相変わらず
泥沼から這い出る幻覚と共に重い瞼を開けば、青く生い茂る木々の隙間からのぞく晴天の空。非現実的な目覚めの光景。悪い夢は未だ続いているようだ。
もしかしたら、といった淡い望みは泡のように消え失せる。それにしても、眼を開ければ広がる大空にも3回目となれば慣れてしまう……。
相変わらず体は怠いし、痛い。無機質で硬質な地面に直で寝ていたせいだろう、体が硬くなってしまったようだ、動きが阻害される感覚が纏わりつく。
それを振り払うように体を起こし軽くのびをすると、空気が澄んでいることもあって、幾分か気分がすっきりした。
頭が正常に動きだす。異常なく思考が回り始めるまで多少の時間を要するであろうが、それも時間の問題でしかない。
目の前の光景に視線を投げ掛けるとアルレイさんはすでに目を覚まし、焚火の前で燻製肉を焙っていた。火の熱に充てられるのが苦行であるのか、眉間に皺を寄せ顔を顰めている。
それから零れ出る食欲を誘う匂いに、昨日の体験でささくれ立っていた心が、幾分か丸く収まる。
昨日の数時間にわたる孤独の旅に、知らぬ間に人肌恋しくなっていたのかもしれない。アルレイさんの何気ない様子、自分の傍に人が居ることに、とても安堵するのだから。
「おう、目が覚めたか」
軽く笑いながら、声をかけてきた。手元は変わらず細やかに動くことを止めない。視線は手元と僕とを数回往復。
物珍しい様子を眺めながら、朝の清涼な空気を吸い込んで言葉と共に吐き出した。
「はい、おはようございます」
既に作業は終わりを迎えているところのようで、アルレイさんは幾つかある内の一本を手に取り、その端を少し齧ると、納得するように首を一度縦に振っていた。
「こんなもんだろう。碌な物がないが食わないよりはいい」
そう言って香ばしい匂いを漂わせる、串にささった肉を差し出してきた。
「ありがとうございます」
別段に断る理由も無いので素直にそれを受け取ると、アルレイさんは何が嬉しいのか満足そうな顔をしては目を細めた。
その態度で訳も無く少々気恥ずかしい気分になった僕は、たった今受け取ったご馳走の観察に心を向けることで、その面から意識を逸らすことに決めた。
そんなことをしてみると、匂いがは強烈に僕を誘い始める。
思い返せば昨日は丸一日何も口にしていない。それを意識すれば忽ちに空腹が僕の中枢を刺激しては、貧欲に訴え始めた。
この生物的欲求には抗い難く、耐える事も難しい。下品ではしたなく、また、品に欠けるとは思ったが食べ易そうな部位を見出しては勢い良く齧り付く。
……人間、食欲には勝てないのだ。生きる資本はエネルギー。つまり食事を欠かす事は命を削ること。躊躇う必要など何処にありますか。
理論武装を心中で完了して意地汚くなる。口一杯に頬張ったところで、……ああ、うん。
「っ!!」
なんだこれ? 匂いを完全に裏切った味だ。くせが強すぎる。とても一度に多くは食べられない。
思わず顔を顰めてしまった。吐き出しそうになるのを懸命に堪え、慌てて表情を隠そうとしたが、もう遅い。
それを見たアルレイさんは可笑しそうに笑って口を開く。
「ははっ、これはそうがっつくもんでもないさ。味は悪くないが癖が強い。けど、これがうまいと思うやつもいる。それに、長期間保存がきくからな、便利なんだよ。少しずつ齧ってみろ」
そういうことは早く言ってほしかった。明朗に笑う厳つい風貌を、気付かれない程度に横目で睨みながら、歯型の付いた肉を見詰め直す。
気分は、見知らぬ民族料理を食わされているもの。というか、事実そうであるのだろう。個人的味覚に反発するそれは、出来れば二度目を口にしたくない。
先程までの美味であろう料理に対する期待に伴う高揚感が、真っ逆様に地に落ちていくのが手に取る様に分かる。
だが、勧められているという事実の上で僕はこれを持っている。しかも、僕を助けてくれた人物。
その件の御方は目の前で、愉快そうに目を細めて口角を上げてはいるが。それに、この空っぽの胃に何かを詰めたいのもまた事実。
ああ、これはつまり避けられぬ戦いってやつか。逃げるという選択肢は無く、それの踏破こそ唯一絶対の道。
早朝の晴天。空は突き抜ける程に晴れやかなのに、どうして僕の心には雲が掛かっているのだろうか。
心の中で不満を垂れ流しながら、悲壮な覚悟で僕はこれを食べることを決意。
今度は躊躇いながらもちょっとずつ齧ってみた。……食べられないことはないが、好きになれない気がした。
結局口にしたのは一本きり。戦果の代償は、腹の底から込み上げる嘔吐感。口内に深く居座る残存感は、それに拍車を掛けて来る。
得た物はそんな負の遺産に加えて、少しばかりの満腹感。だがしかし、苦行に比べてのそれはあまりに小さ過ぎる。
……取り敢えず、水が欲しい。何もかも洗い流してしまいたい。ついでに目の前で何もかも理解しているみたいに、にやついているその顔が憎たらしい。
当然与えてもらった分際でその感情は厚かましいとは思うが、この肉の前には何故だか許される気がした。
しばし原因明瞭な不快感に唸っていると、今まで行方不明だった姿が登場。
「戻ったか」
「……はい」
革袋を手に昨夜と同じ様に気配無くいつの間にか其処に。蒼々たる雑草を微かに揺らす音で、やっとその存在に気が付く。相変わらず気配が感じられない。
