坂東蛍子、アルバムを探す
少女に認められた偉大なプリンは、冷蔵庫へと再びしまいこまれた。坂東蛍子はプリンをいっぺんには食べず、必ず一度冷蔵庫の最奥に戻す。贅沢は仕事の前と後、二度に分けて味わった方が良いに決まってるし、大事なもの程大切にしまい込むべき――それが彼女の持論だった。
「さて、次は明日の授業の予習か」
欲望をくすぐる秋風の中でも、彼女は予習復習を欠かさない。といっても、希代の秀才である蛍子は勉強に大した時間をかける必要がない。普通の高校生なら小一時間「うーん」で費やす微分積分も、三度の「あっ」で片付くので、むしろ常人よりも遊ぶ時間を持てているぐらいである。人生も時間も、いつだって秋風みたいに清々しく不平等なものなのだ。
冷蔵庫を閉めた拍子にキッチンの脇で何かが倒れ、蛍子はそちらに目を向けた。それは折りたたみ式の台だった。蛍子が小学生の頃キッチンでお手伝いをする時に乗っていた、顔のある花と二足歩行の兎がプリントされたライト・ピンクの足台だ。
「・・・そういえば私が赤ちゃんだった頃の写真って見たことないかも」
蛍子は台を立て掛け直しながら自分の記憶を遡った。しかし遡るにも限界がある。そもそも蛍子は自分の過去を思い出すのが苦手だった。六歳頃になると思い出が灰色の靄ですっかり覆われて何が何だか分からなくなってしまう。自分が赤ん坊の頃、どんな顔で過ごしていたかを知るためには、やっぱり写真の窓枠を通して覗くのが一番だ。思い立った彼女は数学の予習と惜別しつつ、アルバムを求めてリビングへ飛び込んだ。
当然ながら、アルバムが収納されている棚は真っ先に調べた。そこに収まったアルバムを片っ端から引っ張り出し、高校の入学式のふてぶてしい顔や中学の修学旅行の衝撃画像を存分に堪能した。けれども、やはりというべきか、見つかるのはどれも記憶の何処かに残っている写真で、赤ん坊の姿はどこにもない。念のため彼女はカメラマンである父の私物も一通りひっくり返したが、中身は仕事の合間に撮られた風景写真ばかりだった。
蛍子はなんだか嫌な予感を覚えた。正体は分からなかったが、何か触れてはならないものに触れてしまったのではないかという想像が頭の隅に湧き上がったまま居座っている。坂東蛍子はそんな居候を許す気はなかった。
私のかわいいかわいい赤ちゃん時代を、なんとしてでも見つけ出さないと。
三十分が経った。蛍子は相変わらず手がかり一つ掴めず、散らかったリビングで途方に暮れていた。エアコンの上も、食卓の裏も、グランドピアノの中だって探したが、アルバムの痕跡すら感じられなかった。
ふと蛍子は先日テレビで聞いたジョークを思い出した。「実はお前は橋の下で拾った子なんだ」というありがちなジョークだ。でもそれって、と蛍子が唾を飲む。ジョークだから言えることだ。ジョークじゃなかったら、子供にそんなこと絶対言えない。
(私はそんなジョーク、まだ言われたことない・・・)
そういえば、私とお母さんって全然性格似てない。意見が食い違ってよく口論になるもの。プリンの食べ方だって、私は均等に食べるのに、ママはカラメルを先に掬って食べ尽くしちゃう。
もしかして私、ママの子供じゃないのかも。
坂東蛍子はぶんぶんと首を横に振った。長い髪を首が疲れるまで振り乱し、恐ろしい想像を追い払おうとした。それでも不安は消えなかった。きっと不安って首を振ったぐらいじゃ消えない、と蛍子は思った。だって不安は追い払うんじゃなくて、拭い去らないといけないものだもん。いつだってそうだった。
「あ、これって」
蛍子は視界に飛び込んだそれを見て、引き出しを掻く手を止めた。それはアルミ製の収納箱だった。リビングで母が座る席の後ろに守られるように置かれている、風景に溶け込んでいない箱で、蓋はランチボックスのように上に開く形式になっている。蛍子は以前、母に「この箱は絶対に開けないように」と言われていたことを思い出した。開けて欲しくないということは、つまり中身は見られたくないものということだ。アルバムが見られたくないものにあたるかは不明だが、すでに八方手を尽くした蛍子は、どちらにせよ何らかの理由でアルバムがそこに収まっている可能性に賭けるしかなかった。
鍵は掛かっていなかった。少女は蓋を上げ、不安げに中を覗き込む。
そこにあったのは主に通帳類だった。他には緊急に使うのだろう現金の束だったり、見覚えのないペンダントだったりで、家族を存続させるために必要であろうものばかりだった。アルバムなんて突拍子もない異物は出てこない。まして自分に関するものなんて影も形もない。
(私に関するものがない)
ボックスの中身から蛍子が感じたのは、そんなことだった。金庫にアルバムがない。そんなこと当たり前のはずなのに、それでも少女はその光景を見て、自分が意図的に排除されているような気分になってしまったのだった。私はこの家にとって、存在しないものだったのかもしれない。必要ないものなのかも。まさか、私、本当に拾われ子だったんじゃ・・・ママと私が全然似てないのは、そういう――。
キッチンの方から聞こえた音に蛍子は耳を澄ませた。母の声が漏れ聞こえてくる。
「そろそろ捨てようかしら・・・」
蛍子はもうたまらなくなっていた。頭の中がグルグルして、何が何だか分からなかった。
「・・・・・・うえぇぇぇん・・・」
坂東一紗は冷蔵庫から食べかけのチョコプリンを取り出した。掃除前に自分を鼓舞するために半分食べたそれを、今度は掃除で疲れた体を労るべく食すのだ。彼女は好きな物は分けて食べるタイプの人間だった。
「ふぅ。しばし休憩」
一紗はその場でプリンを頬張り、満足げに唸る。そのまま二口、三口、と糖分摂取の快楽に抗うことなく身を委ねた。ふと一紗はキッチンの脇で倒れている台を見つけた。昔使っていた折りたたみ式の台だ。
「もうだいぶ経つし。そろそろ捨てようかしら」
思えばあの台には色々な思い出が詰まっている。蛍子が台に跨がって二階から飛んでいったこともあった。坂東一紗は頬杖をつきながら記憶を辿り、脳裏の情景に目を細めた。
「・・・久々に昔を懐かしむとしますか」
一紗はキッチンのマットをめくり、足下の備品庫の中から一冊のアルバムを取りだした。夫がカメラマンということもあり、坂東家はアルバムの量がとにかく多くて、まとめてしまうためのスペースが確保されている。
何より彼女は大事なもの程大切にしまい込むタイプの人間だった。
「ママぁ~・・・」
娘が泣きじゃくりながらキッチンへやってきて、何事かと母は立ち上がった。
「捨でないでぇ」
「まあ、どうしたの蛍子。怖い夢でも見たのかしら。さあ、こっちへおいで。一緒に昔のアルバムでも見ましょうか」