無知と未知
「何の…ことですか……」
浮ついた思考に言葉は上手く入ってこない。自然と零れたのはどこか気の抜けた言葉であった。意味が分からないのだから仕方がない。
男は言った、あの化物を如何にかしたのは自分だと。何を馬鹿な事を、とは思う。目を閉じ無様に気を失った僕があれを如何にかできたなんて、冗談にもならない。
言葉は真摯さを含んではいたが、それでも中身は人を食ったような内容である。返す言葉が見付からず視線を落とす。
そんな僕の様子を男はじっと覗き込み、目を細めると考え込んだ。どうも視線が頭上を彷徨っているのは気のせいだろうか?
「本当に分からないみたいだな。」
やがて吐き出された言葉は訝しげに僕を探るようでもあった。しかし、何を言われようが今の状況全てが解らない……。
朝起きたと思えば森の中、さ迷ってみれば化け物との殺し合いの現場。理解出来るほうがどうかしている。
異常の連鎖に対応出来る程、僕は逞しくも柔軟にも出来てはいない。もう自身が何に混乱しているのかさえ良く分からなくなってしまう状況なのは、間違いないだろう。
疑問は浮かぶが、解答を導き出すにはあまりに材料不足。だったら、少しずつ答えを探して行くしかない。
今の己に求められるのは、この異常な状態に対する適応性。ならば、無知なりに努力をしてみよう。……無いのならば、有るところから引き出せばいい。
男はそれから再び考え込むように黙った。焚火の向こうでは少女がじっとこちらを見ている。
沈黙に耐えられなくなり、先程から気になっていたことを聞いてみることにした。
「……すみません、ここっていったい何処ですか?市内にこんな場所があるなんて知らなかったもので。郊外の方なのかな?そっちはあまり行ったことないんです」
すぐに答えが返ってくると思っていたが訝しげに眉を顰め、顎に右手を置きながら男が口を開く。
それは困惑を含む戸惑った様な声色であった。
「ここがどこか分からないのか? 中央からそう離れていない場所だが」
「中央?」
何処のことを言っているんだろう。……中央公園のことだろうか?でも、あれはその名の通り、市の中心地付近にあって其処の一帯は市街地として発達している。
こんなに深い森など、あるはずもない。
祖父母に引き取られてから数年間暮らしていた土地だ。ある程度の土地鑑は備わっているつもりである。
その知識から、自然破壊が嘆かれる今の世にこんな人の手の入っていない広大な森、希有な存在といってもよい森林が自身の街にあったとは考えられない。
というか、突然変異したとしか思えないイヌ科の生き物が、密やかに住み着いている場所など聞いたこともないし、もちろんあって欲しくもないが。
「中央都市アトリウムだ。分からないのか? ……一つ聞きたいんだが、おまえは何故こんなところにいる?」
「え?」
そんなこと―――――僕が知りたい。言葉は飲み込んだ。まだ何か続けようとしていたからだ。
「おまえみたいな奴が、どうしてここにいる? 迷いこんだ? ここに隠れ里があるなんてのは聞いたことがない。
この周辺には街や村が数多くある。人の目に触れずに来るには難しいだろう。見つかればすぐに処分されるだろうし。
今だ発見されていない場所? まぁ、可能性は限りが無いからな」
始めは僕に対する質問だったのだろうが、すぐに独り言のように呟いた。それから悩む様な素振りと疑う様な瞳を混在させると、その強面を此方へ。
よく意味の分からないことを言ってはいたが、それよりも、今は自分の状況を知りたかった。
今現在、唯一の情報原は彼らしかいない。小心者の自分としては、その顔から視線を送られるだけで居心地の悪さを感じてしまうが、落ち着かない視線に耐え、体の姿勢を直して彼の瞳と視線が交わる様に……見える位置に焦点を合わせる。
「自分がどうしてこんなところにいるか、なんて分かるわけない……」
ぽつりと呟いてから思考に耽る。……何処で何を間違えたのかを。
だが、ぱちぱちと時折跳ねる焚火の薪を眺めながら、目覚めてからの事を順を追って思い出してみたところで、既に始まりから狂っている為どう処理することも出来ない。
「朝起きたらいつの間にか森の中にいたんです。それで、とにかく人がいるところに行こうとして、あなたと会ったんです……」
「なんだそれは……?」
とりあえずここまでの経緯を話してはみたが、良く分かっていないだろう。だって自分でも分からないのだから―――――他人に理解出来ようか?
