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春を待つ  作者: 安達夷三郎
第三章、逃げ場
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九話

夜勤をしていた真夜中、警報音が工場内を満たした。

機械が次々に停止され、唸り声が途切れる。

代わりに、空襲警報の不気味な警笛だけが天井に反響していた。

「空襲ー!全員避難せよ!走れ!」

監督の怒鳴り声に、みんなが一斉に動く。

足元の床が揺れているような錯覚に、思わずよろめいた。

外へ飛び出すと、空はすでに黒ずんだ雲に覆われていた。寮で眠っていた日勤の子達も飛び出してくる。髪を乱し、雑嚢を肩に掛け、靴、あるいは裸足のまま飛び出した。

遠くから、低く唸るような音が近づいてくる。

―――ブォォォ......ン......

ふと空を仰ぐと、黒雲の切れ間から、ぼんやりと影が見えた。

そして、その影から......ぽつり、ぽつりと黒い点が落ち始めた。

最初は、雨のように小さく見えた。

焼夷弾(しょういだん)だ!!」

「火事になるぞ!」

でも、それが爆弾だと気づいた瞬間、全身の血が凍りついた。

町の方を見ると、人々が(あり)の群れのように防空壕へ走り出していた。

その流れに巻き込まれるように、私達も必死で走る。

前を走っていた女の人の下駄が脱げ、石畳の上でひっくり返った。

後ろから別の誰かがぶつかり、その女性は踏まれそうになりながらも必死に体を起こす。

誰かが蹴飛ばした防火バケツが転がってきて、私の足元に当たり、ガシャン、と派手な音を立てた。

雑嚢が肩からずり落ちそうになり、片手で押さえながら走る。

息が浅く、早くなっていく。

砂利道に足を取られ、何度かつまずきそうになる。

それでも止まれない。止まったら、死ぬ気がした。

角を曲がると、防空壕が見えた。

町の人たちがすでに群がり、入り口の周りはすし詰め状態だった。男性も女性も子供も、誰もが必死で中に入ろうとしている。

「押さないでよ!」

「子供が先だろ!」

怒鳴り声と泣き声が交じり合う。

壕の前には、近所に住むお爺さんが立っていた。戦争前は商店をしていた人だと聞いたことがある。

その人が大声で叫んだ。

「ここはもう入れねぇ!!満杯だ!向こうの壕へ行け!!」

でも誰も簡単には引かない。

壕にしがみつくようにして、中に入ろうとする人たちの腕が何本も伸びている。

「お願いします!」

「子供がいるんです!」

「入れてくれ!」

「おかぁさん!!」

泣きながら縋る声。子供の高い泣き声。

それでも、お爺さんは首を振り続けていた。

「もう入れねぇんだ!川に行け!!」

私は、エツ子に腕を引かれた。

「こっち行くよ!早く!」

言われるままに壕に背を向け、別の防空壕へ走り出した、その瞬間だった。

―――ドォォォン!!

背後で、空気が割れるような音が炸裂した。

体の芯まで叩きつけられる衝撃。

地面が波打つように揺れ、膝ががくんと折れる。

思わず振り返った。

さっきまで人々が群がっていた防空壕の上に、巨大な黒煙が立ち上っている。

石で積み上げられていた壕の入り口は崩れ、土砂と瓦礫がぐしゃぐしゃに重なっていた。

あまりにも一瞬のことで、頭が理解に追いつかなかった。

「あ......」

誰かの声が、かすれて聞こえた。

そこにいた人達は―――さっきまで、生きていた人達は―――もう、声も出さない。

壕の中から聞こえていたはずの物音も、泣き声も、すべてが途切れ、代わりに燃え始めた木材のはぜる音と、土煙の音だけが残っていた。

遅れて、悲鳴が上がる。

「きゃぁぁぁ!!」

「うわぁぁぁぁ!!」

でも、誰も壕に近づけない。

焦げた匂いがした。

土の匂いと、焼けた木の匂いに混じって、鼻の奥につく、生々しい匂い。

私はそれが、何の匂いか考えないようにした。でも、勝手に喉が詰まった。

喉が焼けるように熱くなって、息が上手く吸えない。

また、空が唸った。

―――ブォォォ......ン......

