44.紡いできた縁(2)
「紫苑さん……?」
真桜は首を傾げた。
「こんにちは。お外へ出ても大丈夫なのですか? あ……実は尚隆様との婚約が正式に決まったのでお礼を言いたくて、東雲様のお屋敷へ伺ったのですが、その時にご事情を教えていただきまして……」
紫苑は眉根を下げ、唇を軽く噛む。
「お食事もほとんど召し上がれないとお聞きしました。少しでも力になりたいと思って、心を込めて差し入れを作ってきたんです」
紫苑は包みを軽く持ち上げて、微笑んだ。
「……心配をかけてごめんなさい」
そう言って頭を下げた真桜のお腹が、途端に空腹を告げる。
「お散歩をしたのが、ちょうどよかったのかもしれませんね。一度家の方へ戻りましょうか」
水琴の提案に、顔を赤くした真桜は小さく頷いた。
長屋に戻ると、母が器を用意してくれ、卓袱台の上には紫苑の手作りの料理が並べられる。
鮮やかな菜の花のおひたしや、柔らかく煮込まれた大根の煮物、山菜の炊き込みご飯を握ったもの――どれも胃に負担がかからないよう配慮されていた。
「いただきます……」
煮物を一口運ぶと、じんわりと出汁の優しい味が口に広がる。次に菜の花のお浸しを口に入れると、甘みが心に染み渡った。
母が作ってくれた味噌汁とともに、それらを味わうと、胸が温かくなり、涙が溢れてくる。
「おいしい……」
真桜は、ぽろぽろと泣きながら食事を続けた。
あの日からほとんど何も喉を通らなかったのに、一度そう感じると箸が止まらない。生きなければと思った。暁翔のためにも、いつまでも塞いでいられない。
「ふふ、よかったです」
にっこりと笑みを浮かべ、紫苑は隣の水琴と頷き合う。
「紫苑さんの温かさが、全部伝わってくる……。みんなも、お母さんも、本当にありがとう……」
器を大事に抱えながら泣き笑いの顔になると、胸の中に溜まっていた重い霧が少しだけ晴れたような気がした。
ふわふわの毛玉たちが宙を跳ねるように飛び回る。
「いくら泣いてもいいわ。たくさん泣いて、少しずつでいいから、また食べて、歩いていきましょう」
母が穏やかに微笑み、真桜の肩に優しく手を置く。
その優しさに、真桜の喉がつまり、また涙が零れた。震える手で箸を握り直し、もう一口煮物を口に運ぶ。
――暁翔様。あなたのおかげで私の周りはこんなにも温かい世界になりました。
けれど、暁翔はまた一人ぼっちになってしまった。
――一日でも早く体力を取り戻して、暁翔様の穢れを浄化し続けないと。
今ならわかる。『結びの力』は、祠を封印するものではなかった。本来あれは穢れから暁翔を守り、時間をかけて浄化していくための結界を張る儀式。ならば真桜にできることは、一生をかけて彼を守ることだ。生きている間にそれが叶わなくとも、いつか、誰かが、彼を救う日が来ることを信じて。
真桜が水琴たちと食事をしていると、玄関の方で声が聞こえた。
「ごめんください」
その声に雪乃はすぐに立ち上がり、戸を開ける。
狭い長屋の部屋なので、真桜達からも玄関がよく見えた。そこに立っていたのは八坂と綾斗だった。
「ようこそいらっしゃいました」
柔らかい声で迎え入れる雪乃に、八坂は軽く頭を下げた。その動作にどこか照れた様子が見える。
「何度もお邪魔して申し訳ありません」
「いいえ、そんな……どうぞ、お入りください」
雪乃は二人を招き入れた時、ふと八坂と目を合わせた。短い間、互いに言葉を交わさないまま視線だけが絡む。けれどすぐに彼女は目を逸らして二人を仲に案内した。
「八坂様と東雲様が、いらっしゃいましたよ」
雪乃が一歩下がると、八坂と綾斗が部屋の中に足を踏み入れた。
「失礼します。おや、少し顔色がよくなりましたね」
八坂が静かに挨拶する。
「こんにちは。おかげさまで」
真桜は頭を下げた。
「紫苑殿は今日来ていたのか。水琴殿も久しぶりだ、妖は自由にこちらに来られるのだね」
綾斗はそう言って、雪乃が用意してくれた座布団に座る。
「二人とも妖の気配を感じますね。綾斗くんは彼らの知り合いなのですか?」
隣に座った八坂はそう尋ねた。
「以前、幽世で。あそこは素晴らしい所だった」
「恐れ入ります」
水琴が楚々と笑みを浮かべる。
綾斗がそこでの出来事を話すと、八坂は眼鏡の奥で目を輝かせた。
「幽世へ……遥か昔、先祖が伝えてきたのは本当のことだったのですね。暁翔殿がいなければ我々が行くことが叶いませんか?」
八坂は水琴に尋ねる。
「いいえ。妖と一緒ならば人間もあちらへ渡ることは可能です」
水琴はにこりと微笑んで答えた。
「そうですか……一度行ってみたいものです」
「八坂様は相変わらず研究熱心ですね」
雪乃が柔らかく微笑みながら、淹れたばかりの茶を出す。
「二人は知り合いなのか?」
不思議そうに瞬きをした綾斗の問いに、雪乃と八坂がハッとしたように手を止めた。
真桜は彼らが過去に複雑な関係だったことを八坂本人から聞いているが、多くの人は知らないことだろう。
「あ、あの、これ、紫苑さんが作ってきてくれたんです。よかったらご一緒にいただきませんか?」
なんとなく二人が困っているような雰囲気を察した真桜は、慌てて紫苑の料理を差し出す。
「ん? ああ、真桜殿が元気そうなのは、紫苑殿の料理を口にしたからか」
綾斗は特に気にするふうでもなく真桜の方を向き、口元に笑みを浮かべる。
「どういうことですか?」
小さく咳払いをした八坂が、柔らかい笑みを浮かべて質問した。
「紫苑殿の料理には妖力が込められているらしい。食べる者が笑顔になるようにと想いを込めた料理は絶品で、外交の場でも評判だったのだよ」
綾斗が答えると、八坂が腕を組んで、じっと卓袱台を見つめる。
「幽世……妖力……」
ぶつぶつと口の中で呟いていた八坂が、ゆっくりと顔をあげた。
「もしかすると……長い時代を待たずとも暁翔殿を救える方法があるかもしれません」
八坂の言葉に、全員が目を瞠った。
「本当ですか⁉」
真桜は畳の上に手をつき、八坂に詰め寄る。
「思いついたばかりの仮説です」
驚いた八坂が、真桜を宥めるように穏やかな声で答えた。
「そ、それでも……かまいません。教えてください!」
真桜は眉を寄せ、懇願するように八坂を見つめる。
「あなたや暁翔殿が紡いできた縁は無駄ではなかった――ということです」
彼はそう言って目を細め、全員の顔をゆっくりと見回した。




