「 六夜 」
狭い路地をぬけた先のどんずまりに、その家はあった。
背の高い樹木に囲まれた、平屋の日本家屋だ。
玄関横には、表札の変わりに「工房 翡翠堂」の看板がかかっている。
看板といっても木製ではない。陶製の大皿である。藍色の地に白で文字が書かれている。この皿があることで、ただの民家ではないのだと分かる次第だ。
河童の話しでは、自宅の一角に風鈴をつくる工房と、団扇をつくる作業場があるという。
「ここが……?」
「そう。ここです」
河童は玄関前で雨傘を畳むと、水気をはらった。
朝からしとしとと小糠雨が降り続く。
夏の雨は、湿度が増す。むわっとした空気が寒天のように身体をつつみこんでくる。
それだけで疲れる思いであったが、河童はすこぶる元気である。機嫌も良い。
わたしは河童と共に隣町へ来ていた。
オオミズアオに、お昼に招待されていた。
翡翠堂の呼び鈴を押すと、現れたのは小柄な女性だ。
ではこのひとが。河童の友人、団扇を作るオオミズアオなのであろう。
成る程。河童の言葉通り奇麗なひとである。得に印象的なのがその大きな瞳であった。
スマホの画面で見た蛾の姿は儚げであったが、ひととしてのオオミズアオからは、すっと芯の通った力強さを感じた。
「キヨちゃん、いらっしゃい」
耳に心地良い声で、オオミズアオは河童をキヨちゃんと呼んだ。
「こんにちは、粋さん。今日はお招きありがとうございます」
河童は丁寧に頭を下げると、土産の包みを渡す。
土産は鯉ではない。一緒に選んだ水羊羹である。
「初めまして」
挨拶をすると、粋と呼ばれたオオミズアオが、わたしへ視線をむける。目の玉の色が驚く程うすい。榛いろだ。
「キヨちゃん。こちらの方が?」
「うん。話していた、しな子さん。僕の、」
そこで河童は言葉をきると、わたしを見つめた。
熱を帯びた。
射すくめられそうな視線に息をのんだ。いつから河童はこんな眼差しをするようになったのだろうか。
「風鈴のひと」
静かな声で、河童は言った。
風鈴のひと。
声にあまさが滲んでいる。わたしは顔から火が出る思いであった。
「あらあら、キヨちゃん。春ねえ」
ころころと粋さんが笑う。
「うん。春です。とても楽しい」
河童が頷く。
なんたる事だ。まさか河童が人前で、この様な行動にでるとは思いもしなかった。居たたまれない気持ちで、わたしはすぐにも雨のなかを走って逃げ出したかった。
その時だ。屋内から男のひとの声が響いてきた。
「おい、キヨヒコが来ているのか? 来ているならさっさと顔をだせ」
聞いていると腹の底にどすんとくる、割れ鐘のような声である。
「はーーい」
軽やかに粋さんが返事をする。
「圭介さん、朝からずっと待っているの。さ、上がって。あがって」
粋さんの案内で、わたし達は翡翠堂の工房へと向かった。
翡翠堂の主である宮地圭介なるひとは、四十代のがっしりとした体格の男性であった。
床一面がコンクリ打ちっぱなしの部屋の中央で、座って轆轤を廻していて尚、大きい感じを受ける。河童も背は高いが、比ではない。
土で汚れたジーンズに、飾り気のないTシャツ。頭にはタオルを巻いている。
両の掌を粘土まみれにしている姿は、陶芸家というよりも、やんちゃな大人のひとという風情である。
年齢不詳で少女のような透明感のある粋さんのご主人にしては、随分荒あらしい感じを受ける。
「しな子さん。こちら圭介さん。僕の店の陶器類は圭介さんの工房から、たくさん仕入れているんです」
「こんにちは。品川です」
「あんたが、噂のしな子さん?」
挨拶もそこそこに畳み掛けるように、宮地さんが聞いてくる。
轆轤を廻す手はとめない。作業を続ける宮地さんのながい指は、やわらかな土を上へうえへと伸ばしていく。灰色の土は生き物のように、うねうねと形を変える。
「圭介さん。しな子さんに変なこと言わないでよ」
河童が焦った様子で釘をさす。一体全体、河童はここでなにを吹聴しているのだろう。
「おりゃあ、変な事なんざひとつも言うつもりはないぜ。キヨヒコから散々聞かされた話ししか知らねえもの」
そう言って、にやりと嗤う。面白がっている笑みである。
「今日は団扇を見せていただけると聞いて、お邪魔させいただきました」
幾分堅い声で、わたしは訪ねた目的をつげた。
わたしの言葉に宮地さんは一瞬興を削がれた顔をしたが、すぐさま粋さんへ声をかけた。
「ああ。団扇か。いいぜ。おい、粋」
「はい」
「団扇だってよ」
「ええ。でもその前にお昼にしましょう。圭介さん。さっさとそれ仕上げて下さいな」
粋さんはそう言うと、さ、こっち。こっちとわたしと河童を手招いた。
この回に登場する宮地圭介さんは「短篇集/夕まぐれスイッチ」の「ひえた毒」に登場する、主人公鈴木浩平くんの兄弟子である宮地さんです。「ひえた毒」の数年後設定になります。