第1話 『寄付』
僕は何をするために生きているのだろうと何気なく考える時もあるが、急いでいる時はそんなことを考えている余裕もない。僕、得川大歩はあと何分で家を出ることが出来るかだけを考えている。今はひたすら、始業時刻までに職場に到着するために生きてるのだ。
「歯は磨きたいな、あとヒゲも剃って・・・」
目覚まし時計を止めて二度寝するという典型的なミスをやらかした僕は、居間からダイニングに突入し、椅子にかけてある昨日も履いたジーパンを掴む。履き終わるとパジャマ替わりに着ていたトレーナーを洗面所に設置してある洗濯機に放り込む。そのまま洗面台に向かい歯を磨く。鏡を見ると寝癖がついてる。
「ああ、もう!時間ないし畜生」
寝癖は帽子でごまかすことにした。ヒゲを剃って最後にバシャバシャと顔を洗うと何日も変えてないタオルで顔を拭く。上着のシャツを着て財布や小物など日常に必要な物を身に付けて玄関に向かう。ダイニングを出る時、振り返って家の中を見渡す。
「水は止まっている、窓は閉まってる、クーラーは止まってる・・・、あっ」
10畳ほどの居間の境目に目覚まし時計が横たわっている。ひどい八つ当たりだ。でも人間だもの、物にあたる時もあって良い。
「まるで屍・・・」
フローリングの床にうつぶせになっている時計を所定の敷きっぱなしの布団の枕元に置いて僕は家を出た。
大学に着くと今川路舞教授の研究室に入る。
「あら、得川君。おはよう」
教授はニコリと笑う。素敵な微笑みだ。40代だがワンレンの艶々とした長めの黒髪と言い、アンニュイな目つきといい、口角が少し上がったキリッとした唇といい、20代でも十分に通用する美貌を持った女性だと個人的に思っている。だが目は相変わらず笑っていない。その微笑みに対してお高く留まりやがって、と陰口を叩く学生もいるが、僕は「この人は嬉しい時も辛い時も悲しい時も、いつも同じ目をしている」と気づいてから気にしないことにした。
「おはようございます。ギリギリですみません」
「別に良いんじゃない。私はやる事さえやってくれればいいから」
「・・・はい」
「さて、一息ついたら、このプリントを200枚コピーしておいて。1コマ目で使うから」
僕は計量経済学を専攻している教授の助手として働いている。もちろん、自分の研究テーマを持っている。講義の準備や教授の代わりに学生たちの世話をする合間にせっせと論文を書いている。
『日本人の生活水準は2030年を超えると一気に昭和30年代まで後退する。これは避けようもない。少しでも犠牲者を少なくするために出来ることは究極の富の再分配である』
これが今川教授が提唱した説だ。この説自体は珍しいことではない。だが今川教授は現行の税制と会計制度からこの説が妥当であることを主張し、そしてとうとう昨年には日本人で初のアルフレッド・ノーベル記念経済学スウェーデン国立銀行賞、いわゆるノーベル経済学賞を受賞した。
僕は偉大なこの教授の影響を受け、その説から派生した論文を書き続けているが、どうにも頭打ちの感がある。何をテーマに論文を書いているかは、ここでは割愛する。
「あ、そうそう、得川君。今日時間あるかしら?話があるんだけど」
印刷機の前でひたすら印刷し終わるのを待っている僕に今川教授が話しかけてきた。教授の本日の予定は午前の講義で終わりだ。
「午後一番ということですか?」
「そうそう、今日の講義が終わった後」
「はい、大丈夫です」
教授は片頬笑いを浮かべると、よろしくと言い残して印刷室から出て行った。
ベリッ
今川教授はシュークリームの袋を音を立てて開けると中身を逆さにして頬張りはじめる。
「これ食べたら、ちょっと繰り出しましょう。構内では話しにくい話題だから」
今川教授は僕が弁当を持参していると思ったらしい。そして、そのことを知ると教授は僕を外に連れ出そうとした。ちなみにシュークリームは彼女のお昼ご飯である。
教授のアウディA8に乗せてもらい、ちょっと洒落たカフェで昼食をとる。教授はコーヒーだけを注文した。僕は何とかプレートを注文した。店の雰囲気はゆったりとして居心地は良いが、ソファーみたいなイスと低いテーブルでは食事がしづらいと思った。
「得川君、いいものを注文したわね。これはほうれん草のキッシュと十六穀米の・・・」
求めてもないのに教授がウンチクを語りだした。この人はこういうところがある。
「さて、早速、本題なんだけどね」
僕がウンチクに食いついて来ないのを感じ取った教授は本題に入りだす。
「得川君は今、お付き合いしている女性はいるのかしら?」
僕は思わず教授の顔を凝視する。ニコニコしているが、相変わらず目は笑っていない。僕は真意を測りかねた。
「いえ、今はいないです」
「あ、そう。得川君は確かお父様を亡くしていたわね。お母様はお元気かしら?」
「元気でやってます」
「もし、お母様に何かあった時は、得川君が面倒を見るのかしら?」
「ええ、まあ。多少は手伝いますが、基本的に兄貴夫婦が面倒を見ることになると思います」
僕は次男坊で、実家には母と兄貴夫婦が住んでいる。介護福祉の問題について議論するつもりんだろうか?
