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そんな昔の話




「いたっ…い…―――――――ごめんなさい……、ご…めん」


あの人はただ機械的に繰り返す。その行為に意味なんてなかったのだろう。たとえあったとしても、僕には解らない……。


狂ったように、まるでそれが当然かの如く。


あの頃の僕は終わっていた。繰り返される暴力、救いのない毎日。幼いながら絶望を感じていた。

守ってくれるはずの存在が傷つける存在であったこと、助けを求めることなんて出来るはずもなかった。

誰かに縋ることなく、ただ只管に耐えるだけの日々。何かが狂っていた当たり前のサイクル。


――――それでも、願っていた。


        もう一度僕に笑いかけてくれることを――――



結局、そんな当たり前の願いは、叶うことなんてなかったのだけれども。



――――そんな、忘れたくても忘れられない、きっと……

   

    今の僕にとって、最も記憶に残っている記録の一ページ――――









小学校に上がった時ぐらいだろうか?ある日、突然母親が消えた……。



以前から両親の仲は冷え切っていて、気付けば言い争っていることが多かった。殺気だった罵声が飛び交い、時には物が飛び交うことすらあった。

二人は、今まで僕が見たこともない様な顔と声で互いを罵り合い、まるで変わり果てた別のイキモノみたいに見えた。

今は鮮明にはその顔を思い出せないが、とても醜いものだったに違いない。

幼い自分には、当然の様に仲の良い筈と思っていた二人が争う姿は、恐怖しか生み出さない。

どうしてそうなったかなんて、解らない……。

両親の間に僕の知らない何かがあったことは容易に想像が出来るが、結局それが何だったのかは今でも分からないし、……知りたいとも思わないが。

そんな二人が顔を合わせている時、僕はそこに近づかないようにしていた。

与えられていた小さな、それでも幼い自分には十分大きな部屋に閉じ籠って、扉の向こうから聴こえてくる、自分に向けられてもいない怒鳴り声にびくびくと怯える日々。



毎日、毎日飽きもせず、お互いを罵り合うことが決まりごとのように繰り返す。


日に日に埋もれていく家族の絆と、僕の人格。


だんだんと澱んで腐ってゆく三人の世界。



何もかも幸せだった記憶は遠い過去の残照として煌々として、今の現実が何度、悪夢であれば良かったと願ったことか……。

そして、いくつか存在しうる終わりに辿り着くのも、出来損ないの台本通り。

気の遠くなる感覚の果てその関係は修復されることなく、気付けば終わりを告げていた。


朝、目が覚めて扉を開くと独りテーブルで項垂れる父親の姿。

何時まで経っても姿を見せない母親。

疲れ切って擦れた声であの人は呟いた。


『出て行った』と。





それからだろう、あの人が変わったのは――――――――


「えっ……?」


それは突然すぎた……。

始めは訳が分からなかった。あの人が叩いて僕を叱る時は、決まって僕が悪いことをした時だけだったから。


――――何か悪いことをしてしまったんだ……。


僕が謝ればあの人は笑って頭を撫でてくれた。


とにかく謝った。許して欲しくて……、頭を撫でてほしくて……。


そんな僕を見て、まるで感情なんて捨て去ってしまったかのように、能面のような顔で再び腕を振り上げた……。


肉を打つ音が室内に消えて行く。


それから毎晩その行為は行われた。仕事から帰ってくると、あの人はそれ以外することがないかのように、酒を飲む。

そして、顔に赤みがさしきた頃に僕の名前を静かに呼ぶのだ。母親に向けられた、憎しみの籠もった言葉が怖くて、僕は従順にあの人の意思に従った。そして次の動作は決まっている。当たり前のように僕を打つ。