私は、ただ走った。

どこへ向かっているのかも分からないまま、必死で、町の中を走り続けた。

足元の地面が、まだ小刻みに震えているのが分かる。

それは地面の揺れなのか、それとも自分の足の震えなのか、もう分からなかった。

足が勝手に前へ前へと動いていた。

息はとっくに喉の奥でひっかかり、まともに吸えていない。それでも止まれなかった。止まった瞬間、空から何かが落ちてきそうで、背中に熱い視線が刺さるような気がして。

何処かでガラスの割れる音がした。

別の方向では瓦が崩れ落ちる音。

ぱらぱらと別の機体から落ちてきた銃弾が、誰彼構わず体を貫く。真っ赤に飛び散る血が、赤い花弁に見えた。

そしてまた―――

―――ドンッ。

今度はさっきよりも近かった。

耳の奥がキン、と金属のような音を立てて、周りの音が遠のいていく。

気がつくと、足元の地面がぐにゃりと歪んだ。

いや、歪んだのは地面じゃない。

私の視界だった。

「......っ」

声を出そうとしたはずなのに、喉からは空気しか出なかった。

口の中が砂のように乾いている。

「しっかりして!!」

誰かが私の腕をつかんだ。

エツ子だった。顔が煤で汚れ、涙なのか汗なのか分からないものが頬を伝っている。

「こんな所で倒れたら死んじゃうよ!!早く!!」

彼女に引っ張られるまま、私はよろめきながらまた走り出した。

周りの町は、もう町じゃなかった。

家の屋根には火がつき、紙障子が燃えながら風に煽られている。

燃えた木片が、まるで生き物のように地面を跳ねていた。

「水だ!水持ってこい!!」

「こっちはまだ人がいるぞ!!」

あちこちから怒鳴り声が飛ぶ。

でも、その声はどれも途中で消えていった。

爆音にかき消され、火の音に飲まれ、銃弾に切り裂けられて。

斜め前を走っていた人の背中を銃弾が貫く。ぐらりと崩れた。花弁に見える血が舞う。

崩れ倒れた人を踏み越え、見ないようにしていた。

見たら、足が止まってしまいそうだったから。

ようやくたどり着いた別の防空壕は、さっきの場所よりも町外れに近い場所にあった。

入口は狭く、すでに何人かが中に押し込まれている。

「ここ入れる!!早く!!」

「あ......」

エツ子が叫ぶ。

壕の中から、土と湿気の混ざった匂いが流れ出てきた。

恐ろしいはずなのに、その匂いが今は、どこか安心できるものに思えた。

私達は人の隙間を縫うようにして、中へ転がり込んだ。

中は真っ暗だった。

泣いている子供。

唇を強く結んで俯く母親。

祈るように目を閉じる老人。

誰も、言葉を発していない。

ただ、外からの音に、肩を小さく震わせていた。

―――ドォォン……!

爆発音が、地面越しに響く。

防空壕全体が、まるで大きな獣の腹の中のように、重く揺れた。

土が天井からぱらぱらと落ちてくる。

「やだ……」

誰かの細い声が聞こえた。

「やだよ……死にたくない……」

その声を聞いた瞬間、胸の奥がぎゅっと縮んだ。

けれど、何も言えなかった。

言葉なんて、この音の中では、あまりにも無力だったから。

ただ、私は膝を抱えて、口を結んだ。

真っ暗な中で。

外の世界が、音ごと燃えていくのをじっと耐えるしかなかった。

防空壕には見慣れた面々が座っていた。再会を喜んでいると、文が「ツユは!?さっきまでいたのに!」と叫んだ。

まさかと思って火の粉が舞っている外を見ると、逃げ遅れたツユが倒れていた。

「......ツユ!」

助けに行こうとする私を数人が止めた。

「もう助からないよ!自分が死ぬ!」

「水!防火バケツを持ってきて!!」

振りほどこうともがくが、なかなか前に進めない。

どうして......?