「ではお兄様に何かない限りは、得川君の意思が働かない限り自由に人生を送ることが出来るわけね?」
「そういうことになりますかね・・・」
家族構成について、やけに首を突っ込んでくる。介護福祉の議論ではなさそうだ。まさか僕と結婚を前提にお付き合いするつもりなんだろうか。
「うーむ、完全とは言えないけど、まあまあ良い条件ね。あのね、得川君。2030年に備えて中流以下の人間が今の経済水準を保ったまま生活していくには、富の再分配が一番だって分かるわよね?きちんとした職を得て普通の生活を送るために」
「はい。先生の持論ですよね。分かってます」
「なら話が早いわ。富の再分配というのはね、どうしても限界があるの。だって富裕層が持ってる富を全部吐き出させたところで、全ての人間を救うのは不可能なのは数学的にも明らか。もっと言うと中流階級の半分は見殺しにしても足らないぐらい」
ちょうど何とかプレートが運ばれてきた。教授は話を止める。それにしても物騒な物言いだ。店員がいなくなると続きを話し出した。
「となると、富裕層からしてみれば、どうせ救うのなら自分の意に沿った人間にしたい、と考えるのが普通じゃない?その人が社会貢献の意欲があるかどうかは別にして」
イエスともノーとも答え辛い持論だ。イエスと答えることは、選民思想的な発想になるのではないか。
「私は同じ金を使うなら自分の意に沿う人間に成功してもらいたいわね。得川君が富裕層ならどう考える?税金を使った挙句ニートに成り下がり国内GDPに何ら貢献しない人間を育てるか、それとも有能な人間に投資し国内GDPの上昇に貢献する人間を育てるか?」
物凄く誘導的な質問だ。前者を選んだ場合、僕がノーベル経済学賞受賞者である今川教授を論破するのは不可能に近い。だから、こう答えるしかない。但し一言付け加える。このやり取りが何かの査定である可能性もある。何気ない会話でも油断ならない。
「そりゃ、税金の使い道を選べるのなら有能な人を援助し社会の役に立ってもらう方が国としてはありがたいと思います。しかし、それは現実的には不可能だと思います。というのも・・・」
「そう、だって、日本が人権を尊重する国である以上、道徳的にも法的にも問題があるわね」
先に言われてしまった。正解だったのか?