人間とは学ぶ生き物である、良い方向にも悪い方向にも。

三日程そんな日が続けば、やがて僕も理解した。僕を呼ぶ時はあの人が叩く為、だから……父親の呼ぶ声を無視して、布団に包まって寝たふりをしてみたりした。



『起きてるんだろ?』



呂律の怪しい言葉は正常さが感じられず、やたらと鼓膜を打つ不規則な足音に、扉を開く大きな音。そして、震える僕を隠していた布団を剥ぐ。


外気に晒され、目を開くその先には……得体の知れないナニカ。


窓の外から差し込む月光に、歪な双眸が耀いて脳裏に張り付いて離れない。

言葉は無く、とても重そうに腕を振り上げる父の姿。


―――痛みは間違いなく、今まで以上に苛烈だった


“そうか、これは悪いことなんだ”



そして、僕は“痛み”の少ない方を選んだ。


呼ばれてはただ黙って従い歯を食いしばって耐え、時には痛みに泣き叫んだりもした。それでも、暴力は止むことがなく延々と続く作業と何ら変わりは無くなった。



どうしてそんな日々に耐えられたのか、……たぶん信じていたのだろう。いつか再びあの人が、厳しくも優しくて暖かい、幸せな日々だったあの頃の様に戻ってくれると。

愚かにもそれを盲信して、明日にはこの悪いユメが終わっていることを願いながら眠りに着くことが、何時の間にかの習慣になっていた。

幼い自分はそうやって現実から逃げては、必死に自分を保つしかなかった。……それがたとえ言葉にも出来ない、自分すら信じ込ませることが出来ない空想だとしても。



そんな日々が半年ほど続いたが、どうすることも出来なかった。ただ、それを耐える日々。

例えば児童相談所にでも駆けこめば、すぐにあの人から離されて、僕は一時の平穏を得ただろう。

しかし、当時の僕にはそんな知識は当然無かった。

近所の住人が、時折痛みに耐えられず喚き散らした叫び声に気付き、警察に連絡することだってありえたかもしれない。

だが、僕の家から隣の家まで少し離れていたため、僕の上げる泣き声は聞こえてなかったのだろうか、近隣の住人が駆けつけてくれることもなかった。

また、僕にとって幸いだったのか、不幸だったのかも分からないが、あの人は僕の顔だけは絶対に殴ろうとはしなかった。それに、一応の手加減はしていたのだろう、体の内部にまで影響の出る程の怪我もなかった。

故に、僕個人の外観からその行為が誰かしらに露見することもなかった。

それでも、いつも独り風呂に入っては、体中に新しく出来た不細工な青痣を見詰めて、その痛みと辛さに涙を零しそうになってしまったのは……仕方のない事。


そんな毎日は僕を歪めていく。


そのころの僕は、いつも下を向いて何かに怯えた様に背中を丸めていた。

学校でもクラスメートに話かけられても碌に返事もしなかった。心の中ではもっと教室の中のみんなと触れ合いたいと願っているのに、思うだけで何も出来なかった。

……長く続いてしまった家庭の不和の影響で、友人との会話、どんな事を話せばいいのか、どんな風に笑えばいいのか、どう遊べばいいのかさえも分からなくなって忘れてしまっていた。

そんな僕のポジションは所謂、クラスに一人はいる暗くて鈍くさくてどうでもいい奴といったところだろう。


そして、当然の結果として孤立していく。


そんな僕は虐めの格好の獲物だった。

いじめを受けた僕はただ謝ることしかしない。その様子を始めはおもしろがっていた連中も、次第に飽きたのかいつの間にか虐めもなくなっていた。


憎いとは思わなかった。ただ、羨ましかった。群れることのできる彼らが……、放課後に友人で集まって校庭を駆け回り、笑顔を浮かべる、幸せそうな景色が……。


それが手の届かないところにあると思っていた。





学校が休みの日、家から近くの公園で一人ブランコに座っていた。家にはあの人がいたからだ。あの時の僕が休める場所は、本来そうあるべき場所は既に在り方が真逆になっていて、それ以外の場所なら本当に何所でも良かった。

