29.勇者様狙撃事件 ~粘液塗れな勇者様ふたたび~
女神達の騒乱の現場にて。
喧々囂々醜くも口汚く罵り合う、女達。
神といえども修羅場に発展した女達の諍いは、地上の女と変わらない。
爪が出る、平手が出る。物が投げられ飛び火する。
収拾がつかなくなった現場では、既に最初の論点が忘れられかけつつあった。
元々の、彼女達の話し合いの原点。
それは天界に拉致された勇者様の身柄について、その身に関わる神々……勇者様の身に加護を与えた神々による、今後の扱いについて、だったのだが……
もう一度言おう。
現場は修羅場と化していた。
その、現場に。
今まさに果敢にも踏み込もうという、勇気ある猛者がいた――。
「――喜べ、皆の衆!!」
パーンッと勢いよく引き戸を開けて。
踏み込んできたのは灼熱と黄金の輝きを宿した鮮烈な美青年神。
しかしその輝きとは裏腹に、何故かどこと言わず全身ボロボロだ。真っ白な色はとてもよくお似合いだが、たくさん巻かれた真っ白で清潔感あふれる包帯を指して果たしてお似合いと言っても良いものかどうか。
だが全身包帯男と化してなお、青年神は自分の姿の痛々しさなど微塵も意識もしていない様子で爽やかに明るかった。
太陽という誰にとっても無視出来ざる鮮烈な存在感は、明るい笑顔も有無を言わせないナニかに見せる。
場違い、あるいは空気が読めていない。
室内の騒乱に巻き込まれていた無関係な方々は、輝きに満ちた青年の爽やかな笑顔にそんな言葉を思い浮かべた。
踏み込んだばかりで室内の状況を掴めていない青年神の方も、戸を開けてみればそこは修羅場という状況が予想外だったのか、一瞬だけ身を強張らせていたが……最初の勢いを忘れる前に、と気を持ち直して予定していた言葉で宣言した。
「かねてより我が身の理想高く、相応しき者が見つからぬと皆々の気を揉ませていたが……この度、私は我が身の伴侶と呼ぶに相応しき者を見出したぞ!」
「なに血迷ったこと宣ってんだ! ふざけんなよ、てめぇ。予定外の妄言ほざいてんじゃねーよ!」
そして宣言する端から、その背後にいたらしい何者かに後頭部から思いっきり殴り倒されていた。
白銀の髪に、黒真珠の如き瞳。
そこにいたのは、魔王――それもどっからどう見ても野郎感丸出しのあから様なネタ系女装姿のナターシャ姐さんだった。
魔王の馬鹿力でどつかれた青年神が、勢いそのまま前のめりに叩き伏せられる。べちゃりというより、どごぉっとそんな音を立てて。
陽光の神は、地面に叩きつけられた蛙の如き有様だった。
しかしあまりダメージは負っていなかったのだろう。
ひょいっと顔を上げて、彼は軽く頭を下げた。
「すまん。どうやら先走ってしまったようだ」
「先走るがまま、地獄に突貫させてやっても良いんだぜ?」
「いや、それは遠慮しよう」
苛々した様子を隠しもせず、魔王は倒れたままの神の背をぐりぐりと踏みにじる。
回し蹴りの果てにハイヒールが吹っ飛んでしまったからだろうか。
今の魔王――ナターシャ雄姐さんは、ハイヒールではなく無骨なブーツを履いていた。鉄板入りの。
ドレスの裾に隠れて見えていなかったそれも、男の背中を足でぐりぐりする為にちょいと上げられ、白いおみ足ごと露わとなっている。びりびりに伝染したストッキングがなんだか直視してはいけないモノのように見せる。だがそもそも女装野郎の足など見せつけられても誰も別に嬉しくはなかった。
異様な、思いがけない光景を見せつけられて、室内にいた神々は全員が動きを止めて沈黙していた。いきなり始まった謎の女装男のやりたい放題な言動に、思考停止して目も離せない。何より陽光の神ともあろう実力者がそんな目に遭っているのだ。虐げられているように見えるが、青年神の実力を知る者達にとっては甘んじてそんな扱いを受けているようにしか見えない。
