14.黒百合姫の影
どんな奇行も「隠し芸の研究中だから!」で納得される土地――魔境。
全身寝台の上で拘束状態の勇者様。
勇者様を拘束する、半裸の美青年。
突如乱入した魔境の可憐な黒百合。
なんとも言い難い三竦みが形成されるかと思いきや、そんなこともなく。
ただ勇者様は見られちゃいけない相手に自分の醜態を見られたことで磨り減りゆく寿命を儚んだ。
そこには隠しようのない諦めが漂っている。
魔王が手塩にかけて育てた純粋な美少女に、卑猥な連想をしてしまいそうな光景を見られたのだ。魔王の怒りは想像に難くない。
……が、せっちゃんの純粋ぶりは、勇者様の想像を凌駕した。
「ガリバーごっこじゃありませんの?」
真新しいシーツの上で四肢を縛られ押し倒された勇者様を見て、せっちゃんはきょとんとしている。
「残念だけど、姫。これは遊んでいる訳じゃないんだ……本当に、残念だけど」
「そうなんですの? じゃあ、縄抜けの術のお稽古ですのね!」
「あ、うん……そうだったらどんなに良いだろう。だけどね、姫、これは……ガチなんだ」
勇者様が鳴いた。
ヘルプミーと鳴いた。
せっちゃんは首を傾げて微笑んだ。
「じゃあ、新しい隠し芸のお稽古とか、ですの?」
「もうそれでも良いから頼む、この鎖から俺を解き放ってくれ」
勇者様は、今自分の顔を覆って嘆くことが出来たらどんなに良いだろうと思った。だが、彼の両手は漏れなく頭の上の位置で縛られた状態で……容赦のない拘束を受けている。
一方せっちゃんの方は、生粋の魔境育ち。
突拍子のない奇行に対する耐性はばっちり完備されていた。
勇者様の現状を見ても、首を傾げて「ああ、新しい隠し芸の稽古かな?」で納得するのが魔境の花である。
どんな摩訶不思議な状況に陥った姿を見ても、「隠し芸の新技」で済ませてしまう恐ろしさ。魔境の住民は一体どんな日々を綴っているというのか。
加えて言うと魔境の魔族さん達は伝統的に薄着の文化を築いている。
半裸など日常茶飯事過ぎて、本当に純粋で初心なお嬢さんであれば顔を真っ赤にして取り乱すだろう「半裸の美青年」を前にしても何ら動じていない。反応皆無だ。
勇者様は自分の身に次々と降りかかる事態を前に取り乱しまくっていたせいで微塵も気付いていなかったが、せっちゃんは目の前の光景を欠片も「卑猥」だとは気付いていなかった。
両者の認識のすれ違いが、勇者様を自家発電で辱めていた。
この場に画伯がいれば、きっと「セルフで羞恥プレイだなんて勇者君ってば中々の上級者だね☆」などとのたまって勇者様の胸を鋭く抉りまくったことだろう。
さて、この場で最も状況に置いて行かれて唖然としているのは、勇者様の上に圧し掛かっている視覚の暴力「半裸の美青年」ティボルトであった。
彼にしてみればいきなり目の前に、何もないところから超絶的な美貌の少女が生えてきたようなもの。しかも自分が縛り上げていた勇者様の知人らしいとなれば混乱せずにいられる筈もなく。
此処は女神の神殿だ。
それも最高位の神、主神の近しい高みにいる女神の神殿なのである。
勇者様は知らないことだが、天界にある神々の神殿はそれぞれ主である神の結界で守られている。外部からの干渉など結界に弾かれてしまうのに。
それにこの部屋の中に転移の目印になるような仕掛けがないことも、青年は良く知っていた。
高位の女神の神殿に、外部から転移魔法で侵入する。
それも天界にいる筈もない、下界の民が。
何重の意味でも有得ない事態だ。
天界に彼が強引に召し上げられてから、既に数百年が経つ。
その間に、こんな事態に直面したことは一度たりとも無かった。
だからこそ信じられない現実の前に、ティボルトは茫然とした声を上げた。
「彼女は何者です!? 貴方の、知り合いのようですが……」
困惑が多分に含まれるティボルトの声に、答えたのは勇者様ではなかった。
誰何された張本人、せっちゃんが元気に良い子のお返事で手を挙げた!
