アルザスと『ハウルの動く城』
「この辺りは戦争の度にドイツになったりフランスになったり大変だったのよ」
紀元前1500年頃からフランスの古名であるガリアが支配していたが、ローマ帝国やフランク王国の支配下に置かれたあと、14世紀に神聖ローマ帝国〈ドイツ〉の領土になった。
その後、17世紀にプロテスタントとカトリックの対立をもとに勃発した30年戦争を経てフランスの領土に戻るが、ドイツ統一を目指すプロイセンとそれを阻もうとするフランスが戦った普仏戦争でフランスが破れると、またドイツの領土となる。
その後、第一次世界大戦で勝利した連合国軍側のフランスはヴェルサイユ条約により取り戻すことになるが、第二次世界大戦中は再度ドイツのものとなる。
しかし、ドイツの敗戦によってまたフランスに戻ることになり、今の形になった。
そんな数奇な変遷を聞いて、この地方の人たちが途方に暮れた様が思い浮かんできた。フランス語→ドイツ語→フランス語→ドイツ語ということを何度も繰り返してきたのだ。両大国に弄ばれたアルザス人の苦労はいかばかりかと思うとやりきれないような気持ちになった。彼らの悲鳴が聞こえてきたような気がした。
「この辺りでは石炭と鉄鉱石が豊富に産出されていたから奪い合いになったのよ」
理由を聞いて納得した。戦略物資を巡って争いが起きるのは、いつの時代も同じなのだ。
「でも、これからはずっとフランス領のままだと思うけどね」
それを聞いてなんだかホッとした。
と同時に、そんな経験をしていない日本の幸運を有難いと思った。朝鮮になったり、中国になったり、日本に戻ったりしたら、今とはまったく別の国になっていたはずだからだ。
天皇制が途切れていたかもしれないし、日本語も廃れていたかもしれない。貴重な日本建築や美術品も失われていただろう。島国で良かったと心から思った。
それで肩の力が抜けたのか思わず息を漏らしてしまうと、「歴史はこのくらいにしてワインを楽しみましょう」と教授がグラスを掲げた。
それからしばらくの間、『アルザスワイン街道』に掲載されたワイン畑やワイナリーの美しい写真を肴に飲み続けたが、ボトルが空になると、「リースリング以外にも美味しいのがあるのよ」と言ってまたキッチンに向かい、別のボトルと新たなグラスを2つ持って戻ってきた。
「これはゲヴェルツトラミネールというアルザス固有の品種で、豊かな味わいを感じられるの。ボディがしっかりしているからフォアグラや癖の強いチーズに合うのよ」
それを聞いてドキッとした。まさか青カビチーズが出てくるのではないかと身構えてしまった。
でも、それは取り越し苦労だったようで、ツマミは何も出てこなかった。アルザスの白ワインだけをじっくりと味わうのが教授の趣向のようだった。
一口飲んではまった。教授の言うように味わいが豊かで、その上、ふわっと薔薇のような香りが立ち上がったような気がしたし、酸味が少なくて飲みやすかった。そのせいか、素晴らしいワインを生み出すその地域に俄然、興味が湧いてきた。
「アルザスには行かれたことがあるのですか?」
すると、その質問を待ってましたというように教授に笑みが広がった。
「コルマールもリクヴィルもストラスブールも全部行ったわよ」
特にコルマールの愛らしさには魅了されたという。
「ラ・プティット・ヴニーズ(小ベニスと呼ばれているエリア)の川沿いの家々には花が飾られていて、一瞬メルヘンの国に迷い込んだのかと思ったわ」
教授の顔は幸せ満開といった感じになり、テロワール(ブドウ樹の生育環境)に関する蘊蓄を期待したわたしを置き去りにして、まったく違う方向へ進み始めた。
「それにね、旧市街には日本のアニメに出てくる建物があってびっくりしたわ」
それは『プフィスタの家』と呼ばれる建物で、スタジオジブリ制作の人気アニメ『ハウルの動く城』の冒頭に登場する建物とそっくりなのだという。
「ジブリファンとしてはたまらない一瞬だったわ」
少女のような瞳になったと思ったら、ジブリ愛が一気に噴き出した。
「風の谷のナウシカ、天空の城ラピュタ、となりのトトロ、魔女の宅急便、千と千尋の神隠し、ハウルの動く城、崖の上のポニョ、どれも最高よね」
完全にその世界の中にはまり込んでいたので「宮崎駿さんのファンなんですね」と訊くと、「ううん、ファンなんてものじゃないわ。宮崎駿・命と言ってもいいくらいよ」とさっきまでの夢見る瞳が現実的な瞳に変わった。
「あの人にしか作れない独特の世界に一度触れたらもう二度と抜け出せなくなるの」
比類なき才能に魅せられ続けているのだという。
「異質の存在ね」
その瞬間、教授の顔に変わった。
「誰にも真似できない、誰も追いつけない、唯一無二の存在が宮崎監督なのよ」
だからこそ、子供用の娯楽映画と見られていたものを芸術の領域にまで押し上げられたのだという。
「アカデミー賞を始め、ベルリン国際映画祭、ヴェネツィア国際映画祭などで最高の評価を受けたのも当然だと思うわ」
さもありなんというような表情になった。
「変人、奇人と呼ばれることもあるようだけど、だからこそ普通の人とは違う見方ができ、取り組みができ、表現することができたのよ」
サラリーマンアニメーターが千段の梯子を上っても姿を捉えることさえできない、そんな存在であると断言した。
「変わってなきゃいけないのよ。変であるべきなのよ」
それは教授の持論だった。耳にタコができるほど聞かされている言葉だったし、異論などあるはずはないので、この機を逃すまいと一気にソニー創業者へと繋げた。