「てめぇ、あんまふざけてっと背骨砕くぞ、ごるぁ。――美の女神のとこに連れてけっつっただろうが。何を盛大に道草食ってやがる!」
「これは心外な。貴女に言われた通り、連れてきただろう? 美の女神の現在地に」
「……あ?」
一体、この光景は何だろう。
顔を真っ青にして、蛇に睨み据えられた蛙のように硬直している美の女神以外は現実を認識するのにしばしば時間を必要とした。
立ち直りが僅か他よりも早かった神の一柱が、恐る恐ると這いつくばったままの陽光の神へと尋ねかける。
「よ、陽光の……その、そこな女s………………その者は?」
だがその疑問にお答えしたのは、美貌の青年神を大胆に足蹴にしっぱなしの雄姐さんの方だった。
「あ? 俺か? 俺はまぁちゃ――違った。俺はナターシャってぇ者だ」
「な、なたーしゃ、さん……」
大きな鷹を前にしたかの様な、謎の気迫。
思考力の回復がイマイチな神様は、気を呑まれかけてハッと首を振って正気を呼び戻す。
神を足蹴にするという、この無礼者。それを恐れる様子もない。
これはナニかと、大きく息を呑む。
怯んだことを隠すことも出来ず立ち尽くす雑魚達に、まぁちゃん――ナターシャ姐さんは獰猛な笑みを向けた。
「ちょっくら『美の女神』の神殿に用があんだわ、俺。……けど、どうやらそれだけじゃ済みそうにねえな? 何しろ神殿に住んでる御当人がそこにいるんだからよ……?」
ギラギラと飢えた獣のように鋭い眼光を放つ瞳は……顔色を失って今にも身を翻して逃亡しそうな美の女神を真っ直ぐに捉え、少しも逸らさず向けられていた。
あんな目で見られてよく逃げ出さないな、と何柱かの神が感心の目を女神に向けるが……その内の、更に何柱かの神は女神を見て、ふと気付く。
……彼女の、足が。
己の影から延びた黒いナニか……粘性の高そうな質感の、手の様な形をしたナニかにがっちりと掴まれて固定されていることに。
そして女神が懸命に足を引き、自由を取り戻そうとして叶わずにいる様子に。
――ああ、御愁傷様。
あの女神は得体の知れぬ闖入者をきっと怒らせたのだろうと。虎の尾を踏む様な、やってはいけないナニかをしたのだろうと。
明らかにロックオンされた様子に、顔を引き攣らせてそっと視線を外すのだった。
「可愛いせっちゃんの、万難を払う為――毛刈り祭りと洒落こもうぜ?」
そう言って掲げた、ナターシャ姐さんの手には。
ギラリと鈍く輝く、分厚いナイフが握られていた。
☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆
まぁちゃんが毛刈り祭りの開催を宣言している頃。
羊代りに刈られようとしている女神の神殿では。
「「………………」」
すこーんっと額に真っ直ぐ突き刺さった、金色の矢。
己の顔面を両手で覆ってしまった勇者様。
……を囲って、妙な緊迫感が圧を増していた。
「勇者さんを虐めちゃ、めっですのー!」
勇者様の身体に取り付く形で、ぴっとりとくっつくせっちゃん。
この光景だけでまぁ殿に見られたら命取りだ、と勇者様は思いつつも引き剥がすことなど出来ず。ただただ両手に力を入れて顔を覆う。
何故ならせっちゃんがちょっと目を潤ませながら……
「勇者さんは、勇者さんはっ、リャン姉様の大事な大事なお友達なんですのー! だから、リャン姉様が悲しくなっちゃうから、そんなのせっちゃん絶対に嫌ですの! 勇者さんは虐めちゃ駄目なんですの!」
ぷんっと頬を膨らませ、興奮したように勇者様の腕を掴んでがくがく揺する。どうやら勇者様が射られた=虐められたと判断したようだが、それ以上の状況は理解していないらしい。
その証拠に、揺さぶられる度に勇者様の口から小さな悲鳴が漏れている。
「あ、ちょ、ちょっやめ……姫、頼むから揺さぶらないでくれ! 手が外れる! 外れてしまうから!」
「勇者さんを虐める人は、せっちゃんがリャン姉様に代わってめってしますのー!」
