行方
ちょうど思考が行き詰った頃、音を立てて扉が開いた。乾いた音と同時に扉は再び閉じられる。
アルレイさんが戻ってきたのかと思って振り向けば、そこにはローゼの姿。静かに扉の前に佇み部屋を軽く見渡してから、そっと言葉を出した。
「入っていい?」
「あ、ああ、うん、どうぞ」
予想外の来客に思考が一瞬固まっては、脊髄反射的に妙な口調で答えてしまう。なんだか彼女にはいつも驚いている気がする。たぶん、間違いじゃないだろう。
出会いからなぞれば、彼女との対話には毎回驚愕というものが付いてまわっていたのは確かだった。
椅子に座った彼女に向き合うと、どうしたのかを問う。
「ちょっと、話がしたかった」
あまり声は大きくないが、美しく、耳にすっと入ってくるような声。滑らかな清水のような響き。……自分の語彙力の不足が悔やまれる。何故自分には詩的才能がないのだろうか。取り敢えず言いたいことは、可憐な声だということである。
窓の外、下の階から聞こえてくる騒音が少々煩わしい。言葉は発してはいないのに、壁、床に隔たれたその向こう側の空間の音が、その障害物を越えて二人きりの部屋を賑やかにしていた。
彼女とテーブルを挟んで向かい合う。彼女の冷淡で感情が見られないような顔、その瞳が今はこちらを興味深く見ている。
あまりに注視してくるので、視線を窓の外にやったり、何もない宙に泳がせてみたりと落ち着かない所作でやり過ごしてみたり。
彼女が何を思って僕を訪ね来たのかが分からなかい。頭を捻りながらも、ローゼが口を開くのを黙って待ってみる。
しばらく、一方は丹念に相手に視線を送り、もう一方はその視線から逃れようと必死に思考に逃げる時間が続く。
窓の外に逃がしていた視線を戻すとローゼが口を開く。
「あなたは此処じゃない所に住んでいたって言ってた。……あなたが居たところに“禍根”っていなかったの?」
「……そんなものはいなかった。そもそもレグルムもいなかったし、魔力なんてものもなかったよ。自分がそんな存在だってことすら知らなかった」
「夢みたいな場所、いいところ。……“うらやましい”」
うらやましい。そこには、並々ならぬ響きが含まれていた。
その一言にどれほどの想いが籠められているのか、他人である僕には当然の様に読み取ることが出来ない。
だが、一つだけ分かる。彼女は心底そう思っているのだ。僕にとっての当たり前を想い、羨望の眼差しで僕を見ているのだ。
「ねえ、今まで“禍根”だってこと知らなかった。今は……どんな気持ち? 嫌じゃない?」
「最悪だよ……。ふざけてる。気が狂ったのかと……思った。」
吐き捨てる様に答える。言葉は続かない。でも、この言葉が今の僕の全てである。多様な悪感情が混ざり合い、混沌としていく僕の胸の内。それでも、要約してしまえば“最悪”その一言が最適だ。
正直あまり考えたいことではなかった。それは問題の先延ばしでしかないが、まだまだ割り切るには時間が足りないことでもあったから。
それ以上、語ろうとしない僕に彼女は。
「うん……そうだよね」
そこには同情や慰めなど無かった。あったのは、労わる様な同意。そう――――同意であった。
どうしてローゼが共感するか分からない。この苦難は僕固有の物で、彼女には全く有り得ない物なのだ。
妙な疑問を挟みながらも、再び騒々しい喧騒だけが訪れる。
ローゼの質問により再び、自身の境遇について思い始めてみるが迷走するばかり。知らぬ世界、未知の領域。
真っ当に平穏に生きたいと望む僕の心は、未来に対する光明などどう足掻いても見出せない。
「僕がいたのは、こんな……こんなの僕の場所じゃない。もっとまともで、もっと普通で、もっと簡単で。こんな可笑しな場所なんかじゃない。レグルムって、“禍根”ってなんだ。そんなの僕は知らないし、……分からないよ」
落ち着いて話をしていたせいか、思わず愚痴を零してしまった。年下の少女に情けないとは思いつつも、冷めた思考とは別に止まらない。
「……違う世界に行けたらいいのに」
