第9話 誓いの手が、刃に変わるとき
橋の夜から数日が経った。
高橋潤は、何も言わなかった。
あの縄のことも、俺がいたことも、誰にも話していない。
だから、村の空気は変わらなかった。
子供の笑い声、老人の昔話、花の編み方を教える若い娘。
その中心に、相変わらずあいつがいた。
──あの夜、あいつは俺を赦した。
その“やさしさ”が、俺を最も深く傷つけた。
◆
計画は簡単だった。
高橋を小屋に呼ぶ。
酒を出す。
酔いが回ったら、刃を突き立てる。
心臓を狙えば一撃。
返り血を避けるため、座る位置も変えておく。
あとは翌朝、眠るように亡くなっていたと言えばいい。
誰も俺を疑わない。
むしろ、悲しむ者として扱われる。
──完璧だ。
◆
夜。
高橋は、いつもと変わらぬ笑顔で小屋に現れた。
「久しぶりに、ふたりで話そうよ」
まるで、最後の夜だと知っているかのようだった。
俺は、準備していた杯を差し出した。
果実酒と、干した肉と、少しのパン。
高橋は嬉しそうに受け取り、ゆっくり飲み干していく。
時折、くだらない話を挟んでくる。
日本のドラマの話。
好きだった給食のメニュー。
田んぼに落ちたときの笑い話。
──全部、過去の話だ。
未来の話は、ひとつもない。
それが、妙に不吉だった。
◆
やがて、高橋が静かに言った。
「佐藤くん。ありがとう。ほんとうに、ありがとう」
そう言って、目を伏せた。
それが合図のように思えた。
俺は立ち上がり、刃に手をかけた。
──そして、そのとき。
その手を、別の手がそっと包んだ。
高橋の手だった。
酔っているはずの目が、まっすぐ俺を見ていた。
「……君なら、きっとやると思ってた」
笑っていた。
泣きそうな、優しい笑顔だった。
「信じてたんだ。どこまで君が“君のまま”でいられるか」
その瞬間、俺の中で何かが音を立てて砕けた。
あいつは──
最初からすべて、知っていた。
俺の孤独も、劣等感も、殺意も。
全部。
……それでも、笑っている。
だったら。
やっぱり。
殺すしかない。
今度こそ、確実に。