現状、勇者様をいじめているのはせっちゃんかもしれない。
強靭な肉体を持つ魔王の血脈……その血に連なるまぁちゃんやせっちゃんなら、ちょっとやそっと矢で射られたところで大した問題もないのだが。
それも自分達ではなく人間に、となるとせっちゃんにとっては話が別らしい。
自分に矢が向けられた時は、のほほんとしていたというのに。
彼女の中で人間の代表格は、仲の良い従姉であるリャン姉様だ。勇者様のことは微妙に人間の範疇外に見ている節はあるものの……一応、根本的には人間だとは認識していたらしい。
人間の『例外』と見ているような気もするが。
これで勇者様の額に矢が刺さったりしなければ、きっと問題はなかった。問題はないと、判断していた。
だけど刺さってしまったから。
人間は額に矢が刺さったら、死んでしまう。
刺さらなければ問題はないが、刺さったら大問題だ。せっちゃんがここまで反応しているのも、勇者様を案じてのこと。
だが案じていたとしても、体を揺さぶる行為はいかがなものかと思われる。
お色気系トラップだのヤンデレの襲撃だの、ストーカーからの誘拐未遂だので長年鍛えられてきた勇者様は、状況を認識するより早く身体が反応していた。ほぼ反射で、何かを考えるより早く両の手は顔面を覆い隠して視界を封じた。
お陰でせっちゃんの手から逃れることもままならない。
先程から好き放題に揺さぶられ……若干酔ってきている。腕の力も何かの拍子に抜けてしまいそうで大変危険です。
「ライオット君……怖くはありません。目を開けて御覧なさい」
「この状況で本当に目を開けると思っているのか……!?」
「試しに言ってみただけですよ。わかっています。言葉ではなく、行動で貴方の目を開かせるべきだと……!」
そう言いながら、鏡を盾の様に突きつけるティボルト。どこからどう見ても、勇者様を社会的に終わらせる気で満々だ。
「絶対に目を開けてなるものか……!」
決意も新たに、勇者様はギュッと強く目を瞑り……たかったのだが。
「ふ……っ!?」
目を閉じようとするなり、弓の鳴る音がする。
視界を封じられた状況。その中で更に目を瞑ることに強く意識を割こうものなら……気を取られて、喰らってしまう。
目まぐるしく手足も状況も動く。こんな状況下で顔から手を離してしまえば――例え目を瞑っていたとしても、何かの拍子に開いてしまう可能性がある。だからこそ手は自由にならず、勇者様の身体は満足に動かず、ままならない。勇者様は何もできない状況に陥っていく。
いっそ鏡を見てしまった方が良いんじゃないか――?
ふと、そう思いもするが。
「さあ、鏡を見るのです!」
……プッツンきているティボルトさんが執拗に鏡を向けてくるのだ。ここで素直に思う壺な行動を取ったら、絶対に碌でもないことになる。そんな確信はしたくないのにせざるを得ない。
あのおススメ具合から考えても、まず間違いなく。
「病的に異常な……むしろ精神疾患レベルのナルシストになってしまうに決まっている!」
誰かがそうと決めた訳ではないが、勇者様にはそうとしか考えられなかった。鏡を見たら、その時が勇者様の(社会的な)終わりとなってしまいそうだ。
「勘が良いですね」
「やはり精神疾患レベル!」
「いえ、私も自ら試したことはないので確かという訳ではありませんが。しかしあの矢は、愛の神様がお使いになる矢の中でも最高位の代物だそうで――永遠の愛を誓って全うするレベル、だそうです」
「じゃあ今ここで鏡を見たら、異常性抜群な永遠のナルシストか!?」
なんということでしょう!
そんな変貌を遂げた勇者様は……どんな影響が周囲に及ぶか、微妙に判然としませんが。うっとりと鏡に懐いて片時も側から離れようとしない勇者様というのは確かに不気味かもしれない。
絶対に、鏡は見ない。
だからと言って他の誰かを見る気もない――!
