十三話
その日、私は懐かしい夢を見た。
十二月八日。早朝、学校の支度をしていた時、居間に置いてあるラジオからはっきり聞こえて来た。
『大本営陸海軍部発表。帝国陸海軍は本日八日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり』
その内容は初等科五年生の当時の私に到底分かるはずもなく、特に気にせず居間に向かうとお父さんとお母さんがラジオの前で正座しながらラジオの音声を聞いていた。
お母さんが「あなた」と言いかけると、お父さんが「分かってる、分かってる」と答えている。
雪掻きをしようとシャベルを探していると、お父さんが私の方を向いて言った。
「ここに座りなさい」
お父さんの言う通りにラジオの前に正座するが、聞こえてくるのは難しい話と軍歌ばかり。
難しい話が終わるとせっせと朝の支度を始めたので、私も井戸に出て顔を洗っているとお隣の奥さん達もやって来た。
「これからは大変ですねぇ」
と一人の奥さんが言うと、先日隣組長になったばかりの奥さんも「そうですねぇ」と恥ずかしそうに呟く。
「日本は、大丈夫でしょうか」
中々私が戻ってこないから、心配して井戸まで出てきたらしいお母さんがそう言うと、
「大丈夫だからやったんです。必ず勝ちますよ」
そう清々しく力強い笑顔で答えた。
学校に行くと教室で先生が私達を見渡して言った。
「みなさん、今朝のラジオを聞いた人もいると思います。......戦争が始まりました」
さっきまでのザワザワした雰囲気は消え失せ、先生の声だけが聞こえる。
「これから、生活がどんどん変わって行くでしょう。もしかしたら物もなくなって、配給や訓練が増えるでしょう。ですが、一人の日本国民として、少国民として恥ずかしくないようにしなさい」
「俺の父ちゃん陸軍さんなんだ!」
「すげー!!」
「西太平洋ってどこ?」
「日本の反対側!」
分からない言葉を、分からないまま口にして、みんな少し誇らしそうだった。
その日の帰り道、家の軒先に国旗が出ていた。
大人達は「めでたい日だ」「天皇陛下万歳」と口々に言っていた。中には「鬼畜米英に一泡吹かしてやれる」と声を荒げる人もいた。
目の色や髪色が違うだけでこんなにも敵対心を起こさせるのか、子供ながらに不思議だった。
会ったこともない、会話したこともない人を恨み合って.......。
「おーい千代ー!雪合戦しようぜ」
「うん!」
遠くから同じ組の子の声が飛んできた。
それからしばらくラジオから流れてくるのは軍歌と同じような調子だった。
『大戦果』『我が軍優勢』『敵に大損害』
ラジオや新聞では、輝かしい戦果が次々と舞い込んできた。
けれど、少しづつ変わっていって―――初めはおもちゃやお菓子など、小さい物から消えた。
隣近所の若い男性は皆、徴兵検査の後に出兵して行った。私も何人かの見送りに参加し、別れを惜しみながら駅の前で日章旗を手に万歳をした。
四十を真近に控えた父にもとうとう、赤紙が届いた。私が女学校に入学して一年目のことだった。
それは夜の十一時を回った頃だったと思う。玄関扉がけたたましく叩かれる音が聞こえて目が覚めた。
(こんな夜に訪問者......?翌日に持ち越しは出来ないのかな?)
就寝していても叩く。起きてくるまで叩き続ける。
......嫌がらせの類?
両親が揃って玄関扉を開けると、郵便配達員らしき人が何やら紙を広げて差し出し、お父さんに向かってお辞儀をしている。
「召集令状を持って参りました。おめでとうございます!」
お父さんはそれを受け取り、いつもの優しい声で「ありがとうございます」と感謝の気持ちを述べる。
お母さんも「......良かったわね、あなた。光栄なことですね」と述べた。
赤紙を持ってきた男性は敬礼をし、帰って行った。
赤紙は郵送ではなく、専門の赤紙配達員という町役人が夜に手渡しに来るという。
国からの至上命令であり、責任持って対象者本人に届けられる。
赤紙という名前なので真っ赤なのかと思ったら、桃色に近い色だった。そして半紙のように薄い。桃色の紙に黒字で『臨時召集令狀』と書かれている。
「お父さん......行かないで」
思わず袖に縋り付くと、私の方を向いて困ったように笑った。
「ごめんな」
私と目線を合わせるように腰をかがめる。
「俺が行かないと、他の誰かが犠牲になってしまう。これは国の為なんかじゃなく、他の誰かの為なんだよ」
それから、家の中は慌ただしくなった。出兵の日まで一週間しかなく、お父さんは身の回りの準備を整え、お母さんは入営日に着ていく為の服を仕立てる。
駅での見送りの日は町中の人が集まり、日の丸が揺れ、万歳の声が響いた。
列車が動き出すと、お母さんは最後まで手を振っていた。
それから、お父さんが帰ってくるまでは早かった。春先の三月の時だった。
『比律賓方面ニ於イテ戦死』という戦死通知書とボコボコになって使い物にならなくなった水筒だけが戻って来た。お母さんは水筒を仏壇に置いて、手を合わせる。
お父さんは、出兵前に撮った、たった一枚の家族写真のみを残して、冬の日に溶けて逝ってしまったようでした。
その沈黙に耐えられなくなって、家を飛び出した。雪駄も履かずに走り出していた。
雪解けの水が道の端に溜まり、足袋の裏がすぐに濡れる。
境内の裏手には、誰も来ないような空き地がある。雪を払い除けて腰を下ろし、背中を木に傾けた。
雪駄も履かず、半纏も羽織らず家を飛び出したので、吹き付ける風が体の芯まで凍えさせそうだ。
うつらうつら、まぶたが重くなる。
眠りかけたその時、
「―――千代!」
私を呼ぶ声が聞こえた。
「おいコラ起きろ!」
力強く肩を揺さぶられた。
「春馬......」
「何してんだ!おばさん心配してたぞ」
聞き慣れた声に安心感を覚えたのか、ボロボロと涙が流れる。
それを見てギョッとする春馬。
「ちょ......どうした?どこか痛いのか?」
答えようとして、言葉が詰まる。
喉の奥が突っかかってしまう。
春馬は慌てながらも、自分の半纏を脱いで私に着せてくれた。
「ほら、帰ろ」
何も言わず、手を引いて歩き出す春馬。
「おじさんが死んで、耐えられなかったんだろ......」
その言葉にこくんと頷いた。
家に帰ると案の定、玄関先でお母さんが驚いている。
「千代!?濡れてるじゃないの!!風邪引くわよ」
私は改めて自分の服装を見た。
ぐっしょりと濡れたモンペと足袋。
……冷え切った足元を見て、ようやく寒さが現実味を帯びてきた。
「ほら、早く中に入りなさい」
お母さんはそう言って、私の肩を抱いて居間へ引き込む。
春馬は玄関先で一歩引き、気まずそうに視線を逸らした。
「……春馬くん、わざわざ寒い中ありがとうね」
お母さんがそう言うと、春馬は慌てて首を振る。
「見つかって良かったです」
私は何も言えず、ただ半纏の袖を握りしめていた。
春馬の体温が、まだそこに残っている気がして。
囲炉裏に火が入れられ、湯気が立つ。
濡れたモンペと足袋を脱ぎ、替えの着物を出した。
「お父さんだって千代が元気でいてほしいんだから」
お母さんの声は、叱るというより、懇願に近かった。
その言葉に、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
元気でいる、ということが、今はとても難しい。
布団に入っても、目は冴えたままだった。




