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春を待つ  作者: 安達夷三郎
第六章、折れた翼
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二十一話

その日は、朝から嫌な予感がした。

何て説明すれば良いのか分からないけれど、胸がもやもやするような違和感を感じていた。

工場の窓から見える空は、どんよりと曇って、まるで煙の底に沈んでいるみたいだった。

「千代、大丈夫?」

隣の文が小声で言った。

彼女の指も、油と血で黒く染まっている。

「大丈夫......」

そう言って笑うと、カエデも小さく笑った。

でも、その笑顔はどこか無理をしていた。

午前十時を過ぎた頃、空襲警報が鳴った。

「またか……」と、ため息をつく。

最近は毎日のように鳴るから、もう誰も驚かない。

でも、今日は違った。

その瞬間、空が鳴った。

まるで天地がひっくり返るような音だった。

「伏せて!」と誰かが叫ぶ間もなく、窓の外が真っ白に光る。

爆風が走り、私の体は宙を舞った。

気づけば、鉄の臭いと煙の中に埋まっていた。

耳が痛い。

音が遠い。

何が起きているのか分からない。

視界が揺れて、頬に何か温かいものが流れている。

血だ。

自分の、なのか、誰かの、なのか。

「千代!助けて!カエデが、カエデが......」

瓦礫を掘り起こしていたユリと志穂が叫んだ。でも、カエデは壊れた瓦礫に押し潰されてもう動かなくなっていた。

床は瓦礫で覆われ、油が流れ出していた。

ここは危険だと、二人の方に駆け寄ろうとしてきた時、ガラガラと音をたてて鉄骨が落ちてくる。

「あ……」

声にならない声が、喉の奥で潰れた。

あと一歩。

あと一歩で……。

ユリと志穂が瓦礫に飲まれていく。恐怖で腰が抜けた。手が、近くにある。生暖かかった。

生暖かさに、はっとして手を引っ込めた。

「……っ」

指先が震える。何を触ったのか、考えないようにした。 考えた瞬間、心が折れてしまいそうだったから。

「ユリ…!志穂…!」

呼んだ声は、煙に吸われて消えた。 返事はない。

瓦礫をどかして三人を引っ張り出そうと立ち上がろうとすると、左足首に激痛が走った。

一瞬痛みが引いても、ずきずきとした痛みは引いてくれない。そっと足を見てみると、だらりと血が流れ出ていた。

鉄骨の下から、しゅう、と嫌な音がした。 流れ出した油に、火の粉が落ちたのだと、遅れて理解する。


畑を横切り、パチパチ音を立てて燃えている雑木林を抜けると沢山の人が炎から逃れようと走っていた。

生暖かい液体が私の足から流れ出し、止まる気配はしない。

柳子と文が私の肩をかかえ、必死に町の中を走るように歩いていた。

このままでは、二人が死んでしまう。

先生が四月当初に言っていた言葉を思い出した。

『誰かが怪我しても残していきなさい。一人でも多く生き残るんです!』

(一人でも生き残る為……)

私は意を決して、二人が貸してくれた手を離した。

「はぁ......はぁ......千代?」

文の声が、驚きと戸惑いを帯びていた。

僅かに舞う煙を吸い込み、私の体は咳き込んでしまう。

「先......行って......」

「何......言ってるの......?」

文と柳子は理解できていないようだったが、構わず続ける。

「二人だけなら......まだ助かる......」

二人は私を諦めきれないのか、私に近づいてくる。

「来ないで......!」

私は、自分の足首を見た。止めどなく流れ出る赤い血液。震える体。

「嫌だ……そんなの……」

文の声が、今にも崩れそうだった。

柳子は唇を噛みしめたまま、私の方を見ようとしない。

「一緒に生きようよ……。まだ、まだ何とかなるかもしれないじゃない……」

文が私の袖を掴む。

その手が、小さく震えているのが分かった。

「文……」

声を出そうとしたのに、喉が詰まってうまく出なかった。

柳子が、ぎゅっと目を閉じた。

感情を押し殺しているような表情で、私に近づいてくる。

「柳子、お願い......私を置いていって」

柳子の目をまっすぐ見つめる。

戸惑っているようで、もうひと踏ん張りだ。

「このままだったら……三人とも……」

最後まで言えず、柳子の声は途切れた。

文の頬を、涙が伝い落ちる。

汚れた顔を、何度も袖で拭っている。

「千代……」

その呼び方が、胸に刺さった。

「……ごめん、ごめんなさい......」

柳子は泣きじゃくる文を引っ張って、走っていく。

二人の背中が、煙の向こうに滲んでいく。

私は、声を出せなかった。

手を伸ばすことも、できなかった。

ただ、二人が泣きながら振り返らないようにしているのが、はっきりと分かった。

(ありがとう......)

