憂鬱
ミラという街に着いたのは、すでに日が暮れ夜の帳が下りようとしている頃であった。あの燦々と照り付けてきた太陽が今は消え、気温は過ごし易い温度へと変わり始めている。
遠ざかって行く暖かな気配の残余を追って後ろを振り返れば、既にそう遠くまでがはっきりと視認出来ず、広がる森林の奥底に暗闇が増殖している光景が其処に。
段々と世界を覆うのは、冷たい夜の空気であった。
あれから僕に気をつかってか、アルレイさんとローゼは歩くペースを落としてくれた。だが、敢えて僕は彼らと距離を開けながら足を進めるしかなった。
それ故に、この集団の歩みの速度は鈍足といって過分ではない。
足取りの重い訳、その理由など一つ。怖かったのだ、たんに。先刻の出来事が脳裏から離れない。もし、この手が二人に触れてしまえば……、考えたくもない。
自分の今の心境はとてもあやふやで、定まらないといって間違いないだろう。
誰も僕に近寄って欲しくない、其処には物理的な危険が存在するから。でも、だれかに僕を見守っていて欲しい、心は安息が欲しいから。
その思いが身勝手な物だと知っているが、それでもそう望んでしまう自身の不甲斐無さが苦々しい。
その様に相反する思いを胸に抱きながら終始俯き、目の前の背を呆然とした面持ちで追従して来た。歩けど歩けど代わり映えのない風景。擦れ違う人の姿を見ることは、結局一度もなかった。
道中、前方の影から何度も此方の様子を窺う様な気配を感じたが、それでも掛かる言葉など無かった。それがありがたい。今はただじっと、この泥沼の心地に沈んでいたかったから。
その道中は重い沈黙に包まれていたが、しかし、自分が原因であってもそれをどうにかしようとは思えないし、出来なかった。
いや、ただ余裕が無かっただけ。何も考えたくなかった。
胸が苦しい、腹の底が重い。嗅ぎ慣れぬ血の匂い。赤い、赤い手の平。
何も無い双眸。虚無の瞳。……転がる肉塊。
思いだしたくなかった。あれの光景を自身が為したことだと信じたくなかった。
延々続いた歩みの果てに、やっとの思いで辿り着いた目的地。
そのミラという街は周りを高い城壁に囲まれた街であった。石造りの其れは、堅牢、不動、不落、素人目に見てあれは外に居る者には圧倒的な威圧を、内に居る者には絶対的なまでの庇護を与える物に違いないと感じる。
外観を眺めるだけでそう思わせるそれは、壮大で圧巻としか言い様がなかった。
情緒に触れる風景、情景。だが、そんなモノはどうでもよく思える。現在の僕の心理状態では、至極無意味と切り捨てて歯牙にもかけない。
さて、初見でもあれこそがこの街の入口だと分かる所へと一直線に近づく。すると、門と思われるところの前には二人の人間が立っていた。
身を固める物は鎧と兜、それに槍。所謂門番というものだろう。
街へ入るためにはそこを通らないと行けない。他の道……あの壁を乗り越えるなんて、到底不可能に違いないから、正々堂々正規の手順を踏んでの入場と、あの城壁の輪郭が視界に入ったと同時に説明されていた。
それを聞かされて、疑念は当然に形成されたし、不安は増大した。
可能なのか?僕の心中を苛む問題はその一点。
悟られないのか、気付かれないのか、疑われないのか。
ただ、その可能性を疑う。
嫌だった。
怖かった。
“禍根”だって知られてしまえば……
――――見つかれば処刑される……。
昨夜のアルレイさんの言葉が思い出された。
今ならその意味は良く理解出来る。こんな訳の分からない存在は許してはいけないのだ。
害悪と為るべきモノは排除すべき。ああ、それはとても正しい事で間違いない。其処には十分な大義と正義があって、害すべきに足り得る理由と守るべき信念があるのだろう。
うん、何も間違っちゃいない。……何も間違ってはいないけど。
それでも――――――理不尽ではないか。
僕は、ただ普通に生きてきた。平々凡々を過ごし、平穏を嘆きもそれを厭はずに暮らしてきただけ。
特別を持っていた事など一度となく、周囲から賛美され一目を置かれる存在でもなく、無限の雑踏の中に埋没していずれ朽ち果てる卑小な一個人。
それが、ある日目覚めてみれば、おかしな存在に様変わり。触れれば弾ける人型爆弾。
何の怨みだ。意味不明な土地に拉致しておいて、更に可笑しな設定を僕と世界に取り入れた。あまりに非現実的過ぎて、頭が触れてしてしまう。
危難の状況。危機的存在。
そもそも、それ程までに物騒ならば態々無理をしてまであの街に入らなくてもいいのではないだろうか?