「嫌......ツユを見殺しにしたくない!!」

「千代!」

バシャバシャとツユを包んでいた火にかけていくと、何とか消えてくれた。

「......壕に運んで」

数人で壕に運び、扉を閉めた途端、ドンッという轟音とドシャという何かが崩れた音が聞こえた。

ツユの背中は、大火傷を追っていた。服が焦げ、皮膚は赤くただれている。

「痛い......痛い......」

意識はあるようだが、焦点が合っていない。

水で湿らせたタオルを患部に押し当てる。

「う、うぅ......」

しばらくしてツユは気を失ってしまった。

「ツユ......?ツユ!!」

文の声が、壕の中に響いた。

返事はない。

焦げた匂いと、土と血の匂いが混じって、息を吸うたびに喉が焼けた。

「まだ息してる......!」

エツ子が震える声で言った。

たしかに、かすかに胸が上下している。

だけど、その息はどんどん浅く、細くなっていく。

「ツユ、お願い、目を開けてよ......!」

柳子が泣きながらユリの手を握る。

その手も、火傷で赤く腫れていた。

「もうすぐ空襲、終わるから......」

誰が言ったのか分からない。

皆、信じたい言葉を口にしていた。

やがて、外の爆音が遠のき、壕の中に静けさが戻る。

その時だった。

「おかあ......さん......」

ツユの唇が、かすかに動いた。

焦点の合わない瞳が、闇を見つめている。

「ツユ!?ツユ!お願い、喋らないで!」

「カエデ、しっかり押さえて!血が、血が出てる!」

「水!誰か水を......!!」

文が泣きながらタオルを押し当てる。ツユの焼けた皮膚を冷やす。

「水......もうないの......」

誰かが言った。

空襲の中、井戸まで水を汲みにいくのは難しい。

「川......近くに川があったはず。そこに行けば......」

「無理よ、千代。町は大火事なの......」

でも、もう――

ツユの体は、すとんと力を失った。

「あ......」

重く、冷たい沈黙が壕を包む。

誰も声を出せなかった。

ただ、雨のように、涙の音だけがぽたぽたと落ちていく。

土の上に落ちた布が、ぐしょりと音を立てる。

私は唇を噛んだ。

涙が出なかった。

怖くて、泣くことさえできなかった。

泣ける気力があったなら、泣きたかった。

「ごめん......なさいっ......」

人一番責任感が強い文は、その場に崩れ落ちて泣いた。

「ツユ……」

思わず名前を呼んでしまった。

でも、返事はない。

さっき壕の中で冷たくなった小さな手の感触が、まだ指先に残っていた。

(どうして……ツユが……?)

唇を噛んでも、涙は出なかった。

泣くよりも、ただ立ち尽くすしかなかった。

どれくらいの時間が経ったのか分からない。

壕の外は、もう爆音が止んでいた。

ただ、焦げた空気の匂いと、どこかで何かが燃え続ける音だけが残っていた。

みんな、暗い表情で外に出る。

「……もう、行こう」

ツユの遺体の前で突っ立ってた私の手を掴んで、柳子が外へ出た。

焼けた金属の匂いが、熱気と一緒に吹き込んできた。

外は――地獄だった。

さっきまであった家は、野太い音を上げながら燃えていた。

しばらく行ったところで、小さな女の子が倒れているのが見えた。

「あ......」

思わず立ち止まって、女の子の肩に触れた瞬間、背筋が凍った。

完全に力を失ってぐったりした体。虚ろな半開きの目からは乾いた涙が流れていた。

目を閉じて、頬を拭ってあげ、私はよろよろと立ち上がった。

同じ組のほとんどの子は、崩れた木材や瓦礫の下敷きになっていた。助け出したいのに、火に呑まれてしまっており、とても助け出せる状態じゃなかった。

怪我をしていない町の人達と消火活動を行いながら瓦礫をどかして、助け出そうとする。

でも......

見つかったのは、誰なのか判別できない焼死体と、血まみれの体の一部。防空頭巾に縫い付けている名札で名前が分かる人もいるが、それでも少数だった。

川の付近にいっぱい転がっているのは、僅かに命を繋ぎ止めている人間の抜け殻みたいなもので、人間と呼び得るのかすら怪しい何かだった。その虚ろな視線は、凝然(ぎょうぜん)と足元に落ちて動かなかった。

今日の空襲で、何人が死んだのだろう?

どうして、私が生き残ってしまったのだろう。

ツユや、死んでいった人達を置いて......どうして......。

みんな、何かを発する気力さえもう残っていなかった。

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