第3話 僕には天使のような悪魔が傍にいた
広がる光景に対し、自分でも驚くほど冷静だった。好きな幼馴染が、目の前で首を吊っているというのに。部屋の薄暗い光の中、天井のシーリングライトはチラつき、窓の隙間から差し込む朝日が埃を照らしていた。血の匂いが混ざった空気は、冷たく重苦しい。
「はぁあ…ふぅうう。落ち着け。」
血なまぐさい現実の匂いに頭がおかしくなりそうになるが、落ち着け。こんな光景、見慣れたくないが…確かに時間は巻き戻っている。しかし…なんで僕はこの時間に戻って来た?
渡した思い出が、モジが死ぬ前までに戻すのに、力不足だった…ということか…。
「あの天使…助けますよ~みたいな顔して人の思い出軽々しく扱いやがって。」
悔しくも僕はいつの記憶を渡したのか、さっぱりと忘れていた。
「今はそれどころじゃないか。救急車と警察を呼ぶ前に、調べよう。」
病院も警察官も、どちらもが自殺だと断定していた。だがどうだ、この部屋の光景。最初見た時は気が動転してよく見ていなかったが、冷静になってみると明らかに自殺じゃない。モジのお腹からは血が垂れており、その血は隣のソファから伝っている。
「…凶器はさすがにないな。死因…気が進まないが見ておこう。」
もう動かない幼馴染の服をよく見れば、何かが刺さった跡があった。よく見れば表情は恐怖で引きつっている。
「つまり、モジは今日、6月9日の朝ソファに座っていると何者かが現れ驚き立ち上がる。怖くて動けない所を…」
「グサッ…だろうね。」
「おわっ!?な、なんだお前?!」
突然背後から声がして振り返る。…この動作、ついさっきしたような?
既視感そのまま、僕はもう一度驚くことになった。
そこにいた少女は真っ黒に染まったワンピースに身を包んでいて…
「つ、つの…にしっぽ…。」
「これは作り物じゃないぞ。正真正銘、私の角としっぽだ。」
ワンピースは微かに風を受け揺れ、長い髪も肩から背中にかけて黒い影を落としている。角としっぽの先端は、薄暗い部屋の光を受けて鈍く光った。
その明らかにアクセサリーじゃない感じ。こ、こいつはもしや…。
「悪魔…か。」
「あぁ。私は悪魔だ。悪魔と呼べ。」
天使がいるのなら悪魔だっていてもおかしくない。
そう理解したら、全身を嫌な予感が満たした。天使ですらあの悪の所業…。本業のこいつは何をしでかす気だ…!?
警戒しつつ、悪魔の動向を見続ける。
「ふむ…酷いものだ。未来あるか弱き少女にこのような仕打ち。サクマ、下ろしてあげよう。」
「え?…あ、あぁ…。でも警察とか病院関係者でもないのに、良いのか?」
「わかっていないな。どうして警察も病院も、この明らかな他殺を自殺と判断したと思っている?」
「…それ、は。」
病院側も警察側も…グル?
「そ、そんな馬鹿なことがあるか!」
「可能性はある。少し情報を書き換えればいいだけだ。むしろそれ以外に説明がつくか?…今は詮索はいい。どうせ悪の手が回るならば、早く下ろしてあげようぞ。全く、可哀想に…。」
先ほどの冷静さはどこへやら。若干パニックになっている手で、僕と悪魔は慎重にモジを床におろした。悪魔は優しく、瞼を閉じてやっている。
なんか、優しい…?悪魔とは名ばかりに、行動は人を思いやって、さらにこの事件のヒントまで与えてくれる。どういうことだ?