もう、終わるならここで終わりたかった。

焦げた鉄の匂い、焼けた木の匂い、そして人の焦げる匂い。

雲の代わりに炎が立ち上っている。

誰かが泣き叫んでいた。

誰かが名前を呼んでいた。

でも、その声はすぐに爆音にかき消された。

空を見上げると、黒い点が幾つも見えた。

編隊を組んで、ゆっくりと旋回(せんかい)している。

その腹から、小さな光の粒がこぼれ落ちていた。

私は力無く微笑んだ。

―――置いていかないで。

そんな言葉が脳裏をよぎった。もし、二人の手を離さなければ、私は生きていられただろうか。そんな後悔が押し寄せてくる。

もう立ち上がる気力すらなくなり、私は横たわった。

お母さん。

風が血と火薬の匂いでいっぱいです。今までどこにいたと思うくらいハエが黒山を作っています。

周りには、血まみれの体がゴロゴロ転がっています。手や足が転がっています。

(お母さん、お父さん、親不孝者でごめんなさい......)

......視界が真っ白になった。

何も見えない、何も聞こえない。体の感覚もない。

数を数えようとしたけれど、途中で分からなくなった。

そこに、ふと——母の声が聞こえた気がした。

「よく頑張ったね」

うん。頑張ったよ。

でも、次に瞬きをした時にはお母さんの姿はいなくなっていて......。

春馬の顔が浮かぶ。

最後に交わした言葉も、手紙に書いた文も、もう曖昧で。

それでも、顔と思い出だけは不思議と残っていた。

柳子と文は、今頃どこまで行けただろう。

ちゃんと、逃げ切れているだろうか。

考えようとしても、言葉が形にならない。

息を吸おうとしているのに、空気が遠い。

吐く息も、もう自分のものじゃないみたいだった。

耳鳴りだけが残っている。

それも、だんだん小さくなって、波が引くみたいに遠ざかっていく。

―――もう、良いかな。

そう思った瞬間、寒さも、重さも、痛みも、すべてが解けた。

体が、何処にあるのか分からない。

意味のない映像が頭の中を駆け巡る。

家の庭、神社、配給所、工場。

ぐるぐると白黒の映像が目まぐるしく回る。まるで写真や映画を観客席で見ているような感覚になる。

体は動かない。言葉も出ない。何も出来ない。

上下も左右も定かではない場所。自分が立っているのか座っているのか分からない場所。一秒と一時間の時間も曖昧で、寒いのか暑いのかも分からない。

その場所で、私はずっと音のない白黒の映像を見ていた。

ただ、温かい暗さが、静かに包んでくる。

目を開けると綺麗な場所で倒れていた。

空は雲ひとつない快晴で、寒くも暑くもない春風のような暖かい風が肌を撫でる。

まるで幼い頃に読んだ絵本に出てくる天国みたい。

不思議と体が軽い。怪我していたはずの足も動く。

白い道が、どこまでも続いている。

ぼんやりと眺めていると、一人の青年と目が合った。

「春馬......?」

彼は喋っていた人達の輪から静かに抜け出し、私の方へ歩いてきた。軍服ではなく、昔と同じ、少し大きめの学生服だった。

はっとしたように、彼は手を伸ばしかける。

けれど、触れるか触れないか、そのわずかな距離でためらうように指先が揺れ、すっと引っ込められてしまった。

「どうして.....?」

問いかけると、彼は一瞬だけ視線を伏せてから、こちらを見る。

眉を下げ、どこか自分を責めるような、悲しそうな笑みを浮かべた。

「........俺にはその資格がないから」

そんなことないと、そう伝えたくて私の方から抱きついた。

「え、千代......!?」

「やだ......そんなこと言わないでよ....」

「.......うん。よく頑張ったな」

彼は壊れ物を扱うような手つきで恐る恐る抱きしめ返してきた。

その時、木陰で話していた女学生達が駆け寄ってくる。見覚えのある制服。

バッと急に恥ずかしくなって離れてしまう。

「千代、案外早くこっちに来たね」

「ツユ、みんな!」

その声に、胸の奥がぎゅっと熱くなる。

そういえば、どうして春馬やみんながここにいるのだろう。いや、違う。そうじゃない、私がここに来たのか、先に逝ったみんなのとこに。

「う、うわぁぁぁぁぁ。ご、ごめん…ごめんなさいっ」

ツユに抱きついて子供みたいに泣きながら謝罪する。

あの空襲の日、助けられなかった。許してくれなんて思わないけど、ずっと謝りたかった。

「千代!?」

「前のカエデみたいだね〜」

「志穂!それは言わない約束でしょ!?」

カエデが慌てたように志穂の口を塞いだ。

「ほら、泣きすぎ。千代、息できてる?」

「できてる……多分……」

しゃくり上げながら答えると、みんなが少しだけ笑った。 その笑顔は、工場で見た無理なものとは違って、ひどく穏やかだった。

白い道の向こうでは、風に揺れる木々がさらさらと音を立てている。 爆音も、警報も、怒鳴り声もない。

ただ、名前を呼ぶ声だけが、優しく残っているみたいだった。

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