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春を待つ  作者: 安達夷三郎
第一章、花冷え
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四話

誰もいない部屋の片隅で、私とツユはエツ子に頼み込んで授業の復習をしていた。

机に置かれているのは教科書と水を被ってパリパリになったノート。

「数学嫌い......」

「無理だよぉ...」

そろそろ学年末試験が迫る頃。不得意科目をなくす為、数学の点数が良いエツ子に教えを乞うているという訳だ。

「私じゃなくても良かったんじゃないの?」

エツ子が首を傾げたので、私は苦笑いで答える。

「柳子はサボる割にちゃんと授業内容はしっかり入ってるみたいだけど...からかってくるのが......ね」

その言葉に貞腐れていたツユが首を縦に振る。

柳子のからかい癖は、この学校に通っている人ならよく知っている。特に同級生なら尚更。

「文は、先生と話していたし......」

「なるほど」

「お願い、エッちゃん!私達を救うと思って、この通り!!」

私達は机に額をぶつける勢いで頭を下げた。

「もう、しょうがないなぁ……」

エツ子は苦笑しながら椅子を引き、教科書を手に取った。

「じゃあ、まずはここ。連立方程式のところ、千代ちゃんとツユちゃん、どこでつまずいたの?」

ノートをめくりながら首を傾げる。

「えっと……この“xとyを消す”ってところ。どうやって消すのか分からなくて」

「ツユ......削り過ぎて大変なことになってるよ」

隣に座っているツユは新聞紙を広げ、小刀で鉛筆を削っていた。

「......え、あ、本当だ!」

ツユの筆箱は削りカスが積もっている。

「捨ててきなさい」

ツユは元気良く返事を返し、火鉢の中に突っ込んだ。

「あともうすぐで東京か〜」

「東京の方は冷害が少ないって聞くよ」

「ねぇ」

問題を解いていた手を止めて、二人に問う。

「二人は、将来は何になりたい?」

「私は......教師かな」

「確かにエッちゃんに似合いそう!」

「それ、柳子ちゃんにも言われた」

クスッと、エツ子が笑う。

「教師かぁ……。やっぱり、教えるのが好きなんだね」

千代が鉛筆をくるくる回しながら言う。

「うん。小さい子に「分かった」って言われるの、嬉しいから」

エツ子は少し照れくさそうに笑った。

「エツ子が教師になったら、エツ子の授業毎日見に来るよ」

「その時、千代ちゃんも大人でしょ」

エツ子がそう言うと、「あ、そっか……」と残念そうに肩を落とす。

エツ子の授業、受けたかったなぁ。

その横で、ツユがはいはーいと手を上げた。

「私ねぇ、看護婦さんになりたい!」

「看護婦?」

「うん。白い制服着て、怪我した人を助けるの。誰かの為に働くのも格好良いと思うし。だから、看護隊に志願したかったんだけどね......」

看護隊とは、女学生が軍と一緒に行動して負傷兵の怪我を治療したりする人こと。

「ツユなら看護婦になれるよ」

ツユが看護婦として働いている姿を想像してみる。

「千代ちゃんは?」

「え?」

「千代ちゃんは、何になりたいの?」

問われて、私は鉛筆の芯を見つめたまま、少し考えた。

「えっと、絵描きさん……」

恥ずかしくなって小声になる。

「千代は想像力豊かだもんね」

ツユの言葉にこくんと頷く。

勉強会が終わると、私達は女学校の裏にある寮へ向かった。

寮と言っても、木造二階建ての質素な建物で、廊下には薪ストーブの匂いがほんのり漂っている。

「良いなぁ、寮って。みんなで一緒に寝られるんでしょ?」

羨ましそうに言うと、ツユが笑って肩をすくめた。

「千代は寮生じゃないもんね」

「うん。入学の時に、家が近いから寮じゃなくても良いんじゃない?って」

「夜中に誰かが寝言言ったり、布団の取り合いになったりで、全然眠れない時もあるよ」

「それ、柳子も混ざったらもっと大変そう」

「ちょっと、どういう意味?」

いつの間にか背後にいた柳子がわざとらしく眉をひそめ、みんな笑い出す。

狭い階段を上り、長い廊下を歩いたのちにエツ子はひとつの部屋に入る。八畳一間の空間には二段ベットと文机が置かれている。

壁には家から持ってきた小さな家族写真や、好きな俳句を貼った紙があった。

「お邪魔しまーす」

「いらっしゃい」

「ゆっくりしてねー」

「ここ、ツユの部屋じゃないでしょ」

どうやら、ここはエツ子と文の部屋らしい。

ガラッとふすまが開いて、本を抱えた文が入ってくる。

「うわっ!......びっくりした。二人共遊びに来てたの?」

「うん」

文は笑いながら本を机に置き、思い出したように言った。

「あ、明日は一緒に帰ろうね」

「そっか、もう明後日かー」

