「 十二夜 」
「え?」
虚をつかれた顔で、河童がわたしを見据えた。
「今年の春で三十二になりました。この町に住むまでは、東京で暮らしていました。大学生の頃からです。大学を卒業し、商社に勤めました。経理をしていましたので、実は貴方の説明が無くとも、町内会の帳簿付けなど朝飯前なのです」
「……あの」
わけが分からない。そんな表情で河童は首を傾げた。
ここで止めるわけにはいかない。構わずにわたしは告白を続けた。
「勤めて二年目に、恋人ができました。初めての恋人でした。付き合いが半年を過ぎる頃には、互いに結婚を考えました」
河童が、すっと息をのむ。
「頭の回転が早いひとでした。少々意固地なところもありましたが、育ちがよく、所作の奇麗なひとでした。
彼にアメリカ転勤が下ったのを機に、結婚の話しが進みました。わたし達は両家に挨拶へ行き、式の日取りを決め、ドレスを選びました。わたしは仕事を辞め、英会話を習いに行きました。幸せにむかって歩いているのだと、毎日が充実して……ですけど、最終的に彼との結婚は無くなりました」
「……」
「アメリカの医療費は高額です。歯の治療は勿論。国内にいるうちにと、主に彼のご両親に勧められて、人間ドックを受けました。そのなかにはブライダル検査もありました。女性特有の疾患を調べるのです。そこで、わたしは、……きわめてこどもが、できずらい体質だと分かったのです」
両親以外で初めてである。
妹にさえ破談の本当の理由は言っていない。言えなかった。
自分が不合格なのだと、突き付けられた思いをむし返したくなかった。ひとに知られるのがずっと怖かった。
ながい息を吐き、わたしは既に温くなっている珈琲カップへと手を伸ばした。そこで初めて、掌が細かく震えているのに気がついた。
河童を見る勇気はなかった。震える指先で、縋るようにカップをなんとか掴んだ。
「……全てがなかった事になって、彼はひとりでアメリカへと渡りました。わたしは東京を離れ、生まれ故郷に近い、この町に住むことにしました。両親からも、妹からも、少しだけ距離があった方が、息がしやすかったからです。昔なじみの友人にも会いたくなかったのです」
無言で河童が両の手をわたしへ伸ばした。
カップのうえから、わたしの右手をそっと河童の掌が包み込む。ひんやりとしているはずの掌が、今日は暖かく感じた。
「貴方から」
まだだ。まだ告白することは残っている。今を逃してしまったら、きっとわたしは素知らぬふりを続けてしまう。蓋をして、なかったことにしてしまう。
「貴方から河童だと告げられて、楽でした。貴方が河童だと知って。欠けた部分がはっきりと分かるひとだから、一緒にいて楽だったんです。酷いおんなです。狡いんです」
目を閉じた。
閉じても、うっすらと涙がにじんでしまう。もう五年以上前だ。
今更泣くことなどないと思っていた。泣く程心が乱れることなど。もうないと思っていた。
駄目だ。この場で泣くなと、唇をかんだ。
「それならば、僕も狡いです」
河童が口を開いた。
怒りを感じない、穏やかな声であった。
「貴方がこんなにも傷ついていたのを知って、喜んでいます。貴方につけ込む隙があるのを、喜んでいるんです。しずくさん」
河童がわたしの名を呼んだ。
「ねえ、貴方が好きなんです。風鈴を返すなんて言わないで下さい。僕の思いをもらって下さい」
わたしは息をふかく、吸い込んだ。
暖かな河童の手から自分の掌を抜く。
「しずくさん」
河童がわたしに再び手を伸ばす。わたしは河童の手を避け、鞄からもうひとつの荷物を取り出した。
粋さんの団扇。
けれどそれは、河童からもらった団扇ではない。
より濃い夏草の翠。力強い生命の、芽吹きの翠だ。織ったのは無論粋さんだ。
「粋さんの手ほどきで、わたしが布を張りました。そのーーいっぱい手伝ってもらったのですが」
そう言って、伸ばされた河童の手へ団扇を渡した。河童は驚いたように、わたしと団扇とを見比べた。
わたしは席を立つと、卓上から風鈴を取り上げた。
風鈴が揺れ、微かな音色をもらす。けれどそれは、まだ恋のうたではない。
わたしは急いで壁ぎわへと駆け寄った。
小間物屋だけあって、しみず夜は実に様々な物たちで溢れている。
壁には棚やフックがいたる所にある。
そのなかの空いているひとつに、わたしは風鈴を吊るした。
振り返る間もなく、思った以上に近くから、河童の声が聞こえた。
わたしのすぐ後ろに、河童が立っている。
「しずくさん。僕はどうしたら良いですか?」
「その団扇はわたしが張った団扇です。もし貴方が、わたしをまだ望んでくれるのならば、どうぞそれで扇いで下さい」
「良いのですね。これ以上、僕は絶対引きませんよ」
「はい」
河童が扇ぐ。
背後から風が流れてくる。
風鈴が揺れる。
あまい風だ。気のせいではない。
風鈴が鳴る。
こいし。こいしと聞こえてくる。
これはわたしのうただ。
涙が少しだけ、伝った。
「しずくさん!」
風が途切れ、背後から河童に抱きすくめられた。
「僕をかき乱さないでください。こんな試されるような事は、もうまっぴらです。貴方の言葉を、僕に告げて下さい」
長い腕がわたしを拘束する。
力強い、あまい拘束であった。
「キヨヒコさんが恋しいです」
わたしの言葉に、拘束する腕の力が強まる。後頭部に柔らかな感触を感じた。河童の唇だ。
「僕も貴方がたまらなく恋しい」
河童が微笑んだ気配が伝わってくる。
しんしんと夜の静寂がおりてくる。
あまく。濃く。漂う匂いに包まれる。わたしは河童に身を寄せた。




