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春を待つ  作者: 安達夷三郎
第五章、帰らぬ翼(春馬視点)
18/22

十八話

最期の時が、刻一刻と近づいてくる。

太陽の光を受けてきらめく大海原に、ぽっかり浮かぶ敵艦の群れ。

緊張で喉がひりついているのに、空はあまりにも澄んでいた。

雲一つない青が、残酷なほど広がっている。

操縦桿(そうじゅうかん)を握る手のひらは汗で滑りそうだった。

エンジンの振動が、骨を通して腹の底にまで響く。

耳鳴りのような轟音の中で、ふと、世界が遠のいた気がした。

(ああ、これが最後の景色か)

なんて、他人事のように思った。

もうここまで来たのだから、帰還するなんてことは、滑走路から飛び立った瞬間から考えてはいない。

敵機が、視界の端で一つ、火を噴いた。

くるくると回って落ちていく。

それが俺の撃った弾のせいなのかは、分からない。

ただ―――俺はもう、引き返せないところまで来てしまったようだ。

俺は艦艇群を見下ろしながら、前方の駆逐艦(くちくかん)に目を付けた。

手早く無電のモールス信号の電鍵(でんけん)を叩く。

・・―・・―――(我、敵艦ニ突入ス)

「........!」

敵艦は、思っていたよりもずっと大きかった。海の上に浮かぶ鉄の塊。

歯を食いしばり、覚悟を決めて、操縦桿を前に押した。エンジンが雄叫(おたけ)びのような音を上げながら駆逐艦目掛けて一気に急降下していく。

無数の砲身がこちらを向き、白い航跡が空を裂いてくる。

弾幕が、花火のように散った。

美しい、なんて思ってしまった自分に、少し驚く。

死ぬ間際というのは、こういうものなのだろうか。

高度を下げる。

操縦桿が重く、指先の感覚が薄れていく。

体はここにあるはずなのに、どこか別の場所に置いてきたようだった。

無線が、誰かの声を拾っては途切れる。

仲間の名を呼ぶ声。

返事は、ない。

(千代……)

不意に、幼い頃の景色が浮かんだ。

夕暮れの川辺。

裸足で石を投げて、叱られた日のこと。

嵐の日にハマグリを探して溺れそうになったこと。

どうして、今になって。

もっと早く思い出せば良かった。

もっと、些細なことも思い出した。

夏祭りの帰り道。

金魚すくいの袋が破れて、二人で必死に手ですくったこと。

帰りが遅くなって、並んで叱られたこと。

あの頃は、世界がこんなに広いなんて知らなかった。

海の向こうに、敵がいることも。

空が、命を奪う場所になることも。

―――ああ、忘れていた。

やがて死ぬ身であることを。

飯をくらい、お茶を飲み、友人達と馬鹿話をしながら、死ぬことを忘れていた。

どんなに生きてほしいと願っても、死んだら何も届かない。

(どうにも、思い通りにはいかないなぁ......)

不意に、そんな言葉が胸に浮かぶ。

誰に聞かせるでもなく、ただ心の奥で、静かに。

敵艦が、視界いっぱいに迫ってくる。

けれど、恐怖よりも先に、妙な静けさがあった。

潮の匂い。

太陽の反射。

エンジンの音さえ、次第に遠ざかっていく。

操縦桿を握る指に、もう力は入らなかった。

それでも、離すことはしなかった。

ここまで来たのだから、それだけは、最後まで。

もしも、戦争がなかったら。

もしも、普通に大人になれていたら。

同じ景色を、隣で見れていただろうか。

ガンッと機体が揺れた。

「……っ!!」

(後ろを付かれた!!)

反射的に操縦桿を引いた。

機体が悲鳴のような音を立て、視界が一気に傾く。

重力が身体を押し潰し、肺の奥から空気が絞り出された。

背後から迫る気配だけが、異様に鮮明だった。

振り返る余裕なんてないのに、撃たれていることだけは分かる。

相手は容赦なく撃ってくる。

左翼をやられた。

機体がぐわんと揺れる。操縦が利かなくなって、ゆっくりと破片を撒き散らしながら重力に引かれて真っ青な海面に向かって落ちていく。

機体は、もう空を飛んでいなかった。

ただ、くるくると回って落ちていく。

操縦桿をどう動かしても、反応は鈍い。

いや、最初から、もう何も返ってきていないのかもしれなかった。

風切り音が、妙に遠い。

耳鳴りの奥で、世界がゆっくりと溶けていく。

高度計の数字が、意味を失っていく。

上なのか下なのかさえ、分からない。

海が、近い。

さっきまできらめいていたはずの水面が、今はただ一色の青になって迫ってくる。

(ああ……)

恐怖も、焦りも、もう追いついてこない。

胸の奥に残っているのは、重たい疲労感と、どうしようもない後悔だけ。

「ごめんなぁ……」

視界の端が、暗くなる。

輪郭が、ぼやけていく。

エンジンの音が、完全に消えた。

代わりに聞こえたのは―――波の音、だった気がする。

それが本当に聞こえたのか、ただの記憶だったのかは、もう分からない。

視界いっぱいに桜の花びらが見える。

こんな夏に桜なんか咲く訳がない。

きっと幻だろう。

逝こうか、みんなのところへ。

そして、うんと美味い魚で豪勢な料理を振る舞ってやろう。そこには美味い酒もあって、誰かの色恋沙汰(いろこいざた)を肴にして―――。

何も聞こえない。何も見えない。体の感覚もなかった。

俺は、ようやく操縦桿を手離した。

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