「問題があるけど、それがもし税金がかからない財産に拠ってなされた個人から個人への私的な援助だったとしたら?」
足長おじさん的な発想か。
「最高だと思いますよ」
今川教授の顔がパアッと明るくなる。目も笑っているように見えるが、よく見ると・・・。
「そうね、得川くんなら分かってくれると思ってたわ」
次に発表する論文の内容なんだろうか。でも、こんな内容を発表したら笑い者になってしまうだろう。一応聞いてみる。
「論文の準備ですか?」
それを聞いた今川教授は、ははっと声を出して笑った。
「いや違うわよ。得川君は子供の頃、カブトムシとか飼ったことある?」
「あります」
「じゃあ、アリは?一匹じゃないわよ。女王アリから働きアリまで勢ぞろいで、きちんと巣穴を作って虫としての営みを正常に続けている一部始終を観察したことはある?」
「いやアリは無いです。アリの巣に水を入れたことはありますが」
「私はあるわよ、大きな水槽にアリの巣と周辺の土をそのまま移してね。時間があればアリの巣の断面を余すことなく眺めていたわ」
そこまで言い終わると今川教授はふーっと息を吐いて、もたれ掛るように深く腰掛けた。丸っきりプライベートモードだ。
「アリの巣を丸ごとですか、流石ですね、発想がダイナミックですね」
僕は世間話だと捉えて話を合わせる。
「私がアリを何の気なしに眺めることができたのもアリが私より弱いからなのよね」
「確かにアリは人間よりも弱いでしょうね。でもアリが人間と同じ大きさだったら余裕で負けるでしょうね。何せアリは力が強いですし」
「まあ、アリの生態は置いときましょう。私が言いたいのはね」
と、ここで今川教授はホットコーヒーに口をつける。
「アリを人間に置き換えることも実は可能なのね。世間にはね、自分よりも弱い存在に衣食住に十分足る財産を渡して成長する様を見てみたい、と考える人も居るのよね」
僕は頷く。そういう物好きもいるだろう。僕も何とかプレートの最終段階。十六穀米のカレーをたいらげる。
「そして得川くんは世間的に見ればアリらしいのよ」
はっ?
「はは、アリに見えますか。確かに教授からしてみれば、まだまだ僕はアマちゃんですよ」
ちょっと笑いが引きつる。軽くバカにされた気がした。
「いやいや、私はただノミネートしただけ。なのに、あの子たちが数いる候補の中から得川君をアリと認定したのよ」
あの子たち?同じ学部の奴らだろうか?教授はさらに続ける。
「得川君はマジメ。マジメと言っても堅苦しさは感じず、適度に周囲と合わせることが出来てムリクリな自己主張をしない。それでもって適度に無能」
とうとう言いやがった。ハッキリと「無能」と言いやがった。
「羽柴辺りが言ってたんですか?」
心当たりがある同級生の名前を出した。今川教授がニコリと笑う。
「違うわよ」
「大学とは全く関係ない、富裕層の集まり」
「集まりと言っても私を入れて5人しかいないけど」
正体を明かすと教授はコップの水を口に含む。なんだろうか、この不快感。自分が知らないところで知らない人に品定めをされているような感じ。でも、まだこれが物凄く意地悪な冗談という可能性もある。
「それにしても無能は酷いですね。教授以外の4人を見てみたいものです」
「その人たちは『無能でマジメなアリ』が好きなんですかね。それだけでお金がもらえるなら、僕は喜んで無能だと罵られますよ」
どうだ!もう午後1時半を回っている。1時間近く話を続けている。もうこのネタはいいだろう。
「あら、得川くんは冗談だと思わってるわね。じゃあ、とりあえずこれが手付金。本気で私たちは安全圏から君の成長していく姿を観察したいと思っているのよ」
教授はバックから紙袋を取り出し、中身を半分くらい出す。札束だ。
「これで200万円、とりあえずの準備金。少ないかしら。持って歩くには、これ以上は危険なのよね」
本気なのか。いやいや、何を考えているんだ。
「待ってください。意味が分かりません。ドッキリですか?」
僕の言葉に今川教授は眉をひそめる。
「ドッキリじゃないわよ。どうかしら?悪くないと思うけど。私たちにアリである得川君の成長をお世話させてくれないかしら?私たちはお金を出す以外は何も干渉しないわ。ただ本当に眺めているだけ」
お願い、と教授は掌を合わせた。もう一度言う。本気なのか。
「冗談ですよね。待ってください。だって教授に何のメリットもないじゃないですか」
今川教授は待ってましたとばかりにニコリと笑う。目線が柔らかい。心の底から本気で笑っている気がした。
「得川君は何のメリットがあってカブトムシを飼っていたの?」
結局、同じようなやり取りを続けて、日が沈みかけた頃、この話は保留ということになった。
教授は大学に戻り、僕は家庭教師のバイトがあるので家に帰った。
教授は現金200万円を出した。偽札ではあるまい。ましてや見せ金でもなさそうだ。僕がその場でOKと返事したら、200万円は僕のものになっていたはずだ。ぼくがイエスと言った瞬間に「ドッキリでしたぁ」とテレビ番組みたいなオチをつけてくる可能性も考えたが、あの店に教授の仕込みがあるとは思えなかった。
ということは本気で教授は僕の成長を観察したいと考えているのか。
金品の流れだけを追えば、僕には何のデメリットは無い。というよりメリットしかない。今川教授は回りくどく語っていたが、要はヒモみたいなものだ。教授は眺めているだけと言っていた。女に束縛されないことを考えるとヒモですらない。何の見返りもないお金が自動的に振ってくるだけだ。そして自由にお金を使える。そして成長する。何とも美味しい話・・・。うん?
