母のカレー
カレーを煮込んで今日で三日目になる。だけどあの人はまだ帰ってこない。
◇
あれは私がまだ四つか五つの頃だろうか。会社に行った父が夜になっても帰ってこないことがあった。
どうせどこかで酔っぱらってるんでしょ。と母は言ったが、父が連絡もせずに遅くまで帰ってこないことなんて今まで一度もなかった。
私はそれほど気にすることもなく眠ったが、朝起きると父はまだ帰っていなかった。母は見るからにやつれていて、目の下にはクマが浮かんでいた。一睡もせず父の帰りを待っていたのだ。
それから一日たっても、二日たっても父は帰ってこなかった。
三日目の朝、私は台所から漂ってくる良いにおいで目を覚ました。カレーのにおいだった。
母は大きな鍋を前に、生気を失った人形のように佇んでいた。ぐつぐつという音と、学校の給食のとは少し違う母のカレーのにおいが鍋から漂ってくる。
なんでこんな時間に、しかも父は帰ってこないのにこんなにたくさん、カレーを作ってるんだろう。私が不思議に思った、その時だった。
玄関の扉が開く音がして、誰かが入ってくる。
「お、今日はカレーか」
そう言って台所に入ってきたのは、三日前に会社に行った時と同じスーツ姿の父だった。
その後のことはよく覚えていないが、次の日からは何事もなかったかのように元の生活に戻った。
父がなぜ帰ってこなかったのか母が問いただすことはなかったし、父も平然と毎日を過ごした。それ以降父が無断で遅くまで帰らないことは一度もなかった。
◇
昔のことを思い出しながら、私はカレーを煮込んでいる。母のカレーに独特なあの香りの正体は何だったのか。母が亡くなる前にそれを聞けなかったことが残念だ。
あの人が家を出て何日たっただろう。私はずっと布団の中で泣いていた。今日久々に布団から這い出ると、それが義務であるかのようにカレーを作り始めた。
カレーのにおいに誘われてあの人が帰ってくるんじゃないか。かつて父がそうであったように。
しかしあの人は帰って来なかった。
あの人はもう死んだのだ。
本当に? 本当にあの人は死んだのだろうか。
私は思いだした。母が死んだ時のことを。いや、母が死んでいた時のことを。
あの時、父のためにカレーを作っている母は、すでに死んでいた。だから私はもうカレーの隠し味が何なのか聞くことはできなかった。
あの日帰りを待っていたのは母ではない。父だ。そして母は二度と帰ってこなかった。
待っている人間と待たせている人間の関係性は紙一重だ。カレーを作ってる人間が生きていると、どうして言い切れるだろう。少なくとも私には断定することなどできない。
帰ってこないのは、あの人じゃない。死んでいるのは、私だ。