木々の隙間から少女の姿は突如として現れ、小さな歩幅で、淡々とアルレイさんの傍らまで近付くと手に持っている物を差し出す。
袋は何かでいっぱいみたいだった。それをアルレイさんが受け取ると、これまた特に感情を表すこと無く、木陰に座りこんでは余った憎き怨敵を手に取って、小動物の様な動作で小さな口をもそもそと動かし始めた。
その様子に驚きを隠せない。……あれを普通に食べている。彼らと僕の味覚は一部とも似通っていないのだろうか。
あっ、微妙に眉を顰めた。そんなこともなかったらしい。
「ご苦労だったな。疲れなかったか?」
「大丈夫、平気」
小さく口を開き、二つの単語で素っ気なく答える少女。口数の少ない子だな。元来の性格として無駄口というものを嫌うのだろうか、昨日から今まで彼女の言葉を聞いた数が非常に少ない。
自分もあまり話す性格ではないが、ここまでじゃないのは確かだ。
静かで落ち着いているというよりむしろ無感情。だがそれは僕に悪感情を抱かせる物でもなく、むしろ孤独な孤高さを感じさせた。
そんな彼女は他人にも無関心……という訳でもなく、今現在も僕のことを臆することなく観察している真っ最中。
視線が合っても、動揺の気配を微塵も見せないものだから、僕から逸らしてしまう豪胆さも持っている様だ。
取っつき難い感じだとは思う。……何より感情が分かり難い。自分のことは棚に上げ、碌に話してもしていない相手に対し勝手なことを思っていると。
「それで、ソウタはこれからどうする心算だ。行く当てはあるのか?」
的確な質問が飛んで来た。
「いえ、……当てなんて無いです」
「……そうか」
それはずっと考えていたことだ。でも、答えなんか出る筈もない。目的だけは立派に思い浮かぶのに、其処で思考は止まってしまう。
どうやってそれを達成してみせようか。考えたところで、解答は空白。これからどうすればいいのかなんて、僕には分からなかった。
右も左も分からなく、進むべき一歩すら不確かな今置かれているこの状況。
でも――――不安が胸を苛んで、心気は底へ底へと沈んでいくその最中で思うことは唯一つ。
家に帰りたい。
たとえ特別な思いの無い家でも、たとえ誰も待つことのない家でも、其処しか僕の帰る場所は無いのだから、僕はその世界しか知らないのだから、当たり前に戻りたい。
だって、こんな場所に僕が居ることがまず可笑しいのだ。
なんだよ、魔法って、なんだよ、化物って、なんだよ“禍根”って。馬鹿にしているにも程がある。
「とりあえず、ミラまで一緒に行くか?ここで放り出しても目覚めが悪い。まぁ……多少不安はあるが」
今の僕にその提案は嬉しかった。進むべき指針を、仮初の方針だろうが与えてくれることには感謝の念が絶えない。
しかもここで僕と別れることなく、連れ立ってくれると言う。この人、見た目とは裏腹にとても良い人なのかもしれない。
この行き場を失っている僕の心に、その優しさが思い染む。
薄々感じていた事が今此処で確かな思いとなった。人間、見かけなどでは測れない。人に触れてこそ人は人を理解していくものだ。
しかし、妙に歯切れが悪い。都合の悪いことでもあるのだろうか?
「それは助かりますけど、不安って……?」
「忘れたのか?“禍根”は見つかれば……殺される。そのまま人の目に触れれば危険だ。如何にかしないと」
正直に言うと、自分自身が“禍根”なんていう存在であるなんて忘れていた。当たり前だろう、現実味が無さすぎる。
例えアルレイさんが良心的な人間であろうと、そのような戯言は空想の範疇でしか有り得ない。半信半疑。でもそれだと。
「それじゃ、無理じゃないですか」
今の僕はこの人達たちに縋るしかなかった。“禍根”という存在は一度放っておいても、兎に角、黒髪はこの土地では忌避される存在ではあるのだろう。
どこまでを信じればいいのか分からないが、一部に真実は在るのかもしれない。つい声は責める様な色を帯びてしまう。
さっきの提案は何だったんだろうか。そう思わずにはいられない。
「いや、おまえが“禍根”だってばれなきゃいいわけだ。とりあえず、髪さえ見せなければ大丈夫だろう」
そう言って、服と何か布で出来たものを手渡してきた。何かは一枚の布の塊に見える。
広げてみると、それはフードの付いた……ローブとでも呼べばいいのか。少し薄汚れたそれは、みすぼらしくはなかったが綺麗でもなかった。
「……えっと」
アルレイさんを窺う様に、広げた布の端からその顔を覗きこむ。これを身につけろってことなのか?羞恥の思いが湧き上がる。瞳で訴えたその思い、届けばいいな。
「それに、その服は目立つ。それを着ていろ。……安心しろとは言わないさ。だがうまくやれば問題ないだろう。俺たちも協力する」
言いたいことは伝わらなかったらしい。拳を握り込んでは、真摯な口調で励まされてしまった。
僕の訴える目は、心配しているとでも思われたのだろう。二人の間に感じる温度差が、切ない。
後、端っこで僕らを眺める少女の瞳から逃げ出したいものだ。妙に真剣な瞳が、そんな擦れ違いを見透かされている気がして恥ずかしい。
それに、正直こんなもので隠せるとは思はないけど……。
「……分かりました。提案、感謝します」
納得はしないが、他に考えはないのだ。選択の余地はどっちにしろ無い。
「気をつけろよ。知られたら終わりなんだからな」
最後に、彼はそう言って口を閉じた。
それから、一時間しない内に僕たちはその場所を発った。