「 十夜 」
もし。
あの日。
河童が、河童であることを語らなければ。
もし。
あの日。
わたしが河童を知らなければ。
わたしの世界は、随分と味気ないままであったかもしれない。
※ ※ ※
「こどもの頃は河童であるというだけで、色いろな失敗をしでかしました。難儀なことも多かったように思います。河童である事を理由に、突然離れていくひともおりました。
その度に、なんとも言えない惨めな思いを抱きました。
ならいっそ。惹かれそうに思えるひとには、はなから告げてしまおうと。そう思うようになったのです。
はなから告げて。自分の気持ちの退路を塞いだ方が、いっそ楽なのです。
河童だと。
知って尚側に居てくれるひとならば、気持ちを預けられる。そういう狡い算段なのです」
※ ※ ※
河童の言葉は、重かった。
わたしなどが持つには、躊躇う程の重さであった。
河童の眼差しを受け止めるのは、怖かった。
それでも何故か目をそらしてはならぬと、本能で悟った。
河童は傘を閉じると、足元に投げ捨てた。いつもの河童の行動らしからぬ、切羽詰まった動作であった。
雨が河童の身体を、しとどに濡らしてしまっても、気にするそぶりもなかった。
「重いですよ。しな子さん」
傘を手放した河童は、自由になった両手で、わたしの左手を握った。
雨に冷えたせいか。
河童であるせいか。両の掌は夏の夕刻だというのに、すっかり冷えきっていた。その冷たさが、どういうわけか寂しく感じた。
「僕の気持ちは酷く重いです。圭介さんの言葉は、ある意味正しいんです。しな子さん。貴方は僕が嫌になったならば、全力で逃げなきゃいけません。一分の隙もなく。情け容赦なく。僕から逃げなければいけません」
河童がわたしの腕をひく。咄嗟のことにたたらを踏む間もなく、わたしは河童に抱かれていた。
傘がわたしの足元を円をえがくように、転がっていった。
「絶対。河童に情けをかけてはいけません」
そう言いながら、河童はわたしを強く抱きしめる。
「好きなんです。しな子さん」
震える声であった。
わたしは河童に抱かれて、そのまま水に呑みこまれていくような、そんな錯覚をおぼえた。
※ ※ ※
雨のなか。
ずぶ濡れになったわたしは、体調を崩した。
まるで平気な河童が、蜜柑の缶詰やら、おにぎりを差し入れにきた。差し入れだけを有り難く受け取り、河童には玄関先でそうそうに帰っていただいた。
河童は恐縮していたが、河童のせいだけではない。いい年をした大人が、傘を使わないのが悪いのだ。
熱でぼやけた頭で、変な夢ばかりを断続的にみた。
夢の河童は、見たことのない河童であった。
灰がかったみどりの皮膚をしており、口が尖っている。指の間には水かきまで備えている。実に立派な河童の形をしているのだが、何故が皿と甲羅は見当たらない。
その姿でぱりっとしたシャツを身につけ、エプロンを腰に巻いている。以前見た雪駄ではなく、素足で立っている。水かきがあると、靴は不自由なのだろう。河童の形であっても、矢張りイケメンである。
夢のなかで河童が叫ぶ。
「河童に情けをかけてはなりません」
「逃げて下さい。いえ、逃げずにとどまって下さい」
「どうか僕のもとへ来て下さい」
「河童である僕を受け止めて下さい」
河童は拳を振り上げて、朗々と語る。
夢の河童を、次にやって来た宮地さんが足蹴にして追い出した。
「駄目だ。河童に情けをかけると酷い目にあうぞ」
夢のなかであっても、質の悪い笑顔全開である。なんとも忌々しい。
「厄介だ。河童はまったくもって厄介だ。付き合うのならば、それ相応の覚悟を持たなきゃならねえ。おまえさんにできるとは、思わねえ。止めとけ。やめとけ。無理なんだ」
夢のなかでわたしは腹をたて、宮地さんへ蜜柑の缶詰を投げつけた。缶詰は見事に宮地さんの頭にクリーンヒットした。宮地さんが仰向けに倒れ、夢の縁から落っこち消える。
粋さんがお見事と、盛んに手を打ち鳴らす。
投げ捨てた蜜柑を河童が拾って戻って来た。
「蜜柑です! しな子さん、蜜柑を手に入れました。これを持って共にピクニックへまいりましょう。ふたり、川で暮らしましょう」
たちの悪い風邪であった。わたしは河童と宮地さんにうなされては、朦朧とした頭で起きあがり、薬を飲んでまた寝る生活を続けた。
※ ※ ※
風邪を治し。決意を胸に、わたしは河童を訪ねた。
敢えて連絡はしていない。こういうのは思い立ったが吉日である。
仕事帰りにまっすぐ向かった。割れぬよう二重三重にタオルに包んできたのだが、肩にかけた鞄が揺れると涼やかなる音が鳴る。
河童からもらった翡翠堂の風鈴である。
風鈴を河童へ返そうと思った。河童の真面目な言葉が、わたしに決意をさせた。
迷いがないわけではない。今でも迷っている。
河童との交友は楽しい。河童の側は居心地が良い。
だからと言って、このまま河童の好意に甘えるのは駄目だと思った。
濃紺の暖簾をかき分け、わたしは初めて「しみず夜」へ足を踏み入れた。




