34.芽吹き(2)
「ある日、仕事終わりに尚隆様が待っていてくださっていて……私の手を取って、『君に話したいことがある』って」
紫苑の顔が少し赤らむ。
「それが……初めてのデエトでした。定食屋の近くの道を一緒に歩いただけですけれど……尚隆様は、ずっと私のことを気にかけてくださっていて、『紫苑より素敵な女性には会ったことがない。自分と付き合ってほしい』と。そんなことを言われるなんて思っていなくて、嬉しくて……泣いてしまったんです」
真桜は、彼女の話にじっと耳を傾けながら、自分まで頬が熱くなるのを感じた。
「その時から、私たちは特別な関係になりました。ずっと妖であることを隠していましたが、彼を裏切っているようで苦しくて、ある日勇気を出して打ち明けました」
紫苑の瞳には、当時の不安と決意が浮かんでいるようだ。
「でも、尚隆様は怒るどころか、『だから何だっていうんだ』と笑ってくださいました。それが、私にとってどれほど救いだったか……」
紫苑の声は少し震えているが、その表情には感謝と深い愛情が滲んでいた。
「彼は言いました。『君がどんな姿でも、君は君だ。僕が好きなのは紫苑自身なんだから』と……」
紫苑は、どこか遠くを懐かしむように微笑む。
「でも、彼のお父様には一緒になることを反対されてしまいました。『身分も家柄もわからない女を息子に添わせるわけにはいかない』と……」
その言葉を思い出しているのか、彼女の声は震え、小さく俯いた。
真桜はじっと耳を傾けながら、彼女が続けるのを待つ。
「私は……このまま身を引くべきなのだと思いました。彼のために。尚隆様には、もっとふさわしい方がいるはずですから……」
紫苑の手がきゅっと力強く握られた。
「でも、尚隆様は……信じてほしいとおっしゃいました。『どんなに反対されても、僕は君と一緒に生きたい』と。そんな言葉をいただけるなんて思ってもみなくて……だから……」
紫苑は大きく息を吸い込み、俯いていた顔を上げた。その瞳は涙に濡れながらも、揺るぎない意志を宿している。
「私は彼を信じて、ついていくと決めました。彼の人生を台無しにしてしまうかもしれない、それが怖くないと言えば嘘になりますが……それでも、尚隆様のそばにいる未来を手放したくはありません」
真桜はその言葉に心を打たれた。紫苑のまっすぐな想いが痛いほど伝わってくる。その姿は、不安と葛藤を抱えながらも愛する人を信じる、健気で美しい姿そのものだった。
「紫苑さん……」
「申し訳ありません、こんなに長々と話してしまって……」
紫苑は涙を拭いながらぺこぺこと頭を下げる。
「いえ……紫苑さんがどれほどお相手のことを想っているのか、よくわかりました」
きっと、この二人が結ばれるのは難しいことなのだろうと真桜は思う。
人と人でさえも、立場の違いからその手を離さなければならない時もあるのだ。どれだけ想っていても、こじれて絡まった糸はすんなりとは結ばれない。何とかしようともがいた挙句に切れてしまうこともある。
妖と人ならば、なおさらだ。もしかしたら、神と人もまた――。
(二人を助けることができれば……)
真桜は紫苑の決意を聞きながら、自分の胸に手を当てた。
「あなたの勇気、とても素敵だと思います。きっと尚隆様も、その気持ちに応えるために強くあろうとしているのでしょうね」
真桜はそっと彼女の手に手を重ね、温かく微笑んだ。紫苑は少し驚いたように真桜を見つめ、次第に安堵の色を浮かべる。
「ありがとうございます。私……助けてもらった恩もありますが、それ以上に尚隆様のことが大好きなんです。この心を捧げられるのはあの方しかおられないんです」
そう話す紫苑に、真桜は心を重ねるように頷いた。
彼女の姿に、自分が持っている曖昧な気持ちが、次第に形をなしていく。
迷いながらも前に進もうという決意、自分のすべてを懸けてでも相手を信じ抜くという強い覚悟。その純粋な想いを目の当たりにして、真桜の心に雫が一つ落ちたかのように澄み切った音が響いた。
暁翔の姿が脳裏に浮かぶ。穏やかに見守ってくれる瞳、抱きしめてくれる力強い腕、真桜を励ましてくれる優しい声色。
ああ、と彼女は嘆息する。
彼の隣にいるだけで心が満たされ、彼の声を聞くだけで心が救われた。暁翔の存在は自分にとって、あまりにも大きく、尊く、かけがえのないものになっている。
――私、暁翔様のことを心からお慕いしている。
どれほど遠い存在であっても、どれほど不釣り合いであったとしても、この想いは変わらない。だからこそ不安にもなるし、諦めたくないとも思う。
胸の中で芽吹いた鮮やかな想いは、凛とした花を咲かせ、心を明るく照らした。