しかしながら……他に目指すべき場所は? と頭を捻ったところで、僕がそんな所を知る筈もなかった。
結局、現地人であろうこの二人に付いて行くことが安全で確実であると、思考は落ち着いてしまう。
それに、立ち止まって項垂れるていることだけは出来なかった。何故なら、それでは何の解決にもならない。
この現実を受け入れるかそうではないかとはまた別に、行動しないと何も始まらないだろう。
例え、それが現状に流されていようが。まあ、現在の僕にその様な曖昧で適当な覚悟など無くて、本当に眼前の二人に縋っているだけなのだが。所詮それも建前でしかない。
震える脚を叱責し怯えから高まる鼓動に眩暈を感じながら、無意識に早くなる呼吸音をそのままに、のろのろとした足取りでもって門へと近づいて行った。
石畳の道、中世のヨーロッパのような建物が軒並み立ち並び、様々な形をした看板が時折見て取れる。
その不思議な風景に溶け込みながらも自己主張の激しい見たこともない形の街灯はされど、そっと月に代わって人々の営みを照らし出していた。
多くもなく少なくもない人通りではあったが、久方に見た人の波。しかし、心はちっとも安らぎを得ない。
道行く人々の視線に怯えながら、前を行く大小二つの影に隠れて俯き歩く。
「お母さん、待ってよ!」
無邪気で幼稚な声と擦れ違い、駆けていく足音が自分目掛けてやってきたのではと、思わず身を竦ませてしまう。
過ぎ去っていく靴音に、そっと息を吐く。そしてそのまま、息苦しい緊張感に押し潰されながら、人との距離に注意して周囲を観察してみた。
それにしても……否応無く目に入るのは人の様相。その物語の中の様な街並みに暮らす人々も当然、普通ではなかった。まず服装。そして“髪”の色。
道行く人の髪は当然のように黒くはなく、様々な色を持っていた。赤、緑、そして青なんて色まであった。
それは不自然なことであったが、ここでは自然だった。僕の知る世界ではありえないその光景。
頭が痛くなる。何処のアミューズメントパークだ。有り得ない物だと分かっているから面白いもので、当然の様にいられても対応に戸惑ってしまう。
其ればかりか、自身が異端なのだと思い知らされてしまうのも、頭痛に絡んでくる要因であった。
人ごみを避ける様に、大通りを出て少し人の少ない通りまで行くと、アルレイさんは一つの建物の前で止まった。
看板が付いているそれは何かしらの店だとは予想できたが、しかし、文字らしきものがありはしたが、なんと書いてあるのかは分からない。
こそこそと背を丸め、人目を避ける様にアルレイさんの影に隠れながらその後に付いて入って行く。
結果、そこは食堂兼宿屋の機能を備わった建物であり、アルレイさんは二つの部屋を借りた。
受付をした宿屋の女性は屋内でもフードを取らない僕のことを訝しく見ていたが、問いただされることはなく、部屋のカギを渡してきた。
部屋の番号だけを告げると、後は勝手にしてくれといった感じに忙しなく何処かへ去った。部屋割は僕とアルレイさんが同室で、ローゼはもう一つの部屋を使用。
荷物を放り投げるとアルレイさんはギルドというところに、仕事の報告と報酬の受け取りに行くと言って出て行った。
部屋からは出るなと言われたので、一人で待機。それが今の状況。漸く息つける状態へと落ち着くことが出来たので、そっと頭の中を整理して帰りを待つことにした。
この街に入る手続きとして、門番による検問は当然あった。だがしかし、それはあっさりとして簡易的なものであった。目的、滞在期間、証明書あとは少々の注意のみ。
全身をローブで覆い、素顔を隠していた僕にも顔を見せてくれとは言われたが、アルレイさんの作り話であっさりとそれも許した。
顔に酷い傷があるから見せられないとかなんとか。それを伝えると門兵は不憫そうな顔をしては、すまないと謝ってくるものだから、後ろめたくなってしまった。
こんなにも、言葉は悪いが、適当な仕事でいいのかとアルレイさんに尋ねれば、どうやらあの人達の仕事は害敵、つまりはレグルムの対処が主な仕事らしい。
言ってしまえば、あれはついでだとか。ともあれ、僕はこうして無事何事もなく此処に居る。
