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春を待つ  作者: 安達夷三郎
第四章、六月の夏
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十五話

六月に入ってから工場の空気が変わった。

敵の空襲は激しさを増し、二〜三日くらいの頻度で夜間だけでなく日中の空襲も増えるようになった。重症患者は日に日に増え続け、医療物資も食料も満足に行き届くことなく、遺体が其処彼処(そこかしこ)に放置されているなんて、もはや日常的だった。

最初こそ悲鳴を上げている人もいたが、この状況下が続く中で遺体に目もくれない人達が増えた。いや、むしろ悲鳴なんて上げる気力すら残っていなかったのかもしれない。

私達もただ運が良かっただけで、いつかはそうなるのだから。

「あっ」

航空兵救命用に使われる落下傘(パラシュート)の縫い合わせをしていたエツ子が小さく声を上げる。どうやら、針を落としてしまったようだ。

エツ子は身を乗り出し、縫い台の下を覗き込み、手探りで床をなぞる。

指先が埃をすくうばかりで、針の感触がない。

机の脚の傍に落ちていた針を拾い上げ、針山に刺す。

「針山に刺しておいたよ」

「千代ちゃん、ありがとう」

エツ子は針山から針を抜き、何事もなかったように布に向き直った。

縫い物の作業がひと段落した頃、背後から布の擦れる音が乱れた。

「……あれ?」

エツ子の声だった。

振り返ると、彼女は箱の前に立ったまま、畳んだはずの布を何度も持ち直している。

同じところを掴んでは、離し、また掴む。

「どうしたの?」

私が声を掛けると、エツ子は一瞬きょとんとした顔をした。

「え?ううん……ちょっと、影が重なって見えて……」

そう言って笑おうとしたが、その口元は引きつっていた。

工場は確かに暗い。でも、今に始まったことじゃない。

エツ子は目を細め、箱の中を覗き込む。

まるで、焦点を探すみたいに。

「……箱、そこだよ」

志穂が言うと、エツ子はその声の方へ半歩ずれた。

半歩、ずれている。

「そこ、じゃない。もう少し左」

私が言い直すと、今度は行き過ぎた。

一瞬、空気が止まった。

「……あれ?」

エツ子は自分の手を、目の前でゆっくり振った。

指の形を確かめるように、何度も。

「ねえ……千代ちゃん、志穂ちゃん」

声が、少しだけ震えている。

「工場、さっきより暗くなった?」

「……変わってないよ?」

「いつも通りだよね」

その言葉を聞いて、エツ子の表情が曇った。

困ったように、でもどこか納得してしまったように、目を伏せる。

「……そっか」

その直後、彼女は箱の角にぶつかり、よろけた。

倒れはしなかったが、反射が明らかに遅い。

「エツ子!」

ユリが支えると、彼女はありがとう、と小さく言った。

「最近ね……」

囁くような声だった。

「遠くと近くが、いっぺんに来る感じがして……輪郭が、溶けるの」

光が滲む、とか。

物が二重に見える、とか。

そういう言葉を、彼女は知らなかった。

知っていたとしても、使えなかっただろう。

「休んだ方が良いよ」と、 文が言う。

でもエツ子は、首を横に振った。

「大丈夫。御国の為に働かないと」

その言葉は、自分に言い聞かせているみたいだった。

それでも、彼女の視線は、もう布の上に正確には落ちていない。

手の動きが、少しずつ、記憶に頼り始めている。

針を持つ手が、以前より慎重になっていることに。

その日の工場は、いつもよりずっと暗く感じられた。


柳子と井戸に向かう道すがら、私はまじまじと自分の腕を見つめた。ここのところ、食べ物を口にしていないせいか、日に日に腕が痩せ細っているのが分かる。

「配給、また減るらしいよ」

柳子が、前を向いたまま小さな声で言った。

その声音には、驚きも落胆も、もう混じっていない。

「そっかー......そうだよねー......」

明るくそう言ったつもりだったのに、自分の声が思っていたよりも乾いて聞こえた。

その時、背後から「そこのお嬢さん達」と声を掛けられた。

振り返ると、青年が立っていた。

目の前の青年は燕尾服(えんびふく)に片眼鏡、糸のように細い目といった、まるで奇術師でもやっていそうな物腰をしている。