ちょっと待て。成長だと!
「じゃあ成長しなかったら僕はどうなるのだ」
教授の説明だと投資という以上は回収する手段が残されているはず。成長した暁には、僕は社会的に出世し高収入を得て税金を多く納めて国に貢献しなければならないのだろう。もしかしたら、回収と称して返金を迫ってくるかもしれない。やっぱり断ろう。
「考えてみたら、人を馬鹿にした話だよなあ」
独り言をブツブツ言ってる僕を見て可愛い教え子が訝しむ。今日教える科目は中3数学の二次方程式。仕事に集中しよう。
翌日、僕はお昼の休憩時間に教授室に行き、やんわりと断りを入れた。教授のご期待には沿えませんと。
「沿えないとは具体的にどういうことかしら?」
今日も今日とて今川教授はシュークリームを逆さにして頬張る。
「僕は偉い官僚にもなれませんし、先生みたいに凄い賞をもらう研究者にもなれません。そこまで社会役立てません。僕に投資をしても教授が回収できる可能性は低いのです」
ふむ、と教授は椅子の背にもたれ掛ると真面目な顔で僕を見つめた。
「投資という言葉が悪かったわね。私たちは得川君に何も請求しないわ。損得で言えば、私たちはキャッシュを君に与え続ける点で損していると言える」
教授はニコリともしない。淡々と話し続ける。僕は黙って聞く。
「ぶっちゃけてしまうと得川君が社会的に成功しようがしまいが関係ないの。私たちは、私たちが見込んだ人間が、私たちのお金を使って、どうなるのか見ていたい、それだけなのよ。食いつぶしたければ食いつぶせばいいじゃない。その時は私たちは『私たちの目は節穴だったわね』と諦めて、本人が要らないと言うまでお金を与え続ける」
なんだそりゃ。意味が分からないけど、本物の富裕層とはこういうものなのか。お金とは虫に与えるエサなのか。
「い、意味が分かりませんね。えへへ」
僕は多分引きつっていた。教授が立ち上がる。僕は身構えたが、シュークリームの袋をゴミ箱に入れに行っただけだった。戻ってきて、また高そうなオフィス用の椅子に腰かける。
「私の見込み違いだった様ね。じゃあ、いいわ。忘れて。悪かったわね、得川君」
ごめんね、と掌を合わせてニコリと笑う。目の奥は笑っていない。
「さてと、私は委員会の準備があるから席を外すわね。得川君は今日はもういいわ」
教授が立ちあがり、僕の横を通り過ぎる。僕は振り返って彼女の背中を見る。
「あ、あの」
無視された。聞こえないわけがない。教授は出入り口近くの本棚から何冊か抜き取っていた。
「忙しいのよ、悪いわね」
教授は僕の顔を見ようとすらしない。悲しかった。
「すいません」
「謝る事じゃないわよ」
教授はぬきたっと本の一冊をバックに詰め、残りの本を棚に戻す。
「私に無理強いする権利は無いわ。法的に考えてそうでしょ?」
教授はバックを肩にかける。ああ、出て行ってしまう!
