「 八夜 」
「圭介さん。口悪いでしょう」
こども並みの口喧嘩に発展している二人を残し、粋さんと一緒に後片付けを始めた。
「圭介さんね、お師匠さんの工房では長いこと一番うえの兄弟子だったの。だからなのか、ついついお節介をやいてしまって。悪気はないんだけど、なにせ口が悪くって最後は大抵言い争いになるの」
流石に「そうですね」とは言いかねて、口ごもってしまうと、「気を使わないで」と粋さんは微笑んだ。
粋さんはどこか河童に似ている。
雰囲気や性格などは全然違うのに、隣にいて疲れないタイプのひとである。
「外堀を埋められているのかと思いました」
正直に白状する。
「それあながち外れていないわ」
「ああ……やっぱり」
「ごめんなさい。キヨちゃんが風鈴を欲しいって言ってから、好いたひとができたんだろって、そりゃあもう圭介さんたら大騒ぎで。首を突っ込めばキヨちゃんに怒られるって、言い聞かせたんだけど……。駄目ねえ」
「いえ、いいんです。それより。あの」
「なあに?」
洗い物をしながら、隣に立つ粋さんへ聞いてみた。
「ズッキーニ、美味しかったです。あの、前に食べたことがあるんです。ズッキーニとトマトのマリネ」
「ああ! もしかしてキヨちゃん?」
「はい」
河童を粋さんの前でなんと呼んでいいものか。思案していると、粋さんが察してくれた。
河童はクリームチーズを合わせ、粋さんのマリネには白身魚が使われていた。その違いはあっても、玉ねぎのみじん切りをたっぷりと使った味つけはとても似ていた。
「わたしがキヨちゃんに教えたもの。そう作ってくれていたんだ。キヨちゃんのマリネ美味しかった?」
「はい」
「そう、良かった!」
後片付けを終え、わたしは粋さんの仕事場へお邪魔した。
宮地さんの工房の真向かい。四畳半の壁一面には、様々な濃淡の翠色の反物がかけてある。新緑のみどり。湖面のみどり。硝子細工のようなみどり。どれもがうすく、頼りなく、それでいて生命力に満ち溢れている。
これがあの団扇になるのだ。そう思うと不思議であった。
「奇麗ですね……」
「ありがとう。ひと冬かけて織るの」
粋さんが一枚の布に、掌をはわせる。若葉を思わせる、黄色がかった翠の布だ。
「圭介さんに会いたい。忘れて欲しくない。どうしているのって。そういう気持ちをこめて織るの」
「……」
指先が、布のうえをなぞるように流れていく。その手が愛おしいといっている。
ふと、お腹を無意識に撫でる妹の手を思いだした。
優しい。けれど力強さを感じる掌。
わたしにとっては憧れるだけの、遠くに感じる、誰かを守ろうとする掌。
「わたしがオオミズアオの化身だってこと。キヨちゃんに聞いている?」
「……はい」
「キヨちゃんは大丈夫。わたしと違って、一年を通して側にいてくれる。いっそひとより、うんと強いくらい。でも本質がオオミズアオのわたしは、寒くなると圭介さんの側にはいられない。この姿を保っておけなくなるの」
小柄な身体。榛いろのおおきな瞳。
ひとの粋さんは美しい。オオミズアオの羽も美しかった。
「毎年夏が終わると、圭介さんは待っている。迷わず戻って来い。そう言ってわたしを送り出してくれる。それでも寂しくて。心配で。会いたくて。その気持ちをこめて冬の間中、わたしは布を織り、圭介さんは土をこねて風鈴をつくる。それが翡翠堂の団扇と風鈴」
ふかい夜の静寂に鳴りひびいた団扇と風鈴のうた。
こいし。恋しと奏でるうた。あれは粋さんと宮地さんの、互いを思い慕う、うただったのだ。
夕刻。
帰る時もまだ雨は降り続いている。
ほそい。絹糸のような雨である。
雨を背景に、宮地家を守るようにそびえ立つ樹々が滲んでみえる。
わたしと河童は上がり框に立つ宮地夫妻と向き合っていた。
「おい。キヨヒコ。又来いよ」
「残念ながらすぐ来ます。それまでに注文していた品、作っておいて下さいよ」
喧嘩はどうなったのか。穏やかな顔で河童は会話をしている。
「おう。任せておけ」
「粋さん。ごちそうさま」
河童が粋さんに頭をさげる。
「ごちそうさまでした。とても楽しかったです」
「それは良かった」
わたしの言葉に粋さんが微笑んだ。夏だけの美しいひと。秋の翡翠堂にこのひとはいないのだ。そう思うと、胸が締めつけられる気持ちになる。
「おい、なにしけた顔してんだよ」
宮地さんは屈むと、わたしの顔を覗き込んだ。背丈が百九十あるという宮地さんは、威圧感が半端ない。かぶさるようにされると、思わず及び腰になってしまう。
「面倒くさくなったか?」
しかめた顔で宮地さんが問う。
「え?」
「粋に色いろ聞いたんだろ? 止めておくなら早い方がいい。好奇心とか遊び心だったら、俺は許さねえし、あんたは大火傷ですまなくなる。止めるならさっさと手をひくんだな」
宮地さんが言っているのは河童のことだ。
わたしに忠告をしているのだ。
宮地さんは真剣な目つきで言葉を続ける。河童が焦ったように、「ちょっと。これ以上はやめて下さい。圭介さん」
宮地さんの腕をひくが、びくともしない。
「俺は基本キヨヒコの味方だ。だがひとである限り、あんたの側でもある。いいか、中途半端な気持ちでこいつらに近づくな。それがあんたの為でもある」
「……」
宮地さんを挟んで河童の顔がある。
困ったような。苦しいような。希望を見いだそうとするような。迷いをふくんだ表情をしている。宮地さんの後ろに佇む粋さんは、落ち着きはらっている。
「いいか、分かったな?」
「……ええ」
「そんならくっつこうが、別れようが俺は口をださねえ。けどよ。キヨと付き合うなら、覚悟しておいた方がいい」
怖い程真面目な顔つきから一転。宮地さんはにやりと下品に口の端をまげた。嫌な予感に背中がざわざわした。
「覚悟……?」
「そうだ。一度でも河童に抱かれたら、人間の男は物足りなくて、相手にできなくなるらしいぜ。なんせこいつら、超、絶倫らしいからな」
「……!?」
あまりな物言いに、唖然とした。
みるみる顔が赤らんでくるのが自分でも分かる。そんなわたしの顔を、面白げに宮地さんが見下げる。いじめっ子のガキ大将みたいな顔をしている。
「圭介さんっ!! あんたっ!」
河童は叫ぶなり、宮地さんに殴りかかった。河童の鋭い一撃は奇麗にみぞおちへ決まった。なかなかどうして。河童は格闘センスがあるらしい。
「ぐうっ」と鈍い声と共に宮地さんは蹲った。
粋さんは、「あら」と言ったきり、宮地さんを一切かばわなかった。