四方を木製の壁で囲まれた部屋。二つのベッドと、テーブルに椅子。ひとつ見慣れないものが天井にぶら下がっていた。
石のように思えるが、それ自体が光輝き、部屋全体を照らしている。それが何なのか、知識のない僕には皆目見当もつかない。おそらくは蛍光灯と同じ役割なのだろう。
それにしても、……落ち着く。今まで屋外に居たぶん、部屋の中は安心して過ごすことが出来る。
街の中には入ることが出来たのは僥倖だったが、人々の生活の場。勿論の事、人々は溢れ返っているのだ。
正体露見の恐怖。思い掛けず、接触する可能性。その事実が執拗に僕の精神を責める。故に独りであるということは、それらに怯える必要が無いということで本当に心が安らぐものであった。
僕自身、外に事より中で過ごすことが多かったこともあるため尚更だ。
訳の分からない状況に置かれてから、今が一番冷静な状況にあると思える。昼の混乱の反動だろう、物事に対して落ち着いて正対出来ているかもしれない。
比較的まともになった頭ですべきことは……取り敢えず現状の確認だろうか。これからのどうするかを考えないといけない。
昨日目覚めたとき、どこぞの樹海の真っ只中。其処への移動手段、経歴一切不明。
化け物、レグルム、そしてアルレイさんとローゼに遭遇。
そのまま、この場合は保護されたと言っていいだろう。不審な僕を最寄りの街へ引率。
その道中、自身が“禍根”だと判明。それと同時に、魔力の存在は証明される。
街に辿り着けば、有り触れているファンタジー。
いいかげん、認めるしかないのかもしれない、
――――ここは僕の知らない世界なんだって――――
危険の無い平和なところだったらまだマシであったが、ここはレグルムが蔓延る世界。ここでは自分も“禍根”という忌諱される存在。
元々、交友関係も狭く細く、僕の存在を想ってくれる家族もいないあの世界だけど、こんな危険な世界は怖かった。
誰だって、自分の命は大切だから。一刻も早く元の世界に戻りたかった。帰りたい理由なんてそれくらい。命以上に大切なものなんて僕には思いつかない。
しかし――――ああ、そういえば一人だけいたかな、待っていてくれてそうな奴。
ずっと一緒にいた、利発で人懐っこい笑みを浮かべる親友の顔を思い出した。
あいつなら、僕のこと探してくれそうだな。勝手な想像だけど、そう思うとちょっとだけ心に暖かいものが灯る。
くすりと自然に、自分でも気付かずに笑みが出ていた。……それはこの世界で初めて描かれた微笑み。そんな風に笑えた自分に驚いた。
だがしかし、今はそのことは関係ないことだと頭の隅に追いやる。思考が逸れた……。
とりあえず、現状は再確認出来たが、これからの方針が定まらないのは変わらない問題だろう。取り敢えずの目的であった、人々の集合している場所、街には入ることが出来た。
ならば次。
さて一歩踏み出したいものだが如何したものか?何を指針として打ち出そう。……進まない思考の歩み。
そもそも第一、兎に角知識が無い。それが問題であり、乗り越えなければいけない壁でもあった。
そういえば、魔術師っていうものがいるって言ってたな……。
数瞬もすれば無駄な思考をしている事に気付き、少々硬さの感じるベッドに横たわっては、何もせずに天井の鉱石を仰いでる最中思う。
『魔術師』――――なんとも心躍るではないか。
掌から火を出したり、人の傷を癒したり、ゲームのような存在だろうか?うん、なんて素敵な存在だろうか。挙句の果てに空とか飛んだり。
一瞬、脳裏をかすめる空飛ぶ生身の人型。……子供か僕は。
想像だけで幼稚な夢に溢れて、馬鹿な妄想が零れてしまう。思うだけなら無料、他人に伝えない限り夢想など無価値で、無軌道を描ける。
意味の無い時間、濛々と夢を膨らませては、胸を躍らせてはその心地に浸る。――――人それを現実逃避とも呼ぶ。
それなら、移動手段においてもありえないことも可能だろうか? 想像は無限大で、現実は無限小。結局想像するしかなかった。
笑ってしまう、今の状況事態が妄想染みているのに、本当に妄想に浸ってどうする。自分の馬鹿さ加減には我ながら呆れる他ない。