「 十一夜 」
「しみず夜」に足を踏み入れると、軽やかなピアノ曲に迎え入れられた。
生憎知識のないわたしには、曲がバッハなのかドビュッシーなのか見当もつかない。
突然の訪問に河童は驚いた顔で、カウンターからわたしを見つめた。
小間物屋だけに、しみず夜の店内には様々な品物が置かれていた。
和物が大半を占めているが、なかにはアールデコ調のランプなどもある。陶器。得に皿類も多く、青地のものを見ると、口の悪い宮地さんを思いだす。
時間があればこれらの一つ、ひとつを手にとり、河童の説明を聞くのは楽しかろう。望めば河童は進んでしてくれるはずだ。だが楽しい時間を選んでしまえば、容易にわたしの決意は崩れてしまいそうだった。
その為近寄って来た河童へ、すぐにも用件を告げた。
「怠けていた町内会の帳簿付けに来ました」
河童はわたしの言葉に、拍子抜けした顔をしたものの、すぐにも愛想良く微笑んだ。
「いいですとも。ところで風邪はもうよろしいのですか? しな子さん」
「おかげさまで、もうすっかり。その節はお見舞いをありがとうございました」
「いえ。僕のせいでもあります。面目ない」
河童はまずはお茶でもと声をかけてくれたが、わたしは丁寧に断った。
店はまだ営業中だ。片隅のテーブルを借り、ひとり黙々と作業をこなした。
作業中。何組かのお客さんがやって来ては去った。
品物を手にとったり、河童へ説明を求めたり、プレゼント包装を頼むお客さんもいた。
河童は手慣れたもので、くるくると器用にリボンを巻く。河童にリボンを巻かれただけで、品物は幸せの象徴に姿を変えていく。
接客が途切れる度に、河童は物言いたげな視線を、わたしへ投げかけてきた。
素知らぬふりで、わたしは視線をやりすごした。
九時になると、河童は暖簾をしまった。
戸を閉め、一旦奥へと引っ込む。しばらくすると、暖かい珈琲を手に戻って来た。
「お疲れ様です」
店は冷房がきいている。座って作業をしていると、手足の先が冷たく感じる程だったので、温かさが有り難いくらいであった。
「ありがとう」
「いえ。熱心ですね、しな子さん」
「実は明日から夏期休暇なんです」
「え? そうなんですか?」
「はい。なので雑用を済ませてしまって、のんびりしようと思っています」
「真面目ですねえ、しな子さん。休み中の予定はあるのですか?もし無ければ、どこぞにーー」
河童が話している最中に、わたしは用意していたものを鞄から取り出した。
巻かれたタオルを卓上で開く。出てきたものが風鈴だと分かると、河童は言葉をつまらせた。
「ーーこれ」
「お返しします」
河童の言葉にかぶせるようにして、早口で告げた。
「これは……しな子さんへ差しあげたものです」
「はい」
「返すなどと言わないで下さい」
「ですが、一分の隙も与えるな。情けをかけるなと。わたしに、そうおっしゃいました。これはお返しします。そうしなければ、けじめがつきません」
「……」
河童は無言で風鈴を凝視しした。
この瞬間。
宮地さんが粋さんへの思いをこめて造りあげた風鈴は、まるで記憶の残骸のように色あせてみえた。
「確かに」
河童が口を開いた。永久凍土から発掘されたような。凍てついた声色であった。
「確かにそう言いました」
河童はゆっくりとした動作で、風鈴へ指先を伸ばした。
「参った。……参りました。自分の言葉に息の根を止められるというのは、……思った以上に辛いものです」
深くふせた河童の表情は、伺い知れなかった。しかし見ずとも、河童が酷く傷ついているのは、言葉の端々から滲みでている。
わたしは帳簿の最後の欄に、確認終了の印鑑を押した。
帳簿を河童へと返す。
河童がのろのろと顔をあげた。
「雑用はこれで終わりですね」
河童らしからぬ、自嘲に満ちた言葉であった。
「品川と言います」
わたしは朱色に濡れている、苗字を指差した。
「品川しずくと言います。しずくは、ひらがなです」
わたしは河童へ、わたしの名を告げた。