決意を固くする勇者様だが、それでは永遠に袋小路だ。
早々に誰かを見て決着を付けることをお勧めしたいが、じゃあ誰を見るのかという話。下手なことをすれば、その時点で勇者様の人生が終わってしまう危険があるのだ。本人が慎重になるのも無理はない。
「こうなったら……!」
目を手で覆ったまま、攻撃してくる相手に相対するも限界があったのだろう。勇者様は現状を少しでもマシな状況になることを願い、打開策ともいえない打開策に出た。
「姫!」
「はいですの?」
「……ごめん!」
勇者様にひっついたまま、器用に矢を避けながらティボルトに時々「めっですのー!」と叫んでいた、せっちゃん。
勇者様はその身体を、一気に抱え上げた。
そして、片腕でせっちゃんを抱えたまま、
「頼む……俺の目を塞いでくれ!」
「はいですのー」
思い切ったことを頼んだ。
この時、勇者様はせっちゃんが手で目を塞いでくれることを期待していた。せっちゃんに目を押さえてもらって、そのまま動こうと。
だが悲しいことに勇者様は、せっちゃんに「何を使って」塞いでほしいと方法を指定しなかった。ついでにいつまでという期限も設けなかった。
「えいっですの!」
「えっ」
結果。
「う、うわぁぁあああああああああっ!?」
「っ!?」
悲劇は起きた。
――にゅろろろろろろろっ!!
せっちゃんの、手首……正確には、ドレスの袖が作りだした僅かな影から。
ぬめりそうな効果音と共に、活き良く躍り出てきたモノ。
それ即ち、 触 手 。
びちぃっ!!
避ける間なぞなかった。
ついでに言うと、せっちゃんに訂正を入れる隙もなかった。
せっちゃんの袖口から飛び出してきたのは、大きな軟体に沢山の吸盤がついた……クラーケンの足。
そう、せっちゃんの影の中に潜んでいる、得体の知れないせっちゃんのお友達の登場だ。
それが、勇者様の顔面めがけて何本も飛びかかっていく様は、思わずティボルトが弓を取り落としそうになるほど衝撃的な光景だった。
ぬめりぬめり、みちみちっ びっちびち!
迸る、ゲソ。
軟体は得体の知れない粘液を分泌しており、それが飛び散って周囲は悲惨な有様だ。
そんな状況下で、せっちゃんには一切被害が及ばない。
小さなパラソルをさして、「元気ですのー」と呑気な御様子。御主人様を汚しちゃならねぇというクラーケンの心意気なのか、被害以前に粘液の一滴すらせっちゃんの方へは飛ばない有様だ。
「ぎゃぁぁぁああああああああっ目が! 目がぁぁ!!」
勇者様は酷い有様だったが。
平均的な身体能力しか持たない成人男性であれば、頭蓋骨をぐちゃっとやられていても、おかしくはない。そのくらいの万力じみた力だって勇者様の頭蓋骨を歪めることすら出来はしなかった。それでも、頭蓋骨が無事でも。
食いこむ触手から迸る粘液が、勇者様のお顔に染み付いていく。
びちびち暴れながら勇者様の目を覆うように頭を取り巻いていた触手。それらが勇者様に襲いかかるのも突然なら、塩が引くようにして撤退するのも突然だった。
このまま勇者様の顔面に食い込み続けるかと思われたのだが、ある時一斉にせっちゃんの袖口へと戻っていく。
後に残されたのはクラーケンの粘液まみれにされた勇者様――だがその顔面には、クラーケンに巻きつかれて赤くなる以上の異変が起きていた。
もしや粘液でかぶれた? いやいや違う。
勇者様の顔面には凝固した……結晶化したかのように変貌した、粘液の塊が張り付いていた。
まるで目を封じるように、ぐるりと頭部を一周している。
その色、ルビーのような深紅。
元が何かを知らなければ、輝石から削り出した宝飾品のように見えたかも知れない。ただし、勇者様の頭部に乗せるにはちょっと大きかったようだが。
「な、なんだこれ」
思わず勇者様も外そうとするが。
「は、外れない……!」
変質した粘液は、しっかりがっちり粘着質に、勇者様の顔面へと付着していた。
「勇者さんのご注文どーりですの! ちゃんとおめめを封じましたですのー」
そう言ってにこにこと笑う、せっちゃん。
無邪気な笑顔を前にして、(見えていないけれど)勇者様はこう言うしかなかった。
「あ、ありがとう……」
お礼を言いつつも、助かったと言えるのか否か。
取敢えず、当面視界を封じることは叶ったようだ。
だが果たして……一体いつまで封じていれば良いのか。
封じなくても穏便に済ませられる手段が見つかったとしても、その時、平和に勇者様の視界を回復させる術があるのか。
その答えは、この場の誰にもわからなかった。