戦況が慌ただしくなり、明日は前々から言われていた学徒動員の許可を取りに、寮生は各家の家庭に一時帰省する日なのだ。


「千代が学徒動員ねぇ......」

湿った手ぬぐいを釜戸の火にかざしながら、母がため息混じりにぼやいた。

釜の蓋がカタカタと揺れ、米の炊ける匂いがする。着物の裾をたすきでたくし直し、「うん」と答えながら台所に手際良く皿を並べた。

今日の夕飯は、お芋とお水を大量に入れて玄米一合の量が三倍に増えた『楠公飯(なんこうめし)』配給で貰った『イワシの干物』保存可能な『お漬物』

「あ、ご飯作るね」

「火傷しないように気を付けてね」

私は早速、炊き上がったお粥に馬鈴薯(じゃがいも)や摘み取ってきたハコベラを入れて、さらに炊く。しばらく待てば楠公飯の出来上がり。

「出発は、いつ?」

「明後日の早朝。工場までは汽車で行くの」

「そう……」

「大丈夫だよ。心配しないで」

母は小さく頷き、イワシの干物を梅干しの種の煮汁で煮る。

「こんなご時世だし、御国の為になるなら応援しなくてはね」

「うん」

トントンと戸を叩く音が聞こえ、料理の手を止めて玄関へと急いだ。

戸がゆっくりと開き、そこに立っていたのは春馬だった。

国民服姿の彼は、手に小さな包みと書類を抱えている。

「何とか休暇が取れて......急いで戻ってきた」

春馬の声は少し張りつめているようで、でもどこか安心させる温かさがあった。

頬が自然に熱くなる。

「あ、そうだ。春馬に渡したい物があって......ちょっと待ってて」

自室の机に置いていたお守りを取りに行き、そっと春馬に手渡した。

春馬は受け取ったお守りをしばらく見つめてから、ゆっくりと口を開く。

「……千代が作ったのか?」

「うん。ちゃんと縫ったよ。下手だけど」

「そんなことない」

春馬は微笑んで、胸のポケットにそれを大事そうにしまい込んだ。

「ありがとう。大事にする」

母が台所から顔を出して言った。

「春馬くんも忙しいでしょうに……わざわざありがとうね」

「いえ。千代が工場に行くと聞いたので、どうしても顔を見たくて。......最後になるかもしれないから」

―――その言葉に、空気が一瞬止まった。

思わず息を呑む。

「そんなこと、言わないでよ」

自分でも驚くほど掠れた声が出た。

春馬は視線を落とし、帽子のつばを指でいじる。

「ごめん」

「……うん」

言葉を探したが、喉の奥に何かが詰まって上手く出てこなかった。

母が静かに立ち上がり、気を利かせて別の部屋へと下がる。

残されたのは、二人だけ。

「あのさ、千代」

春馬が口を開いた瞬間、声が微かに震えていた。

顔を上げると、春馬はまっすぐに見ているようで、でもどこか視線が定まらない。

帽子のつばをいじったり、落ち着かない仕草を繰り返している。

彼がこんな様子を見せるのは、初めてだった。

「お、俺が料亭の息子だって理由でいじめられてた時あったろ」

「そんなことあった?」

「あったよ。ほら、小学生の頃......」

「ああ―――」

ようやく思い出した。

春馬が、海辺で同級生の子達にいじめられていた日のこと。

その時、確か春馬を庇うように『春馬の家のご飯は美味しいんだ!』って、上級生に向かって叫んだっけ。

「あの時、千代が言ってくれたお陰でいじめられることもなくなったんだ」

春馬が、胸ポケットを軽く叩いた。

「美味しいんだって言ってもらえて嬉しかった。……俺、あの時からずっと、千代のことが―――」

その言葉の続きを待つように、私は思わず息を止めた。

春馬の喉が小さく動く。けれど、なかなか言葉が出てこない。

軍服の袖の下で、指先がぎゅっと握られているのが見えた。

「……ごめん、こんな時に言うことじゃないよな」

春馬は苦笑して、視線を逸らした。

その横顔が、やけに遠く感じた。

「春馬……」

名前を呼ぶと、彼はわずかに顔を上げた。

その瞳の奥に宿る不安と決意。そして、家族を守る為に征くことへの誇り。言葉にしなくても、私には分かった。

だから余計に「行かないで......」なんて、言えなかった。

まだ......死にたくない、飛びたくないと言ってくれた方が言えたかもしれないのに......。

「帰ってきたら、続き、聞かせてね」

私ができるのは、見送るだけだから。

春馬は目を丸くしてから、ゆっくりと微笑んだ。

「......ああ。元気でな」

(神様、どうか、彼が生きて帰って来れますように......)

どうか、我儘(わがまま)な私の願いを、貴方様は叶えてくださいますでしょうか......?


しかし、その約束が二度と果たされることはなかった。

そう遠くない日に彼に特攻命令が下され、死んでしまったからだ。

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