「やってもいいですよ」
思わず口に出た。
「はい?」
ドアノブを掴んだまま教授が振り返る。
「やってもいいというのはおかしいですね。受けてもいいですよ、その話」
僕の口元は痙攣していた。腋汗がじわっと出ているような気がした。
「無理しなくていいのよ、得川君」
教授が微笑む。目が笑っているか判断できない。
「あ、偉そうな言い方でしたか!僕にお金をください」
「本当にそう思ってる?私は無理強いしたくないのよ」
教授がこちらに近づいてきた。
「お金をくれるだけなら、ええ、ぜひ。ください、お金」
教授が僕の手を握る。僕の手は汗ばんでいた。
「お金が欲しいのね?」
教授がまた微笑む。
「はい、是非ともお願いします。」
僕は深々と頭を下げる。どうでもいいや、ありがたく頂戴しろよ、僕。
今川教授が委員会で忙しいのは本当だった。大学の社会貢献活動として、教授は初等教育の見直しと大震災による経済復興に取り組んでいた。僕は教授に指定された店に向かう。そこはシガーバーだった。そこで、今後の具体的な“契約”について話し合った。
①お金の名称は「寄付金」とする。
②僕に与えられる寄付金は教授を含めた5人のポケットマネー。よって非課税。
③毎月、僕の口座に500万円(メンバー1人が100万ずつ僕に寄付)振り込む。
④僕を含めた6人のメンバーは定期的に報告会を開き、僕は現状を寄付者5人に報告する。
⑤寄付者5人はアドバイスすることは有っても、僕はそれに従う必要はない。
僕は⑤の項目が気になったが、小言を言われるぐらいは我慢しようと思う。それに本当に役立つアドバイスをしてくれるかもしれない。
今川教授も上機嫌だった。
「本当にね、今までの子は全部だめになっちゃったからね。得川君は見込あるわぁ。ははは」
ずっとこんなことをしてきたのか。何だか僕も笑えてきた。富裕層の中には退屈しのぎの好奇心でこういう事をする奇特な人も居るのだろう。
「それにしても教授って金持ちなんですね」
僕は教授に勧められたマティーニに口をつけながら言った。
「ふふ、今川家と言えば一時期は東海道一の・・・」
長い長い説明が始まったが割愛する。分かったのはとんでもなく金持ちだという事。
僕はこの店に電車で来ていた。午後11時を回った辺りで終電を逃すといけないから、という理由で解散となった。後日、他のメンバー4人と顔合わせをすることになっている。
今川教授は大通りに出てタクシーを拾うという。途中まで一緒に歩き、大通りの交差点で僕らは別れた。
ドンッ!!
別れて駅に向かって2、3歩進んだ時、後ろから大きな何かがぶつかった音がした。
「なんだ?」
振り返ると、横断歩道の上で誰かがこちらを背にして倒れている。左側にはセダンの車が一台止まっていた。よく見ると倒れた人はスカートをはいている。女性だ。
僕は駆け寄った。野次馬が出来ている。セダンの車から70代と思しき老人がわなわな震えながら出てきた。一方、倒れている女性は動かない。その女性は髪が長くツヤッとして・・・。
「教授!うわあぁぁ!」
僕は思い切り叫んだ。そこに倒れていたのは、さっきまで上機嫌だった今川教授だった。
結論を言うと今川教授は即死だった。そして今川教授を轢いた老人は酒気帯び運転だった。アクセルとブレーキを踏み間違えたらしい。
こうして日本初のノベール経済学賞を受賞した学者は呆気なく世を去った。大学はもちろん、各メディアでこの偉大な女教授の死を悼んだ。
僕は通夜の日、焼香を済ませた後も斎場から離れることが出来なかった。大きな今川教授の遺影はニコリと微笑んでいるものの相変わらず目は笑っていない。
正直を言うと僕はお金じゃなくて、ただ今川教授の喜ぶ顔が見たかっただけなのかもしれない。
「すみません」
この奇妙な数日間は僕と教授の2人だけの秘密なのだ。そして、僕は日常に戻り・・・。
