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春を待つ  作者: 安達夷三郎
第五章、帰らぬ翼(春馬視点)
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十七話

夜の海は静かだった。

風は凪ぎ、基地の灯りが波に映えて揺れる。遠くでエンジンの整備音が聞こえるが、それさえも、今はやけに穏やかに聞こえた。

兵舎の中では、整備兵たちが最後の確認をしている。

『特攻隊員』と呼ばれるようになってから、もうどれくらい経っただろう。

何人が脱走を企てようとした同期がいたが、そのほとんどは上官に見つかり、ぶん殴られていた。運良く見つからずに脱走できた奴も一人くらいいたようだが……。

数日前に飛び立った橋本の最後の笑みを思い出す。

『敵空母撃沈の知らせが届いたら、向こうでうなぎでも奢れよ。先に一杯やっとくわ』なんて冗談を言い合って。

だが、その知らせが届くことはなかった。みな、体当たりする前に撃ち落とされたらしい。

出撃が決まると、皆それぞれの時間を過ごす。

兵舎で泣き出す者、誇らしく自慢する者、親孝行ができなかったと悔やむ者、愛する家族の写真を見て遺書を書く者、出撃する部隊で宴会を開く者。

覚悟、というよりも、諦めに近い静けさが漂っていた。

上官は「名誉な任務だ」と言う。

皆、そう言葉にしていた。

信じている者も、疑っている者も、考えないようにしている者もいた。

夜、食堂に戻ると、机の上に盆が置かれていた。

中には、炊きたての赤飯と、(たい)が一匹。

それから、味噌汁。

赤飯を口にできるのは、いつ以来だろう。

これが最後のご飯だということを、誰もが黙って理解していた。

隣の席では、同じ隊の山田が黙々と箸を動かしている。

「美味いな」

と、短く言った。

「ああ......」

俺はそれ以上、返事をしなかった。

口に出したら、止まらなくなってしまいそうだから。

壁に立てかけられた飛行帽を見つめる。

明日はあれを被って、飛ぶ。

燃料は片道分しか積まれない。

帰るつもりで飛ぶ人間など、ここにはいない。

(帰る、か……)

昼間は訓練で汗を流し、夜は手紙を書いて、それだけの毎日だった。

戦争が終わったら、何をしようか―――

そんな未来を考えることさえ、贅沢だと思っていた。

「春馬」

声をかけられて振り返ると、同じ隊の河岡が立っていた。

「座れよ」

「おう」

ガタッと向かいの席に座る。そして、四角くて小さい包みを俺と山田に手渡してきた。包み紙には菊の御紋(ごもん)

(御紋入りの包み紙と体操着を遺書と共に実家に送ってやろう......)

「上から回ってきたチョコレイトだ。出撃前に食えってさ」

「そうか」

チョコレイト。一度だけ米軍から横流しされていたやつを見たことがある。

包みを開けて、匂いを嗅ぐ。

砂糖とは違う甘い匂いがした。匂いだけでもと嗅いでいると、頭がぐらぐらしてきた。

何か入っている......?

俺が眉間にシワを寄せて考えているのが面白いのか、河岡がゲラゲラ笑った。山田は相変わらずの河岡に対してため息をついている。

「お前ら、それはヒロポン入りだよ」

「あぁ、ヒロポンか」

ヒロポンという言葉に納得する。

「そ。俺達の最後の晩餐(ばんさん)って訳だ。上官は戦力増強剤って言ってたけどな。美味い魚が食いたいなぁ」

河岡は、鯛をつつきながら冗談とも本気ともつかない声でぼやいた。

冗談で笑えるような話ではない。けれど、笑ってしまった。

(はぎ)には美味くて新鮮な魚があるもんな」

この鯛も美味いけど、故郷の新鮮な魚と比べたら劣る。ということだろう。とても理解できる。

「仕方ねぇ。体当たりしたら靖国(やすくに)で先に逝った戦友達と酒でも飲み交わすか」

(さかな)は何にしようか......お造りも良いし、寿司も良いな......山田と河岡も手伝えよ」

「炭起こしならできるが......」

「はは、そん時は(さば)くの手伝ってやるよ。......あー、早く飛びたいなぁ」

「なぁ、河岡」

「どうした?」

「翼を持たない鳥は、飛べると思うか?」

河岡の目が点になった。

「いや......何でもない。忘れてくれ」

「俺達が鳥なら、きっとそれは鉄の鳥だろうな。大丈夫さ、飛べる」

―――鉄の鳥。

確かに俺達は、翼を持たない。

けれど、その代わりに鉄で作られた翼を与えられた。なら、その鳥は何処まで飛べるのだろうか?

昔、一度だけ読んだことのある本に載っていた一文が頭から離れない。

『戦争は呪うべし、憎むべし。再び犯すべからず』

題名も、どんな内容かも忘れてしまって思い出すことはできないのに、どうしてかこの一文だけ覚えている。

あの本を書いたのが誰なのかも、どうしてそんな言葉を残したのかも分からない。

死にたい訳じゃない。

死に急いでいる訳でもない。

ここで逃げれば、先に逝ったみんなに顔向けができない。

「そうだ、春馬。お前、遺書はもう書いたか?」

「え、書いたけど......」

「何回削られた?」

削られた。というのは、検閲に引っかかって上官に書き直しを命じられた回数のことだろう。

「二回......」

「俺は一回。はい俺の勝ちー」

河岡は笑っていたが、その指先は微かに震えていた。

気分を紛らわせるように、急に立ち上がった。

「……よし!」

返事を待たずに、喉を鳴らす。

「♪貴様と俺とは同期の桜、同じ兵学校の庭に咲く。咲いた花なら散るのは覚悟。みごと散りましょ、国のため」

聞き慣れた軍歌だった。

音程は少し外れているし、声も張っていない。

山田は箸を止めたまま、黙って聞いている。

俺は、赤飯を口に運ぶ手を止めた。

桜が美しいのは、散るからだと数日前に誰かが言っていた。

春先になると花が咲く前から、まだかまだかと待ちわび、やっと満開になったかと思いきや、夜の雨風が強ければ、次の日には見頃を終えてしまっている。

「歌詞、そこ違うだろ」

「細かいこたぁいいんだよ」

そう言って、もう一度、今度は少しだけ大きな声で歌った。

別の隊の奴らから「下手くそ〜」「俺の方が上手いぞ!」などとガヤが飛んできた。

兵舎に戻り、千代から貰った縫い目の歪んだお守りと、届いた手紙を見つめる。

英雄になりたい訳じゃなかった。

愛する人達に幸せになってほしくて、この国を守りたくて、その為だったら自分が犠牲になっても構わないと、今でもそう思っている。

俺に後悔なんてない。

ああ、でも、でも......やはり脳裏に映るのは、今まで育ててくれた両親と、幼馴染の姿。

今更こんな感情を持つことすら許されないのだろうけど、頭の中から消えることはなかった。

(愛してる。って、言えなかったな......)

神とやらは、随分酷なことをする。

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