むしろこんな話を誰が信じる?自分で言ってみて、それは冗談か狂言の類にしか思えない。
「ここは何て場所ですか? ……名前は?」
「カーレン王国だ」
「……カーレンですか? 聞いたことないです。うん? ……王国?」
「聞いたことがない? それはないだろう。大陸の南方一帯はこの国だ。知らないはずがない」
王国とは……、また馴染みの無い言葉が出て来た。
知らないものは知らないし、大陸ったってどこのことを言っているのだか、さっぱり分からない。
だがしかし、この人の語ったことは、まるでこの場所は日本じゃないと言っている。
そもそも僕が生まれ、今日まで育った国は周辺を海に囲まれた所謂島国。隣国は海を挟んでいるため、大陸と自身の国とは遠い言葉に思える。感覚としては、大陸とは外国だ。
……だから、この人の言葉はただ僕の混乱の度合いを深めるだけだった。いよいよ状況が混沌としていく気配を感じる。
「それで、おまえはどこから来たんだ?イリアス大陸のどこかの国の出身ってわけでもなさそうだ。果ての向こうか?」
イリアスっていうのが……この大陸の名前なのだろう、この人の話では。勿論聞いたことはない。
「―――――果てって、なんですか?」
「北の果てだ。……その顔は違うみたいだな」
またも意味の不明な用語が出てきたためか、つい顔に出してしまったようだ。
「……日本って分かりますか?そこの出身なんですけど」
「聞いたことないな。どこだ?」
「分からないのなら……いいです」
かみ合わない会話に気持ちが疲れてしまいそうだ。聞いたことのない名称ばかり。すれ違う知識と実態。
そして、ふと違和感。それは目覚めてから続いている漠然とした不安とか恐怖ではない。もっと胸の奥に在るようで無い様な透明感に似た何か。……言ってしまえば些細な事だ。
「いや……聞いたことのない国? そこならば或いは……」
唇の動きをなぞるように眺めて理解する。―――――今更だが言葉が通じていることに気付く。
彼は明らかに日本人ではない。その風貌からそれは悩むまでもなく分かることだ、……格好については触れまい、今更過ぎる。
そして彼と話している間にどうも違和感が付きまとうと思っていたが、口の動きと声があっていないのだ……。
どうも違う言葉を発しているのだろうが、自分にははっきりとその言葉が理解出来た。
異国風の男が同じ言語を流暢に喋っている。普段の僕ならば、そのことについて何らかの感懐を抱くであろう。だが、今は決定的に状況が不確かだ。
そのため―――――そんなことはどうでも良かった。懊悩するべき理由は一片も無く、言葉が分かるのならそれに越したことはないから。
有益であれど不利には為り得ない。
「何も知らないんだな。しかし、記憶が混乱している様子でもない……」
「…………」
ある意味ではそうだろう。気付けば其処とも知らぬ場所にいるのだから……。行き成り記憶をぶった切られたようなものだ。
その過程が分かれっていれば、その原因が何であるのかが分かれば、ここまで悩むこともなかったのに。
「そうだ、お前、名前は?」
「桑原……宗太っていいます」
「クワバラ、ソウタ? 変わった名前だな。俺はフランツ・アルレイ」
「フランツさん……?」
「アルレイでいい。あいつもフランツだから」
軽く笑ってからアルレイさんは後ろを向いて、今まで言葉は発せずにただ黙って此方を見ていた少女を一瞥した後に、再び向き直った。
その背後では、少女が瞬きと共に僅かにこくりと頷いていた。酷く小さな動作で、注視していなければ見逃してしまうところであった。
「ソウタでいいか?」
「はい」
「それでだ……。あいつは俺の娘で―――――」
「―――――フランツ・ローゼ」
「っ!?」
声はすぐそばから発せられ、気付けば隣に少女が立っていた。
その気配の無さに僕は思わず驚いてしまうが、少女は顔をぴくりとも変化させずに、淡々とした瞳で僕の顔を見詰めて来る。
先程より近い距離で彼女の顔を見たが、やはり容姿端麗とはこの子みたいな女の子にこそ相応しいと思う。
それと同時に、妙に鋭い感じを受ける目だとも……。それが今は僕をじっと見ている。
透き通る様な白い肌が、焚火の炎に薄っすらと赤く染まって、その瞳の赤も相まって不思議な感覚を与えてくるのは錯覚に違いないだろうが。
しばらく言葉も無く、互いが互いを観察し合う時間だけが沈黙の中過ぎ去って、唐突に彼女はくるりと踵を返して、元いた場所まで戻り再び座り始めた。
そして、先ほどと同じように膝を両腕で抱えると、再び視線で僕を捉えた。どうかしたのだろうか? 疑問は浮かぶが、答える声など有りはしない。
頭の中に新たな問題を形成して首を傾げながらアルレイさんの方を見ると、少女と同じ色の瞳を軽く開き、驚いた顔をしていた。
その様子に、更に深くなる首の角度。
「……ローゼが自分から。いや、そうだな。初めてだろうに――――」
小さく呟いて、やがて答えが出たのか再びこちらに顔を向けた。その顔は深い哀愁を漂わせ、ほのかに別の感情が見え隠れした。
僕は別に彼の親近の者ではない。故にそれがどういった類の感情かなど理解できるはずも無く、ただ黙って見過ごすしかない。
二人の様子が気にはなったが、特に口に出すことでもないと思って疑問は胸に仕舞い込み、意識の外に追いやった。
その直後。
「お前は……“禍根”だな?」
とても、とても深い緊張感を籠めて、或いは迷う素振りを見せながら、彼は慎重に言葉を吐き出した。
だが、その様な目の前の中年の男の決意、決断、恐れ、期待は全くの検討違いに思える。だって、そんな言葉が初めて聞いたのだから。
「はい?」
なんだそれは。
「そんな風に呼ばれたことはないですけど? なんですかその……“禍根”でしたっけ?」
当たり前だが、生まれて此の方そんな名称で呼ばれたことは一度もない。
「本気で言っているのか?……いや、今までの様子を見れば当たり前なのかもしれないな」
“人々は誰もが魔力を持っている。それは生まれたての赤ん坊も例外ではない。”
―――――彼はそんな、おとぎ話の言葉から語り出した。語る言葉は、まだ言葉も覚束無い幼子に語りかけるものに似ていた。
そもそも、生物として存在しているモノには魔力と呼ばれる力が備わっている。生命力みたいなもんだ。
魔力は一般的に二種類に分類される。名称はアルマとレグス。
人間はアルマを持ち、それは聖なる力と呼ばれたりする。随分と高尚な呼び方だが、これは自分達の魔力を操れる魔術師がそう呼称しているのが所以しているからだ。
それに対して、そいつらはもうひとつの魔力をレグスと呼び忌み嫌っている。
理由は至極簡単だ。レグスをもつ生き物はどれも異常だ。奴ら、<レグルム>は外見、性質、能力、なによりアルマをもつ生物を好んで捕食する。
それは人間だって例外じゃない。むしろ厄介なことに何よりも好む。これは人が多くの魔力を持っているからだと、研究結果が出ている。
遥か昔から、人間とレグルムは対立してお互いを狩り続けている。ここら辺は常識だ。……その顔は、知りませんということだろうな。
まさか魔力さえ……知らないのか?
――――先ほどの“禍根”という言葉と魔力に何か関係でも? もしかして、その……レグスっていう魔力を持っている人間が“禍根”ってやつとか?
いや、違う。人がレグスを持つことなど聞いたこともないし、過去に前例もない。
さて……先程は、魔力は2種類といったがそれは正確じゃないんだ。魔力にはもう一つ、アルマ、レグス、そのどちらにも属することがないものがある。
ある魔術学者が言ったことだが、その魔力は原初の魔力だとか、境界上に位置するものだとか。
その正体不明の魔力を生まれつき備えている者達こそ―――――“禍根”だ。
ついでに言っておくが、この魔力は人間しか持たないものだ。理由は分からないさ。異形の性質なのか、アルマ、レグスの異流、それとも……悪魔に選ばれたのか、はたまた神の御業か。
でだ、こいつらの持つ魔力っていうのが問題でな、ある性質がある。
“禍根”の所有する魔力が他の魔力と接触する際、一方的に接触した相手の魔力を消しとばす。
しかも、“禍根”と接触した生物は、その触れた場所の魔力を失うと同時に、物理的な影響を与えられ肉体が吹き飛ぶ。
それ故に、誰もが“禍根”を恐れている。同じに人間なのにまったく別の存在として扱う。解かるだろう?
