生涯勝てぬ相手
以前私が勤めていた会社の同期が、今日、わが社を訪れる約束になっている。
前の会社での私の営業成績は散々だったが、思い切って自分の趣味を活かした事業を始めてからからは順調に売り上げを伸ばし、今ではこの業界で少しは名が通るほど発展している。
今日訪ねてくるのは常にトップの売り上げを誇り、早々に出世コースに進で、私たち同期の中の羨望の的だった奴だ。
私とそいつは入社当時から気が合って、よく一緒に飲みに行っていたが、あいつの成績との差が開くほど、だんだんと疎遠になっていった。
その後、私が退社したことも、あいつは知らなかっただろう。
あれからずいぶん経ってしまったが、責任者の立場になったあいつが大きな取引で失敗して窮地に立たされいるとの噂を聞きつけ、調べてみるとそれは紛れもない事実であり、膨大な在庫の山を抱えてるという。
その商品はあいつの販売ルートでは売るのは難しいだろうが、今の私のルートでなら比較的簡単に捌ける。
企業として利益を見越した上で、私は連絡をとってやった。
そして今日、あいつはここにやってくる。
午後のコーヒーを頼んだ丁度その時、秘書から来客を知らせる連絡があった。
もう1つコーヒーを頼んで社長室へ通すよう伝えると、しばらくして遠慮がちに扉をノックする音がした。
入ってきたのは懐かしいあいつに間違いなかったが、自信に満ちたあの頃と違って、ずいぶんと老け込み、態度もオドオドしている。
腰掛けるよう勧めると、恐縮しながら座った。
「どうして…」おずおずと口を開く。
「どうして私を、その、助けて頂けるのでしょうか?」
不思議に思うのも無理はない。
忙しさで間遠くなったのは間違いないが一番の原因は、こいつが私を見下す言葉を吐いたのが原因だ。
最初は酔った上での自慢話くらいに聞き流していたが、それは何度も繰り返され、普段の日常の態度でも目に余るようになった。
私だけではなく同期全員にもそんな態度をとったため総スカンを食らっていたが、断トツの営業成績を前に上司の誰も注意できる者がなく、一時あの部署では、天下人のような勢いだった。
その不満の矛先が仲の良かった私に向けられ、上司や同期のイジメの対象になり、ついには退社に追い込まれたのだ。
当然、私はこいつを憎んだ。
仕返ししてやりたいとも考えたが、常識的にそんなことできるはずもなく、借金と離婚という痛手を経験するはめになったのだが、そのおかげで今の私があることに違いはない。
私の一番のお気に入りの秘書が運んできたコーヒーの薫りを楽しみながら、私はゆっくりとひとくち味わって口を開く。
「ひと言、君に言いたくてね」
彼は緊張で体を固くする。
「ありがとう」
微笑むと、彼は首を傾げる。
「あの会社から出ることができたおかげで、今の私がある。経過がどうあれ、そのチャンスをくれたのは君だったんだ。だから、今度は私が君にチャンスを与える番だ。
ハハハ。だからと言って勘違いしないでくれよ。ちゃんと採算はとれると見越した上での投資なんだから」
彼は当時のことを涙を流して謝罪した。
日を改めて私が用意した料亭の席で、彼は前の会社での面目が立ったことの礼を言い、そして、前回勧めた私の会社への転職を謹んで受け入れますと頭を下げ、この年からの転職では役職と給与は下がるものの、私に一生ついていくと誓った。
彼の能力なら、1年もしないうちに役職も給与も元通り、いや、それ以上になるだろう。
自宅に帰った私は、再婚した妻に彼のことを話した。
「ええ、それでいいわ」キッチンに立ったまま妻は振り返りもせず答える。
「もう彼は失敗しないし、あなたのために必死で働くんだもの。
何より、トップの成績だった人材は、その人だけじゃなくバックに持ってる人脈が大きいからね。
忠実な部下を格安でヘッドハンティング出来ただなんて儲けものよ」
そうだ。
私の会社が大きくなれたのは、すべて再婚した妻の経営手腕によるものだ。
私はただ、妻の言う通りに動いてきたに過ぎない。
彼のことだって、本当は助けてやると見せかけて直前で商談を破棄し、笑いものにしてやりたかったのだ。
「まったく男って本当に単純バカなんだから。そんなに憎いのなら、一度笑うだけじゃなく、恩を売って一生媚びさせればいいじゃない」この妻のひと言で私の心は決まった。
まったく、本当に女は……いや、妻は恐ろしい。
「だけど、儲かったからって、また私に内緒であの秘書と出張なんて行ったら、今度は許しませんからね」
持っていたコーヒーカップを落としてしまったが、妻は背中を向けたままだ。
あとで……いや、自宅から予約をキャンセルするなんて証拠を残すわけにはいかない。明日、早めに出勤して会社のパソコンからキャンセルしておかなければ。
「さ、あなた。明日も早いんでしょ。たくさん作ったからいっぱい食べてね」
食事を運んできた妻の笑顔を見ながら、私は改めて自分の立場を悟った。