「 二夜 」
川から戻ってから、変である。
河童はいつも通りで、変わらない。
変なのは、わたしだった。
仕事をしていても。食事をしていても。お風呂にはいっていても。
ふとした時に、川での河童を思いだす。そうすると途端落ち着かない心持ちになる。
いかん。いかん。と首を降って頭のなかから河童を追い出す日々が続いた。
※ ※ ※
河童と出会ったのは四月の初めであった。
籤をひき、町内会で同じ会計係りになったのだ。
河童は町はずれにある寂れたアーケード街で、小間物屋を営んでいた。時々買い物の時に、見かけたことがあった。感じの良い好青年。それくらいしか河童に対して感じるものはなかった。
河童の町内会の仕事ぶりは、至極真面目なものであった。町内会費を集め。帳簿へつけ、銀行口座へ入金する。必要な経費はおろし、領収書を管理する。わたしのしていた事といえば、河童の作った帳簿と通帳、領収書を照らし合わせて印鑑を押すことくらいであった。
河童は皆が嫌厭する仕事を、黙々とこなしていた。感じの良い河童であった。
ある日。
公民館でふたりの時があった。
がらんとした部屋で机を挟んで、帳簿の確認をしていたのだ。
河童は真面目な口調で、支出の説明を続けている。
わたしは仕事帰りで、正直面倒であった。ちいさな運送会社の事務をしていた。春は引っ越しの季節で、事務所はフル回転となる。欠伸を噛み殺していると、ふと河童の説明が途切れていた。これはわたしの態度に気を悪くしたのかと、焦って河童を見ると眉間に皺をよせている。
怒っている。どうしよう。
不真面目な態度でごめんなさい。そう謝ろうとした時だ。
河童がぐいと身を乗り出した。
「実は、僕は河童です」
切羽詰まった声であった。
「は?」
わたしはつい今しがた言われた事の意味が、正直頭にはいってこなかった。
首をかしげるわたしに、「ひとの姿をしておりますが、本質は河童です」
噛んで含めるように、河童が言った。
わたしは何故なのか、動揺しなかった。いきなりのカミングアウトに変なひとだとは思ったが、不思議と嘘だとも、奇妙だとも思わなかった。かえって「一目惚れしました」と言われた方が、よほど嘘くさく感じたであろう。
だからと言って気の利いた言葉も返せず、ふたりで机をはさみ、しばし見合っていた。
この時。わたしは思いがけず近くで見た、河童の目玉に感心していた。しろい部分がこどもの様に澄んでいる。奇麗なものである。わたしが関係ないことをつらつらと考えている間、河童はわたしの反応が分からずに、躯を強張らせていたようだ。
どのくらいそうしていたであろう。
そのうち河童の肩が、てろんと下がった。息をひとつ吐くと、何事もなかったかのように支出の説明を再開する。帳簿と領収書との付け合わせを終え、河童が帳簿へ印鑑を押す。
印鑑には「清水」とあった。
「清水さん。なんですね?」
わたしが尋ねると、
「清水清彦です」と河童が応えた。
シミズ キヨヒコ。
実に河童にぴったりの名前である。
「良い名ですね」
「そうですか?」
「ええ。ぴったりです」
河童が顔を臥せた。ふせたので表情は見えぬが、耳の先がうっすらと赤い。どうやら照れているようだ。
清水の印鑑の隣に、わたしも確認印を押す。
帳簿を返すと、「品川さん」
河童がわたしの印鑑の名を読み上げた。
「良い名です」
「普通の苗字ですよ?」
「ええ。けれど川がつきます」
河童だけあって、川が好きなのであろうか。そう思うと少し面白かった。
「しかも品のある川です。とても良い名です」
河童が微笑んだ。耳の先はまだ赤らんだままであった。
この後。河童はすこしずつだが、くだけた感じになっていった。
わたしのことを「しな子さん」と呼ぶようになったのもこの頃からだ。