「よし、これ以上私たちができることはない。証拠もなさそうだ。家を出て、20分後ほどに私から匿名で警察に連絡しておこう。」
「一つだけ教えてくれないか、悪魔。」
「なんだ。」
「…お前の目的だ。悪魔のくせに、なんでそんな協力的なんだよ。」
「私は天使のいやらしく極悪な遊び事をなんとかしたいだけだ。…思えばサクマ。お前も可哀想な人間だよ。」
優しい声色で悪魔は僕の前に立ち、しゃがめと指示してくる。言われるがまま、僕はしゃがみ込むと悪魔がその胸に、僕の顔を埋めた。
「よしよし、酷いものを見てしまったな。幼馴染の死、長い間好意を寄せていた者の死。辛いだろう。…今一度、泣けばいい。お前にはその資格も、義務もあるさ。」
「!……」
温かかった。その身も心も。先端が三角に尖ったしっぽも、歪な角だって生えているのに。こいつは…そう、あれだ。
天使だった。
思わず、僕は悪魔の胸の中で、泣いてしまった。頭を撫でられる手が、涙を引き出しているようだった。
・・・
静かにモジの家を出て、家に帰った。家に入ろうとすると、悪魔は「帰る」と一言だけ残し、消え去った。悪魔は何者だったのかわからない。ただ、天使を目の敵にしていることだけはよくわかった。あいつが天使の話をした時の目は、殺意を感じたから。
「ただいま。」
「おかえりー。ご飯もうすぐできるからね。」
キッチンから聞こえるお母さんの声を素通りして2階へと昇り、自分の部屋のベッドに制服のまま体を預ける。趣味である読書物が棚にぎっしり詰まっている横には、彼女との思い出の写真が色とりどりの画びょうで刺さる、コルクボードがあった。
「……なるほど、僕はこの記憶を無くしたのか。」
立ち上がり、手に取った写真の1枚、そこにはモジと小さなケーキを囲んでいる様子が映し出されている。何か、記念できっと買ったケーキなのだろう。いつもの買い食いにしては豪華だ。胸にぽっかりと開いた穴。この穴で塞げたのは、葬式から彼女が死ぬまでの3日だけ。
「足りなかったのか、これだけじゃ。」
一度、思考を整理しよう。まず、僕はできる限り早くモジが誰に殺されたかを考えなければいけない。出なければ、より重たい彼女との思い出をあの性格の悪い天使に差し出さなければいけない。
「ん?待て。…あの天使、何度も巻き戻してくれるなんて言ってたか?」
血の気が引き、顔が青くなるのが良く分かった。もしやもう一度幼馴染の死を見せたいとかいう悪趣味の為だけに時間を巻き戻したのでは…。
「えぇ、戻しますよ。望みであれば。」
「…もう驚かないぞ。」
「それはショックですね。」
ちょこんと、先ほどまで僕が寝転がっていたベッドの上で正座している天使がいた。どうやってこの部屋に…またあの不可思議な魔法か。
「戻してくれるのか、また。」
「もちろんでございます。それが貴方様と私の契約ですから。」
「わかった。なら帰ってくれ。僕は考えたいことがいっぱいある。」
「あら…怒らないのですね。どうしてわざわざあの場面に巻き戻したのか。」
「そりゃ…渡した記憶が弱かったんだろ。」
何を差し出したかわからないが、最初だからとそこまで大切に思ってない記憶でも渡したんだろう。…悔しいがこれは僕の責任だ。
「ふふふ、そうですね。その通りです。」
「なら帰れ。もう良い。」
「貴方様がお望みとあれば。」
天使はまたわざとらしいお辞儀をして、消えていった。
従順なふりをしているが、とんだ悪魔だからな。アレに比べれば本物の悪魔は女神に近い。逆だろ、逆。
「ふぅ。さて、どうする。」
悪魔が言っていたように、病院と警察の中に裏切者がいるのは確か。だが、モジはそんな大きな存在に恨みを買うような人生を歩んでいるはずがない。むしろ誰でも身分年齢性別関係なく手助けするのが彼女の良い所だ。
「病院と警察に手を回せるくらい、権力のある人物…か。可能性があるなら。」
ただやはり、範囲を狭めてもモジを誰かが恨んでいるようには思えない。精々いえば…モジに告白して、玉砕していった男子たち?…それだと権力があるとは言えないか。
「はぁ…ダメだ。馬鹿な僕にはわからない。」
エンジンはとっくにかかっているのに、スペックが足りない。僕じゃモジを殺した犯人を、突き止められない…。
そんな自分が情けなくなって、ベッドの上で横になった。
すると気づかぬうちに心が疲れていたのか、すんと眠りに落ちてしまった。
・・・
しゃっ、しゃっ。と紙にペンを走らせている音がして僕は目を覚ました。
「ふわぁあ…。」
「起きたかサクマ。」
「悪魔…!何してるんだ。」
勢いよく起き上がると、かけなかったはずの毛布が1枚床に落ちていった。
「悪魔が?」
「あぁ、寒そうだったのでな。」
落ち着いてきた脳みそで時計を見ると、すでに深夜の2時だった。時間がわかったからか、都合の良いお腹はぐーと鳴る。夕飯、食べ損ねたな…。
「カップ麺で良ければ先ほど頂戴して来た。食うか?」
「悪魔、お前最高だな。」
渡されたカップ麺、お湯がない。
「蓋を開けろ、お湯を出してやる。」
「何から何まですいません…。」
悪魔は指先からお湯を注いでくれた。蓋を閉じ、3分待つ間。悪魔が書いていた何かに目が惹かれた。何か人物の名前に、様々な線と言葉が入り混じってる。
漫画でよく見たことがある。これは。
「相関図。」
