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灰色の街と青の約束

作者: イチジク

街はいつも灰色だった。空気も、建物の壁も、人の顔色までもが鉛のように鈍く光っている。晴れた日も、誰かが空色を忘れたみたいに、空は灰色を真似していた。

ミカは二十歳の手前で、薄いカーディガンを何枚も重ねているような人間だった。目立たない――というよりは、目に入らないことを選ぶ習性がある。学校の外れにある古いアパートの一室で、母親と二人で暮らしている。母は夜の清掃の仕事をしていて、帰りはいつも深い疲労の匂いを連れてきた。言葉は少なく、笑顔はさらに少なかった。だからミカは、家で笑う理由を知らないまま育った。


学校でも、ミカにとって居場所らしい居場所はなかった。成績は悪くないが突出もしない。友達は少しだけいたが、深い話をする相手はいなかった。放課後、ミカは図書館に足を運んだ。図書館は古く、紙の匂いと木製の机がまだ残る数少ない場所だった。そこにいると、灰色が少しだけ透明になる気がした。


ある雨の日、ミカはいつものように本棚の隙間を探していた。見つけたのは、ほんの小さな本だった。表紙は擦れていて、題名は『未来は変えられる』というひと言だけ。中を開くと、短い文章が丁寧に積み重なっていて、主人公がくじけながらも少しずつ自分を取り戻していく様子が綴られていた。


「みんな、どこかで折れてるんだよ」と、本の一節が言った。

ミカは笑ってしまった。自分が折れているなんて、今まで誰にも言ったことがなかったからだ。


図書館には司書の藤井さんがいた。年は四十代後半で、眼鏡の奥がいつも柔らかかった。藤井さんはミカが本を見つけると、ぽつりと笑って言った。「その本はね、よくここに流れてくるんだ。困ってる人の所へ戻るみたいに。」


ミカはその言葉を胸に入れて持ち帰った。本を枕元に置き、何度も同じページをなぞった。ページをめくるたびに、小さな勇気が指先に残るような気がした。


日常はすぐ元に戻る。授業、バイト、夜の帰り道。けれどミカの視界には変化が生まれ始めた。帰り道にいた小さな猫に気づいたり、バイト先の店長が作るコーヒーの温度を覚えたり、母の仕草の一つに昔の笑顔の欠片を見つけたり。大げさではない、でも確かな変化だった。


ある日、学校で嫌なことが起きた。クラスの中心人物、佐藤という男がミカのレポートをバカにしたのだ。冗談のつもりらしい言葉が、ミカの胸の奥を突いた。周りは笑った。ミカは一瞬、記憶のどこかで折れかけた自分を思い出した。


その夜、ミカは本を手に図書館へ向かった。藤井さんは閉館作業をしていたが、ミカを見ると椅子を引いた。「今日は何があった?」と藤井さん。


ミカは黙って本を開き、佐藤のこと、家での孤独、そして「自分には何もない」と感じる瞬間を話した。話すうちに言葉はどんどん細くなり、最後には泣きそうになっていた。藤井さんは黙って聞き、やがて静かに言った。


「君が信じることは、自分だけでいいんだよ。他人がどう評価するかは、本当に些末なことなんだ。自分がどう生きたいか、それを見つけることの方がずっと重要だ。」


その言葉は濃かった。ミカは図書館の蛍光灯の薄い光を見つめながら、初めて「自分がどう生きたいか」を考えた。そして、小さな誓いを立てる。「たとえ一歩だけでも、自分のために踏み出してみよう」と。


ミカの変化はすぐに劇的なものにはならなかった。小さな一日一日の積み重ねが変化をつくった。朝、もう一度ベッドを整える。誰かに「ありがとう」と言う。母の部屋を覗き、手伝えることを探す。バイト先で失敗しても、翌日に同じ失敗をしないためにメモを残す。失敗と学びが交互にやってきて、ミカは少しずつ自分に自信を持ち始める。


そんなある日、街で小さな噂が立った。「今年の秋祭り、予算がないから中止かもしれない」――街の人たちにとって、祭りは一年に一度だけ訪れる色のようなものだった。灰色の街で唯一、通りが一時的に明るくなる日だ。ミカは思わず胸が震えた。子どものころ、母が笑って提灯を買って帰った日のことを思い出した。あの日の空は、確かに少しだけ青かった。