相手は同じ様相、同じ種族でありながら、その実、まるで中身の違う凶器の存在だ。隣に立っているだけで首に死を突き付けられているも同然。
昔はそれなりに数もいて、普通の人間とは別の国があったようだが、“禍根”を恐れていた人間はそれを滅ぼしにかかった。酷い戦いだったらしい。
どちらの陣営もひどく消耗し、血で血を洗うような……。結局“禍根”は敗れ、国を滅ぼされた。その後は生き残りが次々に処刑されていった。
……が、それで全滅ってわけでもなくてな。逃げ延びた“禍根”が隠れ住んでいる里があるって話だ。
一つだけって訳でもないし、正確な場所は分からんがな。その数も多くない。今では“禍根”はいないも同然なんだがな。
それでも、“禍根”は今でも恐れられている。見つかれば……処刑される。
そうだな、結局そいつらは
世界に必要とされない、存在自体が悲劇で人間とは似て非なる生き物。そして、きっと永遠に救われることのない―――――存在。
ひどい、妄想のような話だった。
魔力だって?そんなの御伽噺じゃないか。そんなものを信じてるなんてホントに子供だけ。
魔法は子供の幻想、大人が与える夢物語。希望に溢れる未来の象徴で、擦り切れた今に対する逃避。
しかも、“禍根”。どうかしているとしか思えない。
けれど、アルレイさんの顔は真剣そのものだ。そんなくだらない冗談を言う人にも見えない……。
それにあの化け物、あれが“レグルム”かな? 確かに、あれはいた。
「んっ?」
どうにか話を纏めようとしているとき、ふと気付いた。
「そういえば、どうして僕のことがその、“禍根”ってやつだと分かったんですか?」
それが不思議だった。アルレイさんの話が本当なら、まだ僕が説明されていない不思議な事象でもあるのか。
「言ってなかったな。“禍根”には見た目も変わっててな、髪の色が特別なんだ」
「特別?僕の髪は普通ですけど……?」
髪なんて、べつに染めている訳でもない黒色だ。変わっているとは思えない。
「……“禍根”の髪は決まって黒色をしているんだ。黒なんて、普通は生まれない。だから、黒髪は“禍根”って決まっているんだ」
「でも、そんな……。僕のいたところじゃ、黒髪は当たり前でしたよ?むしろそれ以外は珍しいです」
そんな理由で、僕が“禍根”なんて訳の分からない存在にされてたまるものか。黒髪なんて、そこら中にいくらでも居る。
「そうか。でもな、俺は確かに見たぞ。レグルムがおまえに触れた瞬間に、確かにレグルムは吹き飛んだ」
あれはそういう意味だったんだ。目が覚めて最初にした質問の答えが今分かった……が、それでも半信半疑。
そのとき僕は迫りくる死にただ、眼を瞑って待っていることしかできなかったから。その光景を見てはいない。
「すいません……。なんだか分かんなくなっちゃいました」
「いいさ、今はとりあえず寝とけ。疲れてるだろう」
「……はい」
アルレイさんの言葉に素直に返事をする。今はこの人に頼るしかない。
それに、思い出せば身体が震えた。僕は嘘でも何でもなく命の危機に立たされていた。結果として命は繋がれたが、死だって覚悟したんだ。
あんな思い、二度と御免である。場所は未だに森の中。化物だってまだ生息しているかもしれない。
掴み取った希望に、僕は縋り付くしかないのだ。
「ローゼ、お前ももう寝ろ。明日にミラまで行くぞ。朝は早い」
ローゼという名の少女はこくりとうなずいて、傍らにあった少し大き目のカバンから一枚の布を取り出して、体に巻きつけ横になった。
すっぽりと身体を覆ったその様子が存外愛らしく感じた。しかし、既に閉じられた瞳だが、眠りに着くまで彼女は僕をずっと見ていた気がした。
「これでも使え」
そう言ってアルレイさんは僕に同じような布を渡してきた。真似して体に巻きつけ、横になったが地面が痛くてなかなかまどろみに落ちることが出来ない。
それでも、文句は言えないので我慢するしかないだろう。
さまざまな疑問が頭を駆け巡っていたが、しばらくすると眠気に抗えず、僕の意識はすぐに闇に落ちた。
――――最後にここは僕のいた世界とは違うのか?そんなくだらない疑問が浮かんだ……。