柳子が青年を見て警戒したように呟く。

「……誰?」

私も改めて青年を見た。

ここら辺で見るには、あまりにも場違いな格好だった。燕尾服は埃ひとつ付いておらず、靴も磨き上げられている。よほど裕福な家庭の人なんだろう。

「決して不審者などではないよ。だからそんなに警戒しないでくれると嬉しいな」

青年はそう言って、胸に手を当て、軽く頭を下げた。

その動作は丁寧で、でもどこか芝居がかっている。

「僕はただのしがない奇術師さ」

思わず、間の抜けた声が出た。

こんな時代に、奇術師なんて言葉を聞くとは思わなかった。

「奇術師、って……手品の?」

柳子が半歩だけ私の後ろに下がりながら言った。

「そう。帽子から(はと)が出たり、何もないところから花が咲いたりする、あれだよ」

青年はそう言って、指先で何もない空間をつまむ仕草をした。

当然、鳩も花も現れない。

はぁ、と私と柳子に相槌(あいづち)すら打たせる隙も与えず男性は続ける。

「うん。大丈夫なのだよ。どうか警戒しないでほしい。僕はね、決して怪しい者ではないのだよ」

まだ何も聞いていないのに、彼は冗談めかした口調でペラペラと喋りだした。

……信用してほしいと言われるほど、逆に怪しく見えるのは何故だろう。

「あの…用がないならそろそろ……」

柳子が恐る恐る口を開くと、彼ははっとした表情になり、私達を交互に見比べた。

「そうだったね。用って程じゃないんだけど、手品をそこら辺の学校や道端でしているから、気になったら見に来てね」

それは。

あまりにも現実から離れ過ぎて。

あまりにも夢物語みたいで。

思わず笑ってしまいそうになった。

―――こんな時に、手品?

「なら、食べ物も出せたりしますか?」

そんなことを言ってしまってから、『しまった』と後悔した。

一瞬、空気が止まった。

柳子がぎょっとした顔で私を見る。何言ってるの、という視線。

青年はというと、驚いたように目を見開き、それから困ったように笑った。

「ああ……なるほど」

否定でも、叱咤(しった)でもなかった。

ただ、納得した、という顔で私達を見る。

もし、この会話を憲兵さんや特高の方に聞かれていたら、間違いなく私は刑務所行きになっていた。『ぜいたくは敵だ』という立て看板が目に入る。

「正直だね」

男性はそう言って、肩をすくめる。

「残念だけど、食べ物は出せないのだよ。それが出来たら、僕は今ごろ国中から引っ張りだこだね」

「……ですよね」

自分で言っておきながら、少しだけほっとした。

もし本当に出せると言われたら、それはそれで怖かったと思う。

遠くで、サイレンの予告音がかすかに聞こえた。 警戒警報の、ずっと手前の、嫌な音。

青年はそれを聞くと、少しだけ残念そうに目を細める。

「さて、僕はこの辺で失礼するのだよ」

彼はくるりと(きびす)を返し、振り返らずに言った。

「…変な人だったね」

「うん…」


水を汲んで工場に戻ると、エツ子が監督と話し込んでいた。

二人とも声を潜めているつもりなのだろうが、工場内は妙に静かで、断片だけが耳に入ってくる。

「……今週中に……」

「すみません……」

何の話をしているのか分からなかったが、エツ子が申し訳そうに頭を下げた。

「千代さん、柳子さん」

監督が先に口を開いた。年季の入った声だ。

「悪いけど、午後から持ち場を変えてもらうよ」

「持ち場、ですか?」

「倉庫の方。仕上がった分の整理が追いつかないんだ」

倉庫、と聞いて、胸の奥が少しだけ重くなる。

あそこは暗くて、風通しが悪い。完成品と、不良品と、戻ってきたものが一緒くたに積まれている場所だ。

「……分かりました」

そう答えた自分の声は、驚くほど落ち着いていた。

柳子も小さく頷き、何も言わない。

監督はそれだけ告げると、忙しそうに踵を返した。背中越しに聞こえる足音は重く、急いでいるのに疲れ切っているのが分かる歩き方だった。

エツ子はしばらくその背中を見送ってから、私達の方を向いた。

「ごめんね」

それだけ言って、困ったように笑う。

「どうして謝るの?」

柳子が小声で聞くと、エツ子は首を横に振った。

「ううん……何でもない」

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