「そうだ。どうにも幼馴染殺人事件の推理が捗っていないようだったからな。少し手伝おう。」
「どうしてそこまで…。」
「私はただ、天使を憎んでいるだけだ。」
理由は聞かなかった。超常的な存在同士の喧嘩理由なんて、理解できないと思ったからだ。
「しかしサクマ。どうしてそこまで、というならば私も聞きたい。犯人を見つける必要はないだろう?」
「なんだって?」
「やはり進めはしないが、天使に思い出を差し出し野山モジが死ぬ前に戻る。そして彼女を警察か信頼できる場所にでも匿えばいい。彼女の死ぬ、その日を乗り越えれば良いじゃないか。」
「ダメだ。その日は助かっても、犯人はまた殺しに来るだろ。」
確実に助けるためにも、事前に犯人を捕まえる、まではせずせめて殺人の動機と犯人が誰かくらいは知っておきたい。
「…本当に、犯人は野山モジを狙っているのか?」
「どういう意味だ。」
「これを見ろ。」
悪魔は僕にカップ麵用の箸を渡しつつ、相関図をくるりと回して見やすくしてくれた。そこには『野山モジ』『野山モジの父』『野山モジの母』、そして『第三者』と書かれていた。入り乱れる線上には家族だとか両親だとか、わかりきっている情報が書かれていた。
「…これがなんだ。」
「それはサクマの仕事だ。」
「はぁ?」
「食べないのか。麺が伸びるぞ。」
「く、食うよ…。」
腹が減っては頭も動かない。とにかく、空腹にほぼ作業的にカップ麺を流し込んだ。
「…。」
「…食べるか?」
「も、もらう。」
じっと食べている様子を見られては食べづらい。僕は少しわけてやった。
悪魔も食べるんだな、カップ麵。
「くふぅ…美味。」
「助かったよ。で、僕の仕事ってのは?」
「あくまでも私はヒントを差し出すだけだ。…あまり世界に干渉するのも良くない。お前の精神安定と背中を押すだけしかやってやれない。思考するのはサクマの仕事だ。」
「そうか。いや十分だよ。ありがとう。」
「また泣きたくなったら言え。」
「はは、それは恥ずかしいからもういい。」
と、言ったもののまた悪魔に包まれたい願望があるのは無視できない。これこそまさに悪魔の誘いだな…。
「さて、考えるか…。」
外は真っ暗、音もなく集中できた。
悪魔はさっき、『本当に、犯人は野山モジを狙っているのか』。そう言っていた。
その線で考えてみよう。犯人がモジを狙っていなかったとして。
じゃあ何のためにモジの家に来た?わざわざ自身の犯行を隠し、自殺と勘違いさせてまで。
明らかに衝動的な犯行じゃない。計画的犯行だ。
やることがプロに近いと言えるだろう。
プロに…。
「プロ…?」
最近、この言葉どこかで…。
『そういうのを調べてくれる場所に任せてみてね。…色々わかったよ。すごいね、プロというものは。』
「モジの、お父さん。」
「そういえば、浮気していたんだったか。母親。」
悪魔はシャーペンを手に取り、野山モジの母、父とで繋がっていた『夫妻』という文字をバツで上書きした。
モジが狙われたのではないとして、真に犯人が狙ったのは…
「……モジの、お母さん?」
浮気され、恨んでいたお父さんがプロに依頼した?殺し屋なんてものが実在するかはわからないが、もし存在するのだとしたら可能性はある。それにモジのお父さんは社長だ。規模は知らないが、権力がないわけではないだろう。病院と警察に手を回したのは殺し屋の方かもしれないが。
「…でも殺し屋はなんでモジを殺したのかってことになるだろ。」
「この家にいる女性を殺してほしい、とでも頼んだんじゃないか。勘違いするような言い方を。」
「まぁそれなら…。ただやっぱ情報が無さすぎるな。」
「ならば今日は寝ればいい。明日も学校なのだろう。…幼馴染の死を2度も、近い間に見てしまっては辛いだろうが。」
「…学校に行かなきゃ、情報も得られないしな。悪魔の言う通り、寝るよ。」
「そうしろ。もし寝れないのならば添い寝を…。」
「良いから!ったく悪魔か本当に。」
「悪魔だ。立派な角と尻尾があるだろう。用事が無ければ帰る。」
「待った。」
しゅっと半透明になって消えかかった悪魔に声をかけた。
「どうした。」
「いちいち悪魔と呼ぶのはなんだか…硬い気がする。名前ないの?」
「ふむ…。無い。」
「ないんだ…。」
「だがしかしもっともな意見だ。サクマが名付けてくれ。」
「じゃあ…ナツメ。」
「ナツメ?夏目漱石からか?」
「うん。僕は読書好きだから。」
ぱっと本棚で目についた名前を取ったという適当な理由だが、悪魔は嬉しそうだった。関われば関わるほど、悪魔らしさが薄れていく。
「ナツメ…はは。ナツメか。よいな。そう呼ぶが良い。」
「そうさせてもらう。じゃあおやすみ、ナツメ。」
「また会おう、サクマ。」
上機嫌なまま、ナツメは去っていった。僕一人じゃきっとモジが殺されることになった経緯にたどり着けなかっただろう。悪魔さまさまだ。言ってておかしいけど。
僕は部屋の電気を消して、寝転がった。
横になって、睡魔を待つ間。部屋は静寂に包まれ、時計の秒針だけが規則正しく時を刻んでいた。こういう時、人間という生き物は忘れていた思い出を無意識に暗闇から湧き上がらせてくる。
『このままにしちゃ、ダメですよ。』
あの日の公園での会話だ。
モジのお父さんに発破をかけたのは、僕。つまり。つまりだ。
「…モジを殺したのは。」