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パラダイムシフト

 

 フロア型の比較的大きなスピーカーだった。下部に音叉マークとYAMAHAのロゴが見えた。


「こいつとは40年以上の付き合いになります」


 初めて手にしたボーナスで買ったのだという。


「13万円位だったかな? 初任給が9万円弱だったので買うのに結構、勇気がいったんですよ。清水(きよみず)の舞台から飛び降りるような気持ちでした」


 と言われても、40年前の13万円というのがピンと来なかったので、「今に直すといくらくらいですか」と訊くと、暫し考えるような表情を浮かべたあと、「そうですね~、初任給が2.5倍ほどになっているので、33万円くらいでしょうか」と当時を懐かしむように目を細めた。


「でも、40年って凄いですよね。壊れたりしなかったのですか?」


 すると彼はニヤッと笑った。まるでその質問を待っていたかのように。


「クラフトマンシップでしっかり作られているので基本的には大丈夫でしたが、一度、大変なアクシデントが起こりました」


 そこでいきなりサランネットを外した。

 スピーカーを保護している網目状のカバーが取り除かれると、異様な光景が目に飛び込んできた。低音域を再生するウーファーにガムテープが貼ってあるのだ。それも円を描くように何枚も。


「離婚して落ち込んでいる時に一日中音楽を聴きまくっていたのですが、突然、変な音が聞こえ始めたのです。ビリビリというような雑音でした。なんだろうと思ってネットを外すと、ゴムが劣化しているのが目に入りました。よく見ると、一部は破れていて、そこが共振してビリビリという音を発していたのです。それでも聴き続けているとどんどん酷くなっていったので、思い切ってゴムを全部剥ぎ取りました。すると、低音がまったく出なくなりました。唖然としました。離婚直後でお金がまったくなかったので買い換えることもできず、泣きそうになりました。その時、棚の上にあったガムテープが目に入りました。離婚した妻が自分の荷物を段ボールに詰めた時に使ったガムテープです。それを見た途端、何故か閃きました。スピーカー本体とウーファーをガムテープで繋いで固定すればいいのではないかと。善は急げで適当な間隔を空けてガムテープを貼っていきました。すると、音が戻ったのです。ビリビリ音が消えて元の音に戻りました。嬉しくて思わずガッツポーズをしていました」


 それだけでも最高なのに、その上、年を追うごとに音が良くなってきたのだという。


「信じられないかもしれませんが、本当なんです。この前オーディオ専門店で外国製の高級スピーカーから出る音を聴いてきたのですが、それらにも引けを取らない音が出ているように思います」


「確かに素晴らしい音だと思いますが、それがガムテープと何か関係あるのでしょうか」


「そうですね~、素人なのでなんとも言えませんが、木材が乾燥してきたことに関係があるのではないかと思っています」


 密閉していたウーファーのゴムが取り除かれて空間ができ、それによってスピーカーの大部分を占める木材の乾燥スピードが上がったことが影響していると考えているという。


「本当のことはわかりませんが、穴が空いて木材が内部から乾燥したことと、穴が空いてバスレフのようになったことの二つが好影響を及ぼしていると勝手に考えているんですよ」


 それからネットを戻して、わたしの対面に座った。


「ピンチはチャンスという言葉がありますが、このスピーカーによって正にその経験をさせてもらいました。離婚、金欠という大ピンチの中、ウーファーを支えるゴムの劣化という信じられないことが重なり、これ以上はないというほど落ち込みました。でも、どういう訳かガムテープの貼付という奇策が思い浮かび、それが音質の向上に繋がりました。それは、追い込まれた時に諦めなかったからだと思います。なんとしてでも解決したいと心底から望んだからだと思います。ピンチに屈しなかったからだと思います」


 正にその通りだと思った。逆境の中にこそ絶好の機会が潜んでいるのだ。


「話はちょっと飛躍するかもしれませんが、人生においても同じなのです。その大小にかかわらず常になんらかのピンチが襲ってきます。その時、多くの人は恐怖に(おのの)いたり、委縮したり、閉じこもったり、通り過ぎるのをただ待っていたりします。しかし、それは本当にもったいないことだと思います。ピンチは自己を変革するまたとない機会なのです。正にチャンスなのです。だから、それを活かせるかどうかによって、その後の人生が変わってくると言っても過言ではありません」


 そして、眼力の増した視線がわたしを真っすぐに捉え、核心へと切り込んでいった。


「目前の大ピンチと言えば、新型コロナウイルスの脅威があります。多くの国が、企業が、人が、苦しんでいます。亡くなった人のことを考えると、本当に心が痛みます。かける言葉もありません。しかし、嘆き悲しんでいるだけでは未来は開けません。私たちはどうしてもワクチンや治療薬の開発に目が行きがちですが、それは対症療法であって原因療法ではありません。原因は、この危機を生み出した社会構造なのです。人類の傲慢(ごうまん)なのです。それを変えない限り、この恐怖は何度も再燃するでしょう。今回の新型コロナウイルスを打ち破っても、更に進化した新手(あらて)のウイルスが出現してきます。そしてまた右往左往するのです」


「この新型コロナウイルスは人類への警告だということですね」


「そうです。病気という側面だけを見ていては本質を理解できません。人類の傲慢への警告だと気づかなければいけないのです」


「それは地球の支配者然とした振る舞いへの警告ということでしょうか」


「その通りです。我が物顔で環境や生態系を破壊し続ける人類への警告なのです。終末時計を進めることばかりをしている人類への警告なのです」


 終末時計か……、


 人類滅亡までの時間が残り100秒になったというニュースを見た時のことを思い出した。昨年より20秒も進んでしまったらしい。30年前には17分もあったのに今は2分を切っていると男性アナウンサーが嘆くような口調で伝えていたのが印象的だった。

 そして、その番組の中で〈人類は間違いなく破滅に向かっている〉と断言した学者の声と共に〈取り返しのつかないことになる前に行動を変えなければならない〉と力説した彼の表情が瞼の裏に蘇ってきた。


「ペストの時は4,000万人が死んだと言われています。原因はネズミに寄生したノミであることがわかっていますが、それは商業活動や交通網の発達という背景から起こったものでした。人間や物の移動と共にネズミとノミが移動してきたのです。これは、その後の天然痘やインフルエンザ、梅毒などの流行も同じでした。経済の拡大によってもたらされたのです。その上、病気による被害以外の悲劇をもたらしました。元凶探しによるユダヤ人の迫害などがその典型です。人心は荒廃し、疑念は拡大し、暴力的な行為が頻発したのです。しかし、そんな中でも次への希望も芽生えました。封建社会が崩壊し、農奴は解放され、社会は近代化へと向かったのです。同時に、ルネサンスの勃興(ぼっこう)もありました。新たな芸術様式が生まれたのです」


「つまり、パンデミックが社会を変える、ということですね」


「そうです。間違いなくパラダイムシフトが起こります。旧来の社会構造は破壊されて新たな秩序が生まれるのです」


 わたしは歴史の大きな波に揺さぶられる日本と世界を思い浮かべたが、その時、「ちょっと一息入れませんか?」と奥さんの柔らかい声が耳に届いた。

 手に持つトレイにはシャンパンクーラーとシャンパングラスがあった。



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