だからだろうか。先程の馬鹿げた妄想が、つい本当に零れてしまった。溜息にも似たその呟き。自分でも無意識であったそれは本当に小さいものであった。
だがしかし、その言葉にぴくりとローゼが反応する。
「……そういう考え方もあるんだ。……違う世界、ちがう……」
連呼しないで欲しい。あまりに子供っぽい戯言は、他人に言われると思った以上に恥ずかしいものがある。出来れば、そのまま聞き逃してもらいたかったのだが。
呟きながらも、ローゼは先程から熱心に僕に向けていた怜悧な双眸の目尻をささやかに下げると、僅かながら首を縦に振っては頷いた。
そんな些細な仕草がアルレイさんと似ていて、親子という繋がりを確かに感じてしまう。
「そうだね。私も見たい、別の世界。きっと幸せな世界なんだと思う」
そして、如何いう訳か賛同を得てしまった。こんな、ただの思い付きにそこまで真摯に考えれられても困る。
ローゼの真剣な眼差しに、苦笑いすら浮かべることも出来ずに、口籠っては返す言葉が見つからない。
閉じられた小さな口。再び揺るがなくなった少女の雰囲気を感じては、次の反応を待ってみるが、既にその用事も終えたのか、自発的に口を開くこともない。
ならばこの際だ。此方からも少しだけ、質問というものをさせてもらおう。
「えっと、……君は」
「――――ローゼ。そう呼んで欲しい」
「じゃあ、……ローゼ。聞きたいんだけど、君たちは旅でもしてるの? ここに家があるわけでもなそうだし? 旅行かなんか?」
「……もともと、違う町に住んでた。此処からもっと北の町。でも、私のせいで……そうしないといけなくて」
少しだけ先程と違った強張った声色で、寂しさを含ませながら答えてくれた。
事情は分からなかった。聞く気もなかった。知ったところでどうにかなるものでもないと分かっているから。
でも、眼の前の彼女は辛く苦しんでいる。まるで、許しを請うようで罰を求めているかのようで、それでも救われたいかのようで……。
そんな少女の憂いの表情を前にして、軽薄に事情を問い詰めるなんて事は到底無理である。
「見付けないといけない。それを見つけないと駄目なの。私は帰れない」
「……そうなんだ」
彼女に投げかける言葉を僕は知らない。だって彼女のことを何も知らないから、気安い慰めの言葉なんて出てこなかった。
だから、僕もその先を聞かなかった。この事について拘る理由もない。他にも話題はあるだろう。
「そういえば……ローゼ達は何であの場所に居たの? 」
「ギルドの仕事」
「その……ギルドって何?」
「ギルドは一つの組織。そこに登録することで仕事を受けられるの。あそこにいたのも仕事の為」
「アルレイさんは分かるけど、君もそのギルドってのに?」
「登録してるのはお父さんだけ。……でも危なことばかり。あまりしてほしくないけど、仕方がないから……」
「仕方ない?」
そう聞いてから少し後悔した。配慮に欠けてたかと思ったから。あまり立入った事は聞くべきではなかった。
そんな僕の不安を尻目に、ローゼは淡々と平坦な様子で口を開く。
「ギルドの仕事は危険な物が多いけど、報酬は多いから……。それに、一つの街に長い間いないから普通の仕事は出来ないの……」
「なるほどね。ずっと、そんな生活を?」
「三年くらい。……うん、あれから三年」
何かを噛み締める様に三年と。暫しの沈黙……。まだ何かあるのかといった様子で、僅かに首を傾げては、細長い瞳で先を促してくる。
ちょっとした話しの種はないかと思考を巡らしてみたところで、再び乾いた音が響く。一瞬だけ外の喧騒が大きくなったが、すぐさまそれも籠った小さなものに変った。
今度こそアルレイさんだ。
「なんだ、ローゼもいたのか?」
「……ええ、先ほどやってきて、少し話を」
軽く驚きを露わにする。部屋に入って来るなり、腰の鞘に収まった剣をがちゃがちゃと耳に痛い音を立てながら壁際の机の上に置いては、此方を穏やかに眺めた。
その顔付きに似合わない、優しげな態を感じさせながら、粗雑な動作でベッドに腰掛けてはその重みでベッドを軋ませる。
「まぁ、偶には俺以外とも話さないとな」