「すみません」
誰だ、邪魔をするやつは。僕は急に現実に戻され振り返る。見知らぬ4人の女性が立っていた。
4人。嫌な予感がした。
「あのう、得川大歩さんですよね?今川教授から『寄付金』の話を持ちかけられた方ですよね?」
4人の中で一番年上と思われる女性が口を開いた。背が高く黒髪ロングストレートで前髪ぱっつん。
その前髪ぱっつんが続ける。
「今川教授から何枚か写真を頂いでいるので得川さんのお顔は存じてました。教授と親しい方だと伺っていたので、通夜にも参列しているのではないかと思ってました。会えて良かったです」
真面目そうな女性だ。残りの3人は僕の出方を覗っているようだ。さらに前髪ぱっつんが続ける。
「教授の死は日本の将来にとって大きな痛手ですが、私たちは教授の遺志を継ぎ、得川さんの成長を応援したいと考えています」
応援か。人によって使う言葉が違うんだな。統一しておけよ。なんだよ、続けるのかよ、今川教授。最後の最後まで抜け目ないね。人生最後に気にかけたのが僕だったとしたら、それはそれで特別な存在じゃないのか。どこまでも付き合ってやろう。
「そうです。僕が今川教授から毎月500万円の寄付を無条件で受け取るように懇願された得川大歩です。教授から自分以外に4人のメンバーがいると伺っています。あなた方ですか?」
4人が顔を合わせる。ホッとしたようにニコッと笑う。
「そうです。私たちが今川教授がいうところの『残りの4人』です。よろしくお願いします」
前髪ぱっつんが頭を下げる。先に自己紹介してくれ。『残りの4人A~D』と名付けて良いのか。
「ええっと、失礼ですが・・・」
遠慮がちに聞いた。
前髪ぱっつんがハッとなった。
「申し遅れました。私は酒井紗江といいます。実家はどじょう料理を中心にした懐石料理を営んでまして・・・(略)」
前髪ぱっつんの名前は酒井紗江。高級料亭で名高い企業のお嬢様。やっぱり金持ち。
「私は榊原加芽といいます。実家は代々書道家でして・・・(略)」
酒井さんが自己紹介しだすとおそらく歳の順番だろうか、自己紹介をし出した。金持ちだから育ちが良いんだろうね。無駄に礼儀正しい。このショートボブの榊原さんはいかにも和風と言った顔立ちをしていた。酒井さんが切れ長の目をしたアジアンビューティーと言った感じだから良い対比になっている。
「私は本多蜂露。よろしくね。若く見えるけど加芽ちゃんと同い年。実家は槍術の道場とかやってて・・・(略)」
そのままモデル雑誌から出てきたような出で立ちの、ゆるふわウェーブにしてフェミニンボブの本多さん。槍の道場で金持ちになれるのか、と思ったら父親の趣味らしい。本当はトンボという日本最大の文房具屋を営む一族のお嬢様だった。
「私は井伊千代といいます。よろしくお願いします。このメンバーでは一番の若輩者でまだ高校生です。ラッキーカラーは赤色で・・・(略)」
言われなくても学生だって分かるよ、井伊さん。だって喪服が制服だからね。実家は大地主で不動産の収入で生活しているらしい。普通にオーソドックスな金持ちお嬢様。でも顔立ちは4人の中で一番整っている。4人の顔写真を並べて好みを聞いたら百人中九十人は井伊さんを選ぶような気がする。髪型が校則に反しないようにしているためかちょっとダサいのが玉に傷か。それも清純派と捉える人も居るかもしれない。
僕はある意味強気だった。今川教授の通夜という特殊な場の雰囲気がそうさせたのかもしれない。この4人は今川教授と比べるとチョロいような。何というか育ちの良さがにじみ出ていて各界のディベートで鍛えられた海千山千の今川教授と比べるとどうにも頼りないような。自己紹介を聞きながら、僕は何の根拠もなく「勝った!」と心の中で思っていた。しかし、その見当違いが煉獄の始まりだったとは僕はこの時気付かなかった。