ミカは藤井さんに提案した。「図書館で小さなイベントを開いて、寄付金を募れませんか? 子どもたちに読み聞かせをして、こういう場所で手伝えることがあるって知らせたいんです。」藤井さんは一瞬考え、にっこり笑った。「いいね。君のその気持ち、きっと街に伝わるよ。」


準備は不安だらけだった。ポスターを作り、近所を回り、古本を持ち寄ってもらうために戸別訪問もした。初めて通りの人と長く話し、恥ずかしさと緊張が入り混じった。だが、手伝ってくれる人も現れた。バイト先の同僚がチラシを配ってくれた。母の職場の人が古い飾りを寄付してくれた。小さなつながりが少しずつ広がっていった。


当日の図書館は賑やかだった。子どもたちの笑い声、折り紙を折る手、古本をめくる柔らかな音。寄付は予想以上に集まり、街の小さな広場の改装費の一部をまかなえるほどになった。ミカは舞台の端で子どもたちの顔を見ていた。あの頃の自分が見ていた空より、確かに色がある。胸がじんと熱くなった。


祭りの前夜、ミカは母とベランダに座っていた。母の手は仕事の熱で少し荒れている。ミカは無意識にその手をとった。母は驚いた顔をして、すぐにぎゅっとミカを抱きしめた。久しぶりの温度が、二人の間に流れた。


「ありがとう」と母が呟いた。「あんた、こんなにがんばってたのね。」

ミカは照れくさく笑った。「もう、いつものことだよ。図書館の藤井さんが……」と言いかけて、言葉を飲み込んだ。伝えたいことは山ほどあるが、言葉にすると薄くなる気がした。


祭りの朝、街は少しだけ明るかった。提灯の赤、金色の紙吹雪、子どもたちの元気な踊り。ミカは広場の端で提灯の紐を持ちながら、空を見上げた。青が、ほんの少しだけ混じっている。胸が震えた。あの日、本の中で見た「未来」という言葉が、遠くないと感じた。


祭りが終わり、夜になって人々は笑顔で帰っていった。ミカは図書館に戻り、本棚の前に立った。『未来は変えられる』を手に取る。ページの角が少し擦り切れている。本は静かに語りかけるように見えた。


ミカは言葉を紡いだ。「未来は変えられる。けど、それを変えるのは特別な力じゃなくて、毎日のちょっとした行動なんだね。」自分の声が、思ったよりも穏やかだった。


その夜、郵便受けに一通の手紙が入った。差出人は藤井さんだった。中には短いメモが入っている。


「君が図書館で見つけた本、あれは昔、私が誰かから受け取った本なんだ。渡すべき人に渡るとまた戻ってくる。君が今、次の誰かに渡してくれるなら、それでいい。— 藤井」


ミカは微笑んだ。ひとりの人間が別の誰かに小さな光を渡していく。繋がっていく手の温度を、彼は初めて実感した。灰色の街はまだ灰色だが、その灰の下には青い気配が確実にある。空は全色を一度に取り戻すわけではない。けれど、少しずつ、確実に変わっていく。


ミカは本にしおりを挟み、図書館の一角に置いた。誰かが見つけるだろう。その誰かがまた、小さな一歩を踏み出すだろう。ミカはもう以前のように「ここにいてもいいのか」と自問することはなかった。彼は知っている。生きることは、じわじわと続けることだと。痛みを抱えながら、それでも一日を選んでいくことだと。


祭りから数ヶ月後、ミカは小さなカフェで働き始めた。客の名前を覚えること、コーヒーの温度を体で覚えること、母の笑顔を見ること。それらは特別な偉業ではない。だが、どれも彼の世界を少しずつ彩る色になった。


いつか空が全部青になるかはわからない。けれど、ミカはもう青さを待つだけの人間ではない。自分で、小さな空をつくっていく。灰色を敬遠せず、その中で光を探すことを覚えた。


本の最後の一行を、ミカは胸の中で繰り返した。

「未来は変えられる。変えるのは、たった一人の小さな決意と、それを続ける勇気だ。」


ミカは目を閉じ、静かにうなずいた。明日も、また歩き出そう。たとえ一歩でも、それは確かな前進だ。


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― 新着の感想 ―
芯の強いミカさんが、毎日積み重ねた動きで未来が変わっていく、それは少しずつなので未来への廻り方がページを捲る動きに感じました 
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