46.薄紅色の誓い(1)
夜の帳がまだ世界を包んでいるが、東の空はわずかに群青色を帯び始めている。陰から陽へ転じる、その瞬間が、もっとも生命力が強まるのだそうだ。
今まで、自分が夜明けの時間帯に結びの力を使ってきたことにも、実は意味のあることだったのだ。
「真桜様……、ご無理なさいませんよう」
水琴がそっと声をかけてくる。その隣にはしろ、くろ、まるたちが身を寄せ合い、小さな体で真桜をじっと見つめているかのようだった。
その後ろには御三家の者たちが立ち会っている。くろがねや紫苑の姿もあった。人と妖が共にある光景――きっと暁翔も望んでいた世界だろう。
――絶対に、暁翔様にも見ていただきたい。
真桜は目を閉じて深く息を吸い込むと、周囲の静けさを深く感じ取りながら、ゆっくりと開いた。
そこから杖を高く掲げ、両手を広げて天に向かって誘うように伸ばす。その瞬間、彼女の背筋が伸び、何かに引き寄せられるかのように杖で力強く空間を切り裂いた。射干玉の髪がひときわ揺れ、藤色の着物が風を受けてふわりと舞う。
「みんなの想いと、私の想いを感じてくださいますか?」
その声は、静寂の中で囁くように響いた。
真桜の手がさらに杖を優雅に振ると、瞬時に深紅の糸が空中に舞い上がる。杖の先から放たれるそれは、まるで絹のようにしなやかで、広がりながら風の中に溶けていった。
一歩踏み出すたびに、彼女の衣装がひらりと揺れ、袖の先が光の波に乗って風に舞う。杖を前に掲げ、真桜は次々と足を踏み出しながら、舞い踊るように周囲を巡った。
彼女の動きが一つ一つ、結びの力を呼び起こす。動きが連鎖的に糸を生み、網目模様が広がるように、空間に結界が生まれ始める。
それは、真桜が振り上げる杖の動きと連動して、深紅の光を放ちながら広がっていく。光の中で、真桜の姿はまるで神聖な舞を舞う巫女のように輝いていた。
――いつも以上の力が紡げる。油断すると力に引っ張られそう。
真桜は額に汗を滲ませながら、きゅっと眉をひそめ、懸命に杖を操った。
紡がれる糸は、柔らかく、そして確かな力を持って空気に絡みつき、祠へと引き寄せられていく。絡み合い、幾重にも綴られ、強固な結界を作り出していく。
真桜は軽やかに舞いながら、地面を踏む度に、その力を確実に大地に込めていった。
「いま、あなたを助けます——暁翔様!」
杖を祠に突き立てると、その瞬間、周囲の空気が一変し、地面が震えるように揺れた。
すると祠が音を立てて崩れ始め、破壊の波が真桜の足元を駆け抜けていく。その時、彼女は一瞬動きを止め、清廉な瞳をしっかりと見開いた。
祠の破片は空中に舞い、霊力と妖力が交じり合い、ひとつの大きな力となって消え去った。光が収束し、静かな空気の中で、彼女は杖を胸の前で抱え、足元に膝をつきながら肩で息をつく。
崩れ落ちた祠の奥、黒く渦巻く霊気がゆっくりと晴れていった。
真桜はその影を見上げる。
そこに——彼がいた。
薄闇の中から、ゆっくりと姿を現したのは、長く待ち望んだ人。白銀の髪が揺れ、青灰色の瞳が光を反射して静かに瞬いた。
けれど、彼の身体にはまだ禍々しい穢れがまとわりつき、淡く黒い靄となって揺らめいている。
「……暁翔様!」
思わずその名を呼ぶと、喉の奥が震えた。
強く求めた姿が、今この目の前にある。夢や幻ではない。確かにここに——彼は帰ってきたのだ。
真桜の目が滲む。頬を伝う涙の温かさを感じながら、それでも彼から目を逸らせなかった。胸が高鳴り、何かが溢れそうになるのを懸命に抑える。
暁翔は微かに目を見開いたまま、こちらをじっと見つめていた。それは、信じられないものを目の前にしたような瞳だった。
「……なぜ」
低く、掠れた声が風に流れる。
かつては長い間封じられ、孤独の中で過ごした彼にとって、この瞬間はあまりにも突然すぎたのだろう。
何百年もの時を費やして浄化されるはずだったものが、こんなにも早く、しかも目の前には真桜がいる。そのことに戸惑っているような様子だった。
「縁結びです、暁翔様」
真桜は涙を拭わず、微笑む。
その言葉に、暁翔の瞳が揺れる。だが彼はすぐには動かなかった。纏わりつく穢れが、まるで彼を縛る鎖のように、暁翔をその場に立ちすくませている。
穢れた手で真桜に触れるのを躊躇うかのように、彼の指先が震えた。
それでも、真桜は変わらずに彼をまっすぐに見つめていた。まるで、どれほど穢れていても、決して目を逸らさないと誓うように。
「……暁翔様」
真桜は、そっと一歩を踏み出した。揺れる袖が風を切り、柔らかな布が光を帯びながら舞う。
「もう一度——ことほぎの儀を結んでいただけますか? 今度は契約などではなく」
それは、過去に交わした誓い。一度は解けてしまった赤い糸。
もう迷わないと決めた今なら、完全に彼の穢れを浄化できると確信めいた思いが胸にあった。
「真桜……」
暁翔がそっと掌を差し出す。
真桜は迷うことなく手を伸ばし、彼の掌に自分の手を重ねた。
「——我が命、我が力、全てを汝に捧げん。此の縁を結ぶこと、我が意志の全てなり」
暁翔の声が、静かに、しかし力強く響く。
その瞬間、真桜の胸が熱を帯びる。彼の言葉が、まるで霊脈のように自分の内を巡り、魂の奥底にまで染み渡る感覚。それは、かつて感じたものとは比べ物にならないほど、鮮烈で、深いものだった。