とりあえず、することもなかった僕はひたすらブランコを漕いでいた。飽きもせずに足を振り、体をその揺れに任せ頭は空っぽにして。


ある日、たった一人そんなことをしている僕に興味をもったのだろう、声を掛けてきた者がいた。子供らしい無垢な、太陽みたいな笑顔を振り翳して、『楽しい?』と。……今思えば残酷な言葉だ。楽しさの片鱗も出していない筈なのに、純粋過ぎる疑問が辛い。

その時僕は、たぶん首を横にでも振ったのだと思う。



その出会いは、救いだった。



あいつは、一人だった理由を問うことはしなかった、ただ一緒に遊ぼうと言って。

どう反応すればいいか分からないまま、戸惑っていた僕の手を取って走り出した。

子供らしい突発的な行動。……そのらしさに僕は救われた。

やがて、そんな自分の感情は様変わりしていく。

気付けば久しぶりに笑っている自分。純粋に楽しかった。憧れていたものがこうも簡単に手に入ったこと、こんなにも簡単に夢が叶うなんて信じられなかった。


誰かと遊ぶ、そんなことを……。


遊び疲れ果て、ぐったりしながら笑い合った青空の下は、信じられないくらいに綺麗な思い出として僕の中に鮮明に息づく。

それでも時間が経てば、別れは必然。笑いながら『そろそろ帰る』と言ったあいつの言葉は、永遠の別れの気がして情けなく俯く僕。

そして、当然の様に僕に言葉を放った。


『また“明日”』




その日、布団の奥底で痛む右腕を押さえながら、暗い暗い部屋の真ん中で明日の事を思って、抑えられない興奮をひっそりと隠しながら眠りに着いた。



それから、ほとんどの日々を彼と過ごしていたと思う。

相も変わらず、父親からの暴力があったが、それでもあいつといる時は笑うことが出来た。




そんな日々は始まりと同様に、突然に終わりを告げる。




ある日、遺骨となって帰ってきた……あの人。


交通事故に巻き込まれたという。詳細は僕が幼かったことから、詳しくは聞かされなかった。

慌ただしく親戚がその後の処理をしてくれている中、呆然とそれを見ていることしか出来なかった僕は思った。



――――あの地獄が終わったんだ。



その後、両親の居なくなった僕は、祖父と祖母に引き取られた。あの人の親だ。少々鋭い目付きの祖父と優しそうな顔つきに冷めた表情を張り付けた 祖母。

初めて見る二人の顔は、僕の事を邪魔だと言っていた。最後まで言葉に出されることはなかったが、あの二人は間違いなく僕を疎んでいたと思う。


結局、そこにも居場所なんてものはなかった。


もともと、両親は駆け落ち同然に結婚した。そんな息子を快く思っていなかった祖父と祖母は、僕に対して冷たかったのだ。

最低限の世話をして必要以上の干渉は避ける。別にそれでも構わなかった。本当にどうでもよかった。

理由など単純なものである。つまり、暴力を振われることが無かったからだ。


こうして僕は、平穏と呼べる暮らしを手に入れた。






過去の親の虐待という経験から、僕は人とコミュニケーションをとるのが下手になっていた。今ではそれも多少なりとも改善はされたが、内向的な性格に卑屈さを孕んだ性格は変わらない。

