29.降り注ぐ月光(暁翔視点)
深夜、暁翔は穏やかな寝息を立てている真桜を起こさないようにそっと布団を抜け出し、静まり返った板の間に出た。そこには、窓越しに冷たい銀の光を放つ月が浮かんでいる。
天上から降り注ぐその光は清冽で、心に深い波紋を広げた。彼は静かに腰を下ろし、じっと月を見つめる。長い時を生きる神にとって、月の満ち欠けなど一度の瞬きにも等しい。それでも、その永遠の儚さには抗えぬ魅力があった。
彼の脳裏には、遠い過去の記憶が蘇る。
人間たちの願いを紡ぎ、縁を結び、心を癒す――それがかつての自分の役割だった。人間の短い生の中で紡がれるその一途な願いに、ほんの少しでも報いようと、彼は無謀ともいえるほどに願いを叶え続ける。
幸福そうに微笑む姿を見るのが嬉しかった。それは神としての己の存在意義でもあったからだ。それが自分の力を蝕んでいくとは、思いもせずに。
――気づくのが遅すぎた。
はじめは微細な異変。けれど、縁を結ぶたびにその穢れが濃くなる。自分の中に浸食する黒い影――それが浄化よりも穢れの方が上回ったとき、祈りが叶わぬどころか厄災を引き寄せるものとなり、人々の恐怖と憎しみを背負う禍ツ神へと成り果てた。
「……あの頃の自分は、何を考えていたのだろうか」
暁翔は微かに唇を歪める。人々の願いに応え続けた果てに、自分が呪われる存在となるとは思いもしなかった。
そして、その呪いを絶つために、彼は白月家に自らを封じさせたのだ。結びの力を持つ白月家の結界は、自分の穢れを浄化し得る可能性を秘めていた。
だが、人間の心は複雑で、純粋な祈りなど長くは続かない。結界を張る者たちは畏怖と嫌悪、そして果たすべき役目への苦しみを抱き、代々その負の感情を結界に絡めた。結果、穢れは祓われるどころか、むしろより深く自分に絡みつき、記憶さえも奪っていった。
「もう消えてもいい――そう思ったこともあったな」
彼は緩やかに目を閉じる。けれど、消えたいと願うほどに追い詰められた心を救ったのは、夜空に浮かぶ星のような微かな光だった。
それが真桜だった。
彼女を初めて見た時のことを、暁翔は今でも鮮明に思い出す。あの日、結界を張るために現れた真桜は、まだ幼く、か細い声で「おはようございます」と祠に挨拶をした。
それは長い間風雨にさらされた祠が聞いた、初めての温かな言葉だった。彼女は何のためらいもなく祠を掃除し始める。苔むした石をこすり、古びた木を拭うその小さな手。その指先に宿る真剣さに、彼は胸を打たれた。
それから毎朝、真桜はやってきた。舞を捧げ、結界を張り、幼い妖たちにも微笑みを向ける。彼女の舞う姿は、この世の何よりも美しかった。
星のように小さな光は、やがて満月のように大きく優しい光となっていく。だが、その笑顔の奥に潜む儚げな影――それが暁翔の心をかき乱した。
「なぜ、おまえはそんな顔をするのだろうと、ずっと考えていた」
彼女が結界を張る役目に疲弊しているのか、それとも彼女の背負う運命が原因なのか。彼は知りたかった。そして、救いたかった。
その頬を伝う涙を拭うこともできず、ただ見つめるしかできない。その黒曜石のような瞳、長いまつ毛に宿る憐憫、滑らかな白い肌――全てが美しく、痛ましかった。
「おまえのためなら、すべてを壊しても構わない――そう思ったこともある」
だが、破壊はまた禍を生む。それでは真桜を救うどころか、彼女をさらに傷つけてしまうだけだと気づいたのは、真桜の笑顔を見た瞬間だった。
彼女のためにできること。それは、己を浄化し、完全な神へと戻ること。そして、真桜をその役目から解き放つことだった。
「されど、あの時――」
暁翔はゆっくりと目を開け、苦く笑みを浮かべる。
ことほぎの儀を提案したのは、浄化のためだけではなかった。彼女を花嫁にしたい――そう願ってしまった自分がいたからだ。
彼女を守りたい。それ以上に、彼女を自分のものにしたい。その思いが、今も心を満たしている。
呪い、穢れ、そんな神と婚姻したい人間はいないだろう。だから「契約」という提案をした。利益があるとわかれば手を取ってくれるだろうと思ったのだ。思惑通り、真桜は躊躇いなく儀式に臨んだ。
「真桜……」
その名前を呼ぶだけで胸が熱くなる。今日、彼女が胸に飛び込んできた時のことを思い出すと、鼓動が早まるのを止められない。
潤んだ瞳、染まる頬――彼女が自分の名前を呼ぶ声は、まるで願いが具現化したようだった。
――彼女の心が、俺と同じであったならどんなに嬉しいだろう。
暁翔は再び月を見つめる。その光は、まるで遠い未来への希望を示すかのように輝いていた。




