……
一体、どこから情報が漏れたんだ。ちゃんと規制していただろう。
次の嵐は、思ったよりもすぐにやって来てしまった。
「主神様! 奥方様が……奥方様が、こちらに!」
「終わった……」
どこから知られたのか、頭を抱える。
正妻が、私を迎えに来てしまった……。
ここでのこのこと出て行けば、命が終わる気がする。
いや、実際に終わる訳ではない。
それはわかっているのだが……きゅっとイロイロなモノが竦み上がった。
鏡を見なくても、わかる。
私の全身、至る所に己の所業の証拠が残る。
正妻に見咎められたら浮気認定確実の名残が諸々……
会ったら、殺される。
私だけでなく、女神も殺される。
私に尽くしてくれた下位の娘達は蹴散らされることだろう。
実際に殺しはしないだろうが、間違いなく恐ろしいことになる。
痣や鬱血なんてすぐに消えると、安穏としていた自分の首を絞めたい。
軽い怪我は時間経過ですぐに消えるが、それは今、この時、即座にという訳ではないんだ!
私の腹心の部下であり、妾腹の息子でもある伝令神が決死の顔で提案してきた。
「ここは、私が食い止めます。……主神様はその間に裏手からお逃げ下さい!」
「逃げてどこに行けと!? 経験上、こういう時は正座待機で写経しながら反省の意を示すしか!」
「一日、時間を稼ぎさえすれば浮気の物理的証拠は消えます」
「それはわかっている。だが……っ」
逃げ切れるものか。
それこそ身に染みて、今までの経験則が我が身を苛む。
こんな言い逃れの許されない状況下で、妻から物理的に逃げられた試しがない。
「奥方様には、主神様は重症の身で奥方様にお会いしたがっていたのを、私達が身を案じてここに留めていたのだということにします。そして一足遅く、奥方様会いたさに主神様は抜け出してしまわれた後なのだと。私達に留められぬよう、我々の目を盗んで、密かに行かれたのだと」
「な……っそれでは、お前達が責められてしまうではないか!」
「主神様……いいえ、父上様。我らのことなどお気になさらないで下さい。私達は、堂々と我らを導く主神様を尊敬しているのです。貴方が奥方様に責められるお姿を見たくはない」
「お前……」
この時。
私は愚かにも冷静さを欠いていた。
浮気した事実への後ろめたさと、正妻への……恐れ(怯え)で。
折檻を避けたいという強い思いが、現実を捻じ曲げ、私の目を曇らせた。
いつもは浮気を知る度にお小言を言っていたコイツが。
浮気の事実隠蔽を幇助するような真似など、する筈がなかったというのに。
空気を読む術に長けているからこそ、こういう時こそ私を裏切って正妻側につくのが常であったというのに。
大体、主である私が姿を消したという状況で、のんびり脱走後の神殿に部下が留まって追いかけもしないなんて、傍目に怪しくない筈ないのだ。そんな怪しさを甘んじて演じようという状況のおかしさに気付けないくらい、私は動転していた。いや、本当に、智恵の回るコイツにそれがわからぬ道理はないというのに。
……いや、責めている訳ではない。
正妻の子ではないのだ。
これがアイツの処世術だとわかっているので、咎めはしないのだが。
流石に、父であり主である私を売るのは如何なものかと思うんだが……
私は慌てたまま、奴に余計に褪せるよう煽られたことも気付くことなく。
取る物も、取りあえず。
着の身着のまま、女神の神殿に背を向けた。
その、背後にした神殿の中で。
アイツは愛想の良い微笑みを浮かべ、私の正妻に頭を垂れていた。
「あれで良かったでしょうか」
「我が背の君にも困ったこと……お仕置きを避けられる筈もなかろうに」
我が妻の、そんな背筋のぞっとするような言葉を……直接聞かずに済んだ私は、果たして運が良かったのか悪かったのか。
踊らされている我が身の悲しさに気付くことも無く、私は妻の思惑通りに動き始めていた。
そうして、巡り合ってしまったのだ。
これが作られた出会いだとは知りもせずに……
女神の神殿を裏手から身を潜めて逃亡し、森に姿を紛らわせながら進む。
その、最中で。
自分が身を隠していたことを忘れるくらいに、衝撃的な出会いだった。
目の前にいきなり圧し折れた大木が真正面から倒れ込んできた、上に。
倒れる大木を足場代わりに、ふわりと軽く。
体重など羽根程の重さもないかのように、軽やかに。
私の背を超えて、跳躍する麗しの女人の姿。
まるで陽光を紡いだような黄金の髪が風を受けて靡き、濃い鮮やかな青の瞳が私を射抜いた。
まるで、心臓が止まるような衝撃。
天界でも滅多に見ない見目の良さに、自身の鼓動が一際強く一音を奏でた。
……その、向こうに。
なんか見たことも無い悍ましい化け物が大挙して押し寄せていたんだが。
まさに殺到。
そう表現するに相応しい、周囲を省みぬ、形振り構わぬ猛進ぶりで迫って来る。
まるで、心臓が止まるような衝撃。
というか一瞬、たぶん本気で止まった。
「おぎゃあああああああああああああっ!?」
え。
あんな化け物、天界にいたっけー!!!?????
イソギンチャク
主神は初めて見たらしい。




