「 九夜 」
翡翠堂は、狭い路地のどんずまりにある。
水色のミニバンを止めている場所まで、ふたりで歩いた。
粋さんからもらった団扇を、濡れないように鞄にしまう。団扇は鮮やかな翠をしている。力強い、夏草の翠色だ。
「もう、絶対許さない! もう、もう、もう!」
歩きながら河童は牛のごとく文句を垂れ流している。帰り際に宮地さんに言われた際どい台詞に、かなり頭にきているらしい。なかなかナイーブな性質なのであろう。わたしはそんな河童の様子に、くすりと笑った。今日の河童はすごくこどもっぽい。
「しな子さん。あんなの全部でたらめだから!」
悲痛な声で河童が叫ぶ。
「へえ……?」
「圭介さん、僕を揶揄うのが好きなんだ。あのひと、ホントああいう所、質が悪いって言うか。絶対信じちゃ駄目だからね!」
「へえ」
くすくす笑いながら、肩のところで傘をまわす。
水滴が飛ぶ。雨の降りしきる夕刻。路上にいるのはわたしと河童だけだ。
「しな子さんってば!」
「なに?」
「もしかしたら、面白がっている?」
「……うん。かなり」
立ち止まると、わたしは河童の顔を見上げた。
情けなくも河童は両の眉を下げている。雨に濡れ元気一杯の河童ではなく、濡れそぼる犬のようである。実に情けない風情だ。
「楽しかったから、いいじゃない」
「本当に?」
河童が探るように聞く。
「宮地さんには正直驚いたところもあるけど、粋さんは良いひとだし。宮地さんも良いひとなんでしょう?」
「うん、……まあ、良いひとだね」
「なら、いいでしょう」
河童はまだひとりでぶつぶつ呟いていたのだが、やがて「まあいいか」と肩をすくめると、わたしの隣に立って歩き出した。
「しな子さん」
「はい」
「しな子さん」
「はい、なんですか」
「いえ、……あの、」
言葉を飲みこみ、河童は再度立ち止まる。
「どうしたんですか?」
「あの。もしよろしければ、手をつないでいただけませんか?」
「……雨ですよ?」
確か川辺の祭りへ言った際は、実にスマートに手をつないでいた記憶があるのだが、どうやら今日の河童はとことんこどもっぽくなっているらしい。
「ご存知でしょうが河童なので、雨などへっちゃらです」
「それはそうですね」
「しな子さんは濡れないようにして下さい」
そう言って河童は自分の右手を伸ばし、わたしの左掌を握りしめた。
半袖からでている右腕どころか、河童の右半身はすぐにも濡れそぼる。
「本当に平気なんですよね?」
「はい。全く問題ありません」
「河童だから?」
「はい。河童なので」
雨で濡れる腕は、いつにも増してぬらりとしている。角度によっては緑っぽく見えなくもない。
指摘すべきか。見ぬふりが良いのか。考えてもせんない事かもしれぬ。
なにせ河童は河童だ。緑の腕だろうが、水かきがあろうが、本質は同じなのだ。ならば大人の対応として、ここは不問にきそう。
遠く路地の向こうから、トラックの走りぬける音が微かに聞こえてきた。
「そう言えば。実は聞きたいことがあるのですが」
「はい?」
前々から気になっていたことがある。
「どうして割とすぐに、河童だと名乗ったの? 言われなければ、わたしはきっと気がつかなかったと思うのだけれど」
「ーー知らなかった方が良かったですか?」
「え?」
「僕は嫌です。しな子さんには知って欲しいと思いました。知って、尚。側にいてくれるかを知りたかったんです」
真摯な声であった。
河童の人柄をにじませる、真面目な理由であった。
「それは……凄いね」
わたしは、ちょっと言葉につまった。
「なにがですか?」
「だって、河童であるって、秘密なんでしょう?」
ちらと隣を歩く河童の顔を伺ってみるが、あいにく傘で隠れて見えない。
「まあ、そうですね。流石に誰かれかまわず吹聴はしません」
「そうだよね。わたしだったら。怖くてなかなか言えない」
「そうですか?」
「……うん。怖くてきっと打ち明けられない」
「怖いっていうのは、もっと違うことなんですよ。しな子さん」
ついと、河童が立ち止まる。つられてわたしも足を止めた。
右も。左も。
軒の低い民家に囲まれた路上である。
どこからともなく、テレビの音が微かに聞こえてきた気がしたが、すぐにも雨音にかき消された。
気づけば雨あしは、ほんの僅かであるが強くなっている。傘から出ている河童の右腕は、すっかりびしょ濡れになっている。
「怖いというのは、もっと違うことなんです」
河童はゆっくりと同じ言葉を繰り返した。
見上げた河童の眼差しは、堅いひかりを宿していた。