少し嬉しそうに続けた。言葉から察するには、この少女、ローゼは人と頻繁に会話をしないみたいだ。なんというか、イメージ通り。
人とは慣れ合わない。孤高、悪く言えば孤独。そんな感じだ。
「ローゼ、すまないがちょっと来てくれ、飯とってくるから。ソウタは待っていてくれないか。直ぐに戻って来る」
「分かった」
「分かりました」
そう言うと、アルレイさんはローゼを伴って部屋を出て行った。それから数分、二人はすぐに戻ってくる。それぞれ、食器の乗った盆を手に載せて。
アルレイさんは二つ持っていることから、どうやら僕の分まで持って来てくれたようだ。……一人で二人分食べるのなら話しは別だが。
僕の目の前に、右手に持っていた盆を置いてくれたということは、これは僕の為の物だと思っていいだろう。
「すみません、ありがとうございます」
「おう、久しぶりのまともな飯だ。早く食べよう。流石に俺でも、あれだけじゃ飽きちまう」
今まで大人らしく落ち着いた冷静さを持った様子を見て来たため、そのはしゃいだ様な言葉はなんだか子供みたいだった。
部屋には椅子は二つ。一つ足りない事に気がついたが、アルレイさんはベッドに腰かけ、盆を膝に乗せて食べ始めていた。
変わります、と言ったがこのままでいいと言われたので素直に厚意に甘えさせてもらうことにした。あまりしつこく申し出ても、この人にとっては迷惑だろうと思ったからだ。
気付けばローゼも食べ始めていたので、僕もそれに倣った。
「……おいしい」
久しぶりのまともな飯だ。うん、美味い。そう確かに味はいいのだけど……
「どうした、食わないのか……?」
そう一口目は食べることが出来たのだが、それから先が進まない。どうしても食べる気がおきない。
体は正直に空腹を訴えているが、落ち着いたとはいえまだ精神的に参っていた。特に煮込まれた肉。それを見るだけでどうしても吐き気を抑えきれない。
しかし、ここで食べれません、なんて言う勇気があるはずもなく、無理してなんとか半分は食べた。
結局そこから、目の前に残っている食べ物に手は伸びることがなく、アルレイさんに残っているものを食べてもらった。
失礼なことをしているという自覚はあったが、無理なものは無理である。
「さて、おまえは明日からどうする? とういうより、これから目的はあるのか?」
「目的ですか? ……いえ、ないです」
「……そうか。如何するんだ?」
「……その前に一つ聞いておきたいんですけど、此処には魔術師がいるって言ってましたよね?」
「ああ?」
「それなら、不思議な術とかもあるんですか? こう、火を出したり、水を操ったり……とか」
言って恥ずかしくなった。無いと言われたら、まるで滑稽な馬鹿じゃないか。まあ、僕の言葉を聞いた二人は不思議な反応を示すこともなかったので一安心だが。
「あまり詳しくはないが魔術師の連中なら、火を出す程度は可能なんじゃないのか?」
「じゃあ、こう……場所から場所を移動したりする方法などは?」
「ここら辺の移動手段は馬車だな。徒歩では周囲の街と距離が有り過ぎる」
「えっと、そうじゃなくてですね。……途轍もない距離を一瞬で移動したりする技とかないのかな、と」
「ああ、そういう事か。魔術に関しては門外漢だからな……。無いとも言えないが、有るとも言えない」
「お父さん。それって解からないだけ」
「おう、そうだな」
「それじゃあ……魔術以外に何かありませんか。変わった技術とか技法とか?」
「……変わったものねえ。魔法っていうものが存在するらしいんだが、そんな物は噂程度だからな」
仲の良い親子を横目に今後の方針を纏めていく。
「それだけか?」
「いえ、あと……」
これはどうしても聞いておかないといけない気がした。不安感や猜疑心が渦巻く胸中を一度はっきりさせたいと思っていたからだ。
「……どうして、僕のこと助けてくれたんですか?あなたたちは初めから分かっていたのに」
“禍根”という存在はどういう扱いを受けているかは目の前の本人から聞かされた。なら、どうしてこの人は助けてくれる?
