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私を「小間使い」にした公爵家の長男が、なぜか家族の借金も病も解決してくれました〜実は私にゾッコンだった万年次席との、不本意な主従関係から始まるハッピーエンド〜

作者: 猫又ノ猫助

窓から差し込む朝日は、いつもなら私の心を踊らせるはずだった。けれど今朝は、その光さえも鉛のように重く感じられる。広々とした魔法学校の自室で、私はひっそりとため息をついた。今日、私はこの学舎に別れを告げる。私の人生の、たった一つの輝きだったこの場所から、自らの意志で去るのだ。


私はリリアーナ。しがない男爵家の長女だ。上級貴族の魔法学校で侮られない様に必死に勉強した結果、成績は常に首席。ありがたいことに学長や教授方からも目をかけて頂き、将来も明るかった。きっと、このまま進級し続ければ、将来は宮廷魔術師の道も開かれていたかもしれない。私自身、その道を夢見ていた。


でも、そんな夢は、音を立てて崩れ去った。


理由は、最愛の弟、ルークの病だ。生まれつき体が弱かったルークは、最近になって珍しい難病を患い、高額な治療が必要になった。両親は、藁にもすがる思いで、怪しげな治療師と名乗る男の言葉を信じ、莫大な費用を支払ってしまった。結果、病状は改善するどころか悪化の一途を辿り、男爵家にはとてつもない借金だけが残された。


貧しい男爵家にとって、その借金はあまりにも重すぎた。家は傾き、使用人も減らされ、食事さえも質素になった。こんな状況で、私だけが魔法学校に通い続けることなど、できはしない。私は家族を、特に苦しむ両親と弟をこれ以上見過ごすことはできなかった。


何とかしてお金を稼ぎ、少しでも家の足しになるよう、私は魔法学校の中退を決めたのだ。家族が苦しんでいるのに、それを傍観しているほど冷たい人間ではいられなかった。


私が魔法学校を辞めれば、その学費でルークの薬代が少しでも賄えるかもしれない。そう思えば、どんな屈辱でも耐えられる。


「これで、よかったのよ、リリアーナ」


心の中で何度もそう繰り返す。


だが、それでも、胸の奥に秘めていた切ない想いは、どうすることもできなかった。


魔法学校の廊下を歩くたび、時折すれ違う公爵家の長男、エドワード様。彼はいつも私のすぐ後ろ、次席の座にいた。私に一度も勝てないことを不服そうにしていたのが、横目で見ていてもよくわかった。その勝気で、でもどこか不器用な横顔を見るたび、私の心臓は密かに高鳴った。身分違いの恋だと、頭では理解している。男爵家の私が、公爵家の彼に思いを寄せるなど、許されるはずもない。だから、この感情は決して表に出すことはなかった。


今日で、そんな密かな憧れも、終わりを告げる。


私はこれから、学長室に向かう。中退の旨を伝え、そして、この輝かしい場所から、静かに姿を消すために。



学長室へと向かう廊下は、いつもよりずっと長く感じられた。すれ違う生徒たちの楽しそうな声や、魔法陣の光が揺れる教室から漏れる熱気。それら全てが、私の心に深く刻み込まれる最後の記憶になるだろう。もうこの場所で、一心不乱に魔法を研究することも、知を探求することもできないのだ。


学長室の重厚な扉をノックすると、中から「入りなさい」と温かい声が聞こえた。意を決して中へ足を踏み入れると、広々とした室内には学長の他、私の指導教授であるフィリップ先生、そして理論魔法学のