「 四夜 」
世間は夏休みにはいり、普段目にしない子供たちや若者を、町のあちこちで見かけるようになった。
職場では社員全員で順番に夏期休暇をとる。残った者はその分仕事におわれる。残業を理由に、連絡があっても河童との帳簿付けを怠けていた。
気がつくと、川辺の祭りへ行ってから十日が過ぎていた。
一度。
アーケード街で河童を見かけた。
佃煮屋の店先で、商品を選んでいる風であった。
深緑色のエプロンを腰にまき、ジーンズの足元は涼しげな雪駄であった。エプロンをしているということは、店の仕事中なのであろう。わたしは、きれた文房具の買い出し中だった。
何故なのか。声をかけずにその場を通り過ぎた。
※ ※ ※
この頃のわたしは自分の気持ちに、始終もやもやとしていた。どうしたいのか。どうされたいのか。葛藤を持て余し、拗らせていたのかもしれない。
河童に会いたいとは思っていた。
河童の店は知っている。
右を床屋。左を花屋に挟まれた、間口の狭い店だ。
「小間物 しみず夜」の看板を掲げている入り口には、濃紺の暖簾がかかっている。暖簾をくぐり、顔をだせばそこに河童はいる。容易に会える。
仕事の帰りにでも寄ってみれば良いのだ。
魚の美味しい居酒屋を、同僚から教えてもらった。地酒の種類も多いという。河童は飲んべえだ。ざるだ。もしかしたら気に入って、行きつけになるかもしれない。そうしたら、待ち合わせ場所にできるだろう。うん、楽しそうだ。
だがどうしてなのか。
河童に会いに行く。
そんな簡単なことが、なかなかできなかった。
暑さのせいかもしれない。そう思った。
わたしはこどもの頃から夏が苦手だ。
出不精に拍車がかかる。
河童に会えば、きっとまたどこぞに出かけたがるであろう。夏休みの人ごみに出かければ、疲れるだろう。疲れると、機嫌も悪くなろう。それならば夏の間は、ひとりでゆっくりしていた方がいい。
そうだ。
秋になるまでひとりで良い。
毎夜。
寝る前に自分にそう言い聞かせ、眠りについていた。
土曜日に家の電話が鳴った。
でると離れた町に住む妹からである。一緒にショッピングセンターに買い物に行ってくれと言う。夏の買い物など面倒だ。義弟のコージ君はどうしたと聞くと、休日出勤だという。
妹は妊娠中だ。
冬にわたしは叔母さんになる。お腹の大きな妹を、一人で買い物に行かせるのもしのびなく、出かけることにした。
電車に乗って、妹の住む町まで行った。馴染みのない駅を出ると、ペタンコのサンダルを履いた妹がいた。お腹は、余り目立っていない。
「全然妊婦さんじゃない」
わたしがそう言うと、「だから余計気を使うんだよ」と妹は口をとがらせる。
「妊婦なのに、まだ妊婦っぽくないじゃん。妊婦を理由にできないんだよ。だからって体調はイマイチだし。お腹の子には気をつかうし。これで色々大変なんだから」
イライラしている様子でまくしたてる。
コージ君と喧嘩でもしたか。マタニティーブルーか。触らぬ神に祟りなしだ。
わたしは黙って妹の買い物に従った。
信じられぬ程ちいさなベビー服を見て、ベビーカーの価格をチェックして、マタニティー雑誌を買う。その合間あいまに休憩と称して休む。休むとお茶を飲み、甘味を食べる。
「あんた体重制限大丈夫?」
聞いても、妹は知らぬ顔をする。
「今しかゆっくり食べられないんだよ! 産まれたら、ずうううっとママやって、悪戦苦闘だもの」
そう言ってかき氷をじゃくじゃくと崩しては、口へ運ぶ。やれやれ。どうやら本日の妹はデリケートで怒りっぽい。
買い物の締めくくりは、食器コーナーであった。この間の荷物持ちはわたしだ。そろそろ本当に切り上げたい。
妹の目当てはウエッジウッドのコーナーだった。ウエッジウッドといえばイギリスの高級食器だ。妹にそんな趣味はない。不思議に思いながらついて行くと、イヤープレートなるものを探していると言う。
「イヤープレート?」
「うん。ちびちびちゃんの誕生年のプレートを買っておこうかなと思って。あ、今日じゃなくてもいいんだけどさ」
ちびちびちゃんとは、お腹の赤ちゃんだ。散々悪戦苦闘とか言いつつ、妹の掌は優しげにお腹を撫でる。無意識の仕草にどきりとした。
「高いねえ……」
「安くはないね」
姉妹で水色の皿を見ながら、値段の感想を言い合う。皿自体はまったく実用製のなさそうな、繊細なレリーフをほどこしたものだった。ざらざらとした水色の表面に、しろのレリーフで天使と西暦が描かれている。
「あんた、こんな趣味ないじゃない」
「お友達のね、家にあったんだよね。それ見てなんかいいなって思って」
単純だねえ。その言葉は飲み込んだ。
どうすべきかと姉妹揃って唸っていると、背後から声がかかった。遠巻きにこちらを伺っていた、年配の店員さんのものではない。
「品川さん……?」
確かめるような。こちらの反応をうかがうような声色だった。
姉妹で振り返ると河童がいた。
帰りの車のなかで河童は思いだし笑いを、くつくつともらしている。後部座席に大量の買い物袋と共に座っていた妹は、つい今しがた降りたばかりだ。それからずっとこの調子だ。
「だって。しな子さん、僕を清水さんって呼ぶから。真面目な顔して、清水さん。って。くふふふ」
まさか妹の前で「河童」などと呼べるわけがない。
わたしはふて腐れて、助手席の窓から外の景色を眺めた。河童が運転する水色のミニバンはすいすいと、妹の住む町を通り過ぎて行く。
忌々しい。きっと今頃妹は実家の母に嬉々として電話をしているに違いない。そう考えると、途端に憂鬱になってくる。
※ ※ ※
河童はショッピングセンターで開催していた陶器展に来ていたのだった。なんでも付き合いのある陶芸家が出展していたらしい。
「こんな所で会うなんて奇遇ですね! 品川さん」
ニコニコと河童が微笑む。
一見して好青年である河童の登場に、妹は最初きょとんとし、次に鋭い視線をわたしに向けた。
無言であっても、互いに目つきで相手の言わんとしていることは概ね分かってしまう。
(お姉ちゃん誰? このイケメン。え、まさか! かれ……)
(違う。ちがう! それ、ちがうから!)
(うそ!)
妹は完全に誤解していた。もしくは我が家の希望的観測に飛びつこうとしていた。すなわち、妹に結婚出産共に先を越された姉の、遅咲きの春到来と、思い込もうとしているのだ。ここで妹の妄想を、そのまま持ち帰させるわけにはいかない。
「町内会で一緒の清水さん」
わたしは無難な線で、妹へ河童を紹介した。最も妹は、わたしの言葉を全く信用していなかった。それゆえ「僕車で来ているので、送りましょうか」の、河童の言葉にすぐさま飛びついたのだ。
妹は自宅に着くまで、町内会の清水さんを質問攻めにした。わたしは車中で、生きた心地がしなかった。
※ ※ ※
河童はまだくつくつと笑っている。全くもって癪にさわる。
「そう言う貴方も品川さん呼びでしたよ」
窓を向いたままわたしが言うと、
「だって、下の名前教えてもらっていませんから。それとも、しな子さんって、呼んでもよかったですか?」と河童が聞く。
確かに妹の前でしな子さん呼びは、ちょっと。いやかなり罰が悪い。
「それにしても良かったです。気が楽になりました」
笑いを収めて、河童が言った。
「なにがですか?」
「しな子さんに偶然会えました。なんか、もう、会ってくれないのかと思っていました」
河童の言葉にぎくりと躯が強張った。外を向いていて良かったと。心底思った。
「この頃は……ちょっと仕事が忙しかっただけです」
「そうですか! それは大変だったんですね」
「まあ……いつもの事ですから」
わたしは言葉を濁すと、窓を流れる景色を、さも重要な意味があるのだと言わんばかりに眺めた。
嘘だ。
妹に付き合って外出していた。忙しいといっても、引っ越しシーズンはとうに終わっている。河童に会えない程の忙しさではなかった。
「今日お出かけということは、そろそろ時間がとれるようになったんですか?」
河童が痛いところをついてくる。
「まあ……そんなところです」
「じゃあ、時間ができたら、またどこか行きませんか?」
「……そうですね」
河童は良かった。よかった。と無邪気に喜んでいる。
暮れていく時間なのに、夏の夕刻は十分すぎる程明るい。河童の運転するバンは渋滞にひっかかることもなく、するすると見慣れた町へと向かって走る。
ふと、このまま。どこでもない。見知らぬ場所へ行ってしまうのも良いかもしれない。そんなこどもっぽい想像をした。
ウエッジウッドのイヤープレートは奇麗なジャスパーブルーです。
本中では「実用性のなさそうな」などと書いておりますが、私自身はウエッジウッド卿の直筆サインまでもらいに行く、こてこてのファンです。