「はーい、せっちゃんはせっちゃんですのー! お兄さん、はじめましての方ですの!」
せっちゃんの答えは、微妙に答えになっていない。
何と答えたものかと勇者様の目が泳ぐ。全力泳法クロールだ。
「あ、ああ……はい、初めて会うのは確かですが。私が聞きたいのは、貴女が何者かという……」
「はいですの。せっちゃんです」
「いえ、そうではなくて……ライオット君!? このお嬢さんは君の知り合いなんですよね!?」
「せっちゃんはちゃんとご挨拶できる良い子ですの!」
混乱と戸惑いと苦悩に塗れた男二人が狼狽する。
混乱に陥れた元凶のせっちゃんは、しかし二人の戸惑いなど意にも留めず。
ふっかふかのお布団から床へと足を下ろし、そして。
表情が変わった。
それと共に、空気も。
「え……?」
勇者様の眼差しが揺れる。
驚きに、息を呑んだ。
魔境に関わって暮らす一年数か月の間に見慣れた筈の、魔王妹せっちゃん。
だけど今目の前に立つ少女の姿は、彼の知るいずれとも異なった。
いつもはにこーっと無邪気に笑んでいるのに。
今は口元だけに仄かな微笑みを乗せて、悠然と真っ直ぐに立っている。
姿勢の美しさは、人の目を自然と引き寄せる。
思わず勇者様と半裸の美青年は息を呑んだ。
少女は、決して頭を下げない。
背を真っ直ぐに伸ばしたまま、いつもよりもゆったりとした声を乗せて口を開く。
聞こえてきた言葉は、常の少女らしい柔らかさが除かれていた。
「――妾は前魔王の娘にして当代魔王バトゥーリの妹。魔境を統べる魔王家のセトゥーラ、字は『黒百合姫』。よしなに頼む」
雰囲気に、空気に呑まれて圧倒される。
気品に満ちた姫君の静謐な眼差しに、頭が白くなる。
そこに、魔境の姫がいた。
うん、いた。
一瞬だけ。
だけどせっちゃんの切り替えは、超速だった。
「以上、初対面の人へのご挨拶はこうしなさいって家庭教師の先生が言ってましたの。せっちゃん、ちゃんと出来ました! 花丸満点ですのー」
「ごふぁ……っ姫!? 余韻ゼロか!!」
「勇者さん、勇者さーん! よろしくですの」
「それを言うべき相手は俺じゃないよな! なんで俺に言うんだ!?」
「今思い出したんですけど、勇者さんにちゃんとご挨拶した記憶が皆無で。せっかくだから、一括払いでよろしくですの!」
「今更遅すぎないか!? もう出会ってから一年以上経ってるんだが! 一括払いって俺は借金か何かの清算か!」
「分割払いでー、カツカツですのー♪」
「カツカツ!? コツコツじゃなくって!?」
「こーけこっこー!」
「鶏か! ……というか姫、字とかあったのか!? 初耳なんだが」
「ありはありますけど、誰も呼ぶ人いませんのー」
「字の存在意義って!? それ、有る意味ないだろ!」
「魔境のふるー……ふるふるふるーぅい習慣ですの! け、形骸化?ってあに様言ってましたの」
「……まぁ殿にもあるのか? 字」
「あに様は魔王で、魔王は魔王だからないんですの」
「…………『魔王』以外の、魔族の王族か何かの伝統か何かかな」
「リャン姉様が言ってましたの! 『細かいことは気にしない!』」
「気にしろ習慣の該当者ぁ!!」
ああ、何と言うことだろう。
僅か一日。
一日という僅かな時間、離れていただけだというのに。
怒涛の展開で押し寄せた苦境に押し流されていた為か、はたまた別の要因か。それは勇者様自身の無理な体勢からくる心的疲労も合わさってのことかもしれない。
たった一日の空白後に、いきなり飛びこんできた混沌の使者三号の破壊力は大きかったのだろうか。空白期間の遅れが出たのか、つい昨日まで日常であった筈のツッコミの連続に、勇者様が息切れする。
こんな時にまでツッコミをしなきゃいけないのか、こんな時にまでさせないでくれ……そう思う心も僅かにあったが、それでも目の前にすれば叫ばずにはいられない。
それはまさに……本能の成せる業! ツッコミ気質の本能が!
