「 五夜 」
この回は、「短篇集/夕まぐれスイッチ」の「掌編うそ話し:あまく匂う夜」の改訂版です。
河童が団扇を扇ぐ。
窓辺に吊るした風鈴が鳴る。
丸みをおびた風鈴は、ふかい夜の蒼色である。
参ったなあ……。この雰囲気はまずい。大変まずい。わたしは途方にくれていた。
どうしようかと、風鈴を見上げる。
隣に座る河童が、「これも美味しいですよ。しな子さん」
わたしの持つ盃に、冷酒をそそぐ。
河童とふたり。わたしの部屋で酒盛りをしている。とろりとした酒は香りたかく、喉が焼けるようである。
「まるで恋心のようではありませんか」
わたしの耳元で河童が囁く。
今日も今日とて、イケメンなので始末に悪い。しかも河童の様子がいつもと違う。かなり積極的ではなかろうか。
赤い顔を隠すように、注がれた酒を飲み干した。やんや。やんやと河童は手を打ち鳴らす。
風鈴が鳴る。頬が火照る。
なんだか河童の座る距離が近いような気がして落ち着かない。
風鈴が鳴る。
河童がそっとわたしの左手に右手を重ねた。思わず肩が跳ねる。
河童の冷えた掌は、火照った躯に心地よい。なのにどういうわけか、とても熱い。これは変だ。頭が変になっている。
河童の顔がまともに見られない。
河童と偶然にもショッピングセンターで会って以来、交友は復活した。わたしとしては、今まで通りで良かった。それなのに河童の態度は変わった。まるで何かを吹っ切ったような感がある。
これはどういう事なのだろう。
わたしはあさっての方向を見ながら、河童から団扇を取り上げ、ばさばさと扇いだ。河童がうっすらと微笑んだ気配が伝わってくる。
そうだ。元はといえばこの団扇が悪いのだ。腹いせに、ことさら強く団扇を振った。
※ ※ ※
その団扇を見たのは偶然であった。
そのはずなのだが、その後の河童の行動の素早さを考えると、本当にそうであったのだろうかと、勘ぐる余地は多分にある。
近所のスーパーへ素麺を買いに行くと、河童がいたのだ。
休息コーナーのベンチで、スタバのアイスコーヒーを飲みながら、すました顔で団扇を扇いでいた。団扇は向こう側が透けてみえる程うすい。そりゃあ奇麗な翠色であった。てろりとした光沢に見惚れていると、「こんにちは。しな子さん」
わたしに気づいた河童が言った。
「どこで買ったのですか? 奇麗な団扇ですね」尋ねると、
「非売品です」と応える。
非売品とは残念だ。隣に座り、借りて扇ぐ。団扇は和紙ではなく、布地を張っている。扇いでいると、なんともいえず風流な心持ちになる。風が甘く感じる。いや、気のせいか。
惜しい気持ちで河童へ返すと、「そんなに気に入りましたか?」と聞かれた。
なんだか意味深な目つきをしている。いつもと少し様子が違う。戸惑っていると、河童は家にまだある分を、譲ってくれると言うではないか。
深く考えずに喜ぶと、では夕刻お持ちします。そう言って帰って行った。
後ろ姿が妙に弾んでいた。
※ ※ ※
約束通りやって来た河童は、えらい大荷物であった。
玄関先で、「どうぞ」と、団扇を渡される。うっとりする程奇麗な翠は、夕なずむ残光にかざすと、翡翠色に輝いた。
「奇麗でしょう」河童が言う。
「奇麗です」
「実はこれ、それだけじゃあないんです」
どういう事ですかと聞くと、眦に笑みをたたえて、「夜になれば分かります。それまで一杯やりましょう」と言う。
てっきり外で飲むものだと思い快諾すると、嬉々としてあがり込んで来る。良かった。よかった。腕によりをかけたので、断られなくて実に良かったと、狭い卓上へタッパーを次々と置いていく。どうやら宅飲みをするつもりらしい。
焦った。掃除は中途半端であるし、わたしはスッピンだ。そう言うと、河童は意にかえさず。
「ハウスダストアレルギーはありませんし、しな子さんのスッピンは毎度のことです」と言う。
生意気なものである。いつから河童はこんなにも生意気になったのであろうか。
現れた料理はどれもこれも美味そうである。ためしにひとつ。みどりと黄色の輪切りの野菜を摘んでみると、さっぱりとしたお酢に黒胡椒が効いている。
「ズッキーニとトマトのマリネです。チーズと食べると絶妙です」
そう言ってクリームチーズの箱を開ける。ここまでしてもらっては致し方ない。酒盛りが始まったのだった。
「実はですね」
河童が耳元で、そっと囁く。
「この団扇はオオミズアオがつくっているのです」
「オオミズアオ?」
聞かぬ名だ。首を傾げると、ほらこれです。そう言ってスマホの画面を見せられる。翡翠色の優雅な羽を広げた虫がいる。
儚げで美しい。
「蝶ですか?」
「そう思うでしょう。蛾なんですよ」
蛾と言われても、ちっとも気持ち悪くない。
「奇麗な蛾です」そう言うと、「しな子さんならそう言ってくれると思っていました。僕の友人です」
「蛾の友人なんですか?」
「隣町に住んでいます」
「そんな近くに団扇をつくる蛾がいるのですか? 驚きです」
「河童がいるのですから、蛾がいたってびっくりしちゃあいけません。ただしご本人はびっくりする程美しい容姿をしています」
「女性ですか?」
「妙齢の女性で、人妻です」
今度会いに行ってみましょう。紹介しますと、河童が言う。人妻というからには、この団扇をつくるオオミズアオなる蛾もまた、ひとに化けているのだろう。
「ところで。なんでその蛾が団扇をつくるのですか?」
「これですよ」
そう言うと河童が風鈴を吊るした。
オオミズアオの団扇で風をおこす。風鈴が鳴る。
また感じた。
風が甘い。どういうことか。
「風があまいです」
「そうでしょう。そうでしょう」
河童は大喜びで団扇をつかう。
風鈴が鳴る。
こいしこいしと微かに聞こえた。
「オオミズアオの団扇は、夏の夜だけ恋の歌を対の風鈴で奏でるんです。ほらこうやって」
恋しい。
恋しい。
貴方が恋しい。
団扇と風鈴の奏でる歌が部屋を満たす。
河童は重ねた手をどけない。どういうわけか。わたしも振りほどけない。きっと酔って面倒だからだ。
朝になれば団扇は、ただ風をおくるだけの代物になるだろう。一夜限りの酔っぱらいの夢想なのかもしれぬ。
重ねた盃の酒までが、あまく匂う夜であった。