それでも、あいつは僕と一緒にいてくれた。


それから数年、高校に入学してから祖父が亡くなり、後を追うように一年後祖母は亡くなった。


それが、つい一ヶ月前の話。






懐かしい夢を見ていた気がする……。


ぱちぱちと弾けるような音と、微かに聞こえる話声。それと妙に硬い背中の感触。……ほんの前にも、同じことを考えたようなちょっとした既視感。

目を開けて、体を起こした。やたらとだるいし、どうも記憶が曖昧である。

すぐさま現状の把握に取り掛かる。重い瞼を精一杯開き、鈍痛のやまない額を押さえながら、明暗の境界に目を凝らす。


先程の音は、目の前で燃えている焚火のもののようだ。焚火なんて、学校の行事でいった、キャンプで見たきりだったと思う。

その赤を意識すると、温い熱気が頬を撫でているような気がしてきた。焚火が辺りを照らし出す。

周囲に乱立する木々の影、その奥はぽっかりと空いた様な全てを飲み込んだ暗闇が広がっていて、まるで、僕の居る場所だけが取り残されたような寂寥感を感じさせる。

そして、火の向こう側に二人分の人の姿。小柄と大柄が少しの距離をとって並ぶ光景。

向こうは僕が起きたことに気付いていないのだろう、虫の音に混じって話し声が耳に届いて来る。


小柄な人物は僕より3、4歳下と思われる少女。肩口に切り揃えられているブラウンの髪。前髪は中央から対照的に左右に流して、小さなおでこがひっそり露わになっている。

どう見ても日本人には見えない顔立ちに、それはよく似合っていて、映像の向こう側の人形みたいに思えた。

顔立ちはかわいいというより綺麗な印象。輪郭が少々鋭利で、その目が怜悧な雰囲気であるからだろう。

それでも、その少女の顔が整っていることにかわりはない。その様相には見覚えがあった。


そんな風に目の前の人物を評価していると……、


「おっ!目を覚ましたか?」


鼓膜を確かに揺らすような、低く良く透る声で、隣にいた人物が声をかけてきた。気付けば二人ともこちらを見ている。


「調子はどうだ?」


此方を気遣う穏やかな色合いに心を落ち着けながら、その音の発信源へと視線を向けると、

その顔に見覚えがあるのに気がつく。

呆けた様に、どこで会ったのだろうか?と考えていく中、辿り着いた。―――――化け物と闘っていた人。


そして、思い出す。僕は正体不明の化け物に喰われたはず、そう……その筈なのだが……。

先程の恐怖を思い出し、僕はひどく混乱してしまった。あの濃密な死の気配は確かにリアルで、逃げられない筈だっだのに。


死んだのに、生きている


その矛盾がとても僕の思考を惑わせる。目の前の二人の存在も忘れて、意味もなく右手を見詰めては開いたり握ってみたりして、肉体を確かめてみる。

それで何かが変わることもないし、分かったことは生きている感覚はしているということ。

だったら、あの化け物は僕の妄想?それとも幻覚の類?見知らぬ土地に放り出され、追い詰められた僕が勝手に見た物なのか。

考えはだんだんと、意味を成さなくなっていく。


考え事に集中していた僕を眺めながら男は立ち上がり、此方に近づくと腰を屈め腕を伸ばして来た。


「腹が減ってるだろう、これでも喰え」


そう言って、何かの肉を焼いたものを僕に差し出し迫ってきた。香ばしい匂いが鼻を刺激して、それが今の気分を更に下降させる。


「っ!!」


反射的に怯えながら後ずさってしまった。軽く錯乱ながら腕を振ってしまい、手の甲に肉が当たり地面に落ちる音が遠く響く。

手に付いた油の事など気にも留めずに、その腕で自身を抱いた。そんな僕に、男はひどく同情的な視線と笑顔を浮かべながらも言った。


「落ち着け、誰もおまえを傷付けたりなんかしないさ」


そう、落ち着いた声で諭してきたのだ。そして近づいてきた体を軽くひいて、僕から距離をとる。しばらく僕の荒い息の音だけが、この空間に響く。

その様子を、男の傍の少女が膝を抱えじっと見つめているのが目に映る。

なんとか気持ちを落ち着かせて、考えを纏めながら男に聞いた。


「……あなたが、助けてくれたんですか」


状況からみて、それで間違えないだろうと結論付けて言葉を発してみたが、男性はあっさりとそれを否定してみせる。


「いや、俺はなにもしてないさ。あれは、……おまえが片づけた。」


加えて、そんな予想を外した答えが返ってきた。
















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