「そんな本能あってたまるかー!!」
「ま、魔境……魔族の、姫…………それが何故、ライオット君を助けに……下界から、どうして……」
周囲も状況も忘れてツッコミに夢中になっていた勇者様を、ハッと正気に戻したのはティボルトの空虚な呟きだった。
何か黒い物を滲ませているような気がする、そんな虚ろな声。
至近距離で見上げた勇者様は、ティボルトの顔を見て身体が軋む様な感覚を味わった。
ティボルトの顔が、能面のように色を失くしていた。
色だけでない、ありとあらゆる感情の要素が、削ぎ落とされる。
本物の人形の顔のように、そこには何もない。
ただ、虚ろな眼差しが真っ直ぐとせっちゃんに注がれている。
そこにどんな思いがあるのか。
何を今、考えているというのか。
推し量ろうにも、量れるだけの要素が見つけられなくて。
勇者様の存在など、今は目に入らないかの様に。
あれほど勇者様が嫌がってもどかなかったものを、ゆらりと身体を揺らしながら勇者様の上から退いて……
一瞬。
ふっと、ティボルトの両の肩が位置を僅かに下げた。
次の、一拍の間で。
ティボルトの身体がバネで跳ね上げられたかのように……せっちゃんに向けて、飛びかかろうとする。
「私は……私と弟には、助けに来てくれる人などいなかったのに……っ」
声にはままならない怨嗟の響きがあった。
今この場でせっちゃんにぶつけるには、道理に反した男の声が。
間違っても、それは十六歳の少女に向けられるべきものではない。
「姫、避け……っ」
……が。
危険な兆候に満ちた男の行動は、跳ね返って来ることとなる。
物理的に。
男が飛びかかって来ると見えた瞬間。
せっちゃんの足下で、影がぶわりと広がった。
それだけでは留まらず……目に留めるのも困難な速度で勢いよく、足元の影から男めがけて飛びだしたものがある。
まるでペットボトルロケットのように発射されたものは。
「な、なにぃ……っ!?」
青紫色の、巨大な。
大きな吸盤のびっしりとついた、ぬめぬめの太くて細長い。
ゲソだった。
正確に言うのであれば、青紫色の巨大な、蛸か烏賊のように見える謎の軟体動物の足。
決して烏賊だけに限定されるものではないが、足の根元はせっちゃんの影から伸びている。
足だけを出して全容を見せぬそれを、どうやって烏賊か蛸かと断定したものか。
だが仮にそれをゲソと仮定したとして。
ゲソの動きは迅速にして容赦なく、苛烈に反応した。
せっちゃんの左側足下の影から生えたゲソは跳び出すや否やティボルトの首から頭部にかけて絡め取り、その動きを拘束。
一拍遅れてせっちゃんの右側足下の影から同種のゲソが即座に跳び出し、こちらは貫通させる気かと問いたくなる勢いでティボルトの鳩尾に真っ直ぐ打撃を打ち込んだ。
瞬く間の出来事だった。
神として数百年を生きている半裸の美青年が一撃で昏倒する程、ゲソの打撃は鋭く速い。
ずりずりと地に伏せる、半裸の美青年。
ティボルトの凶行(未遂)に顔を青褪めさせていた筈の勇者様が、怪訝に眉を歪ませて、せっちゃんに問いかけた。
「姫……陰に、一体何を入れているんだ」
せっちゃんは勇者様の問いに、隠すことなく良い子に応えた。
「今のはみゅーちゃんなの。今回は色々ありそうだから、一緒に連れておいでって……お友達の皆が入っていますの」
「みゅぅちゃん!? え、それってラッキーマウスの…………俺の記憶が確かなら、アレ触手は生やしてもゲソは生やしていなかったはずじゃ!?」
「勇者様、みゅぅちゃんじゃなくってみゅーちゃんですの!」
「……みゅぅちゃんとは別の生命体が入っているのか……?」
「みゅーちゃんはクラーケンですのよ?」
「海魔かよっ!! 海の魔物を軽々しく陰に入れるなよ!」
「ヨシュアンが細長くてうねうねした足の沢山あるお友達多めでって言いましたの」
「あいつか。あいつの差し金か……触手多めでって何を意図したリクエストだ、おい」
「皆良い子なの。時々ちょっと、近付いてくる人にいきなり激しくじゃれついちゃいますけど、でもそれ以外は大人しい子達ですもの。今もちょっと、おにーさんを驚かせちゃいましたけど」
「自動防衛装置代わりか……」
「こんな子もいますのよー」
「あ、いや、出さなくて良い。出さなくて良いから……」
せっちゃんの影から、ぴょこりと未知の生命体が顔を覗かせる。
初めて遭遇する生き物だ。
赤と黒と青紫に白い斑点が入り混じった、ウミウシのような生物が足下から勇者様を見上げている。
無感動に、見上げている。
体の下でわさわさと……ダンゴムシの足の様に、短めの触手を無数に生やして動かしながら、ひたひたと見詰めてくる知性のない瞳。
勇者様は思わず目を逸らしながら、小さく震える声で懇願した。
「もう何でも良いから……ひとまず、俺の拘束を解いてくれないか」
ここまでずっと、勇者様は寝台の上に縛り付けられたままだった。
せっちゃん → 気品に満ちた姫君モードは家庭教師のおじいさんの指導努力の賜物。ただし一分しか持続しない。
「とと様、かか様、あに様以外の人に頭を下げちゃ駄目だそうですのー……なんで駄目なんですの?」
「ひ、姫様、ですから姫様の地位がですな……」