「――――だからだよ」
「えっ?」
呟いた声は僕の耳には届かなかった。
「いや……。ただおまえが助けが必要みたいだったからな。俺は“禍根”と人を区別するつもりはないさ」
「……どうして?」
「“禍根”だって同じ人間だと俺は思っているからなあ。見た目は変わらない、言葉だって交わせる。涙だって流せるんだ、普通の人間と何が違うってんだ」
存在は平等なんて理想をこの人は語った。この人の事はほとんど知らない。だからか、その言葉を素直に受け止めることが出来なかった。核心が他にある気がした。
例えば僕が“禍根”ではなかったとする。隣人がそんな存在だったとする。間違いなく僕はそれを区別する。人なんて思えない。それが正しいことだと思う。
危険な存在は排除されるのが道理だ。それを押し退けて傍らに置くには何か理由がある筈―――――。
なんて、人の想いを疑ってしまう自分に少し嫌悪してしまう。アルレイさんの人柄は少しの間接しただけだが、何となくは察した。
この人の善を信じてみたいと思うくらいには、良い人ではある。
とりあえず、答えは出た。それが正しいなんて僕には確かめようがないので、結局この問題はここまでだ。
「それで、もういいか。他にあるか?」
ベッドの上での思考時間を全くの空想ばかりに耽っていたわけでもない。アルレイさんの話も考慮して、取り敢えずの方針として、この街での情報収集。
他に行くべき場所も無いのだ。妥当な判断と思っていいだろう。そうは言っても、これからの目的は出来たのはいいが、現実的な問題が残っていた。
簡単な事だ、お金が無い。元の世界じゃ家もあったし祖父母が残した遺産があった。そのお蔭で自由な生活を堪能できた。だが今は一文無し。
仕事をしないといけないが、“禍根”である僕に出来ることはないだろう。人の目に触れない仕事とかあればなんとかなるかもしれない。
そんなことをアルレイさんに伝えると、
「むぅ、すまないが少し思いつかないな……」
「お父さん、仕事を考えるんじゃなくて、ソウタを変えればいいと思う……」
「やっぱり、それが一番いいか。危険は伴うが、ずっとこのままってわけにもいかないからな」
どういうことだ?
翌朝、僕は鏡の前に立っていた。――――我ながら微妙だ……。
鏡に映る僕の姿。昨夜から変わっている点は特にない。ただ一点を除けば。
「いつかはやってみたいとは思っていたけど……。これはどうなんだろう」
昨夜、二人が提案したことは僕の髪を染めてしまうことだった。
すっかり茶色に染まった前髪の先を弄りながら、今だ慣れないその変化に戸惑ってしまう。その違和感にも、じきに慣れてしまうだろうが。
しばらくして、鏡の前から離れベッドに腰かける。こんな事で隠し通せるか不安であったが、その後、下の階にある食堂ではだれにも気付かれることなく食事を済ませることが出来た。
だが、ほとんど朝食を楽しむ余裕がなかったのは、内心はいつ気付かれてしまうか不安でしょうがなかった。
結局それは取り越し苦労というものだったが……。だが、これでなんとか希望というものが見えたと思いたい。
とにかく、仕事を探さなければ。アルレイさん達はしばらくここで生活していくらしい。都合がつくまでは、面倒を見てくれると言ってくれた。
ありがたい申し出だが、そこまで迷惑をかけるわけにはいかない。それに……、この世界に来てから思う望郷の念。
それは過去の記憶を思わず思い出せた。それ故に、二人と一緒にいることは僕にはちょっと辛かった。
口数は少ないが父親を慕うその姿。
そんな娘に愛情を注ぐ父親。
それはいつか見た、僕のユメ、憧れ。
昔から望んでいたものがすぐそばにあること、もう手に入らないものだと思い知らされるようで……。見ているだけで胸に何か重い物が浮かんでくる。
あの二人は間違いなく家族で、そこに僕の居場所が見当たらない。むしろ邪魔なんじゃないかと思ってしまうほど……。
そんな、自分が持ち得ることの無かったものに対する嫉妬。そんなくだらない感情を抱いてしまう自分が嫌だった。
そして、僕は部屋のドアを開いた。
そんな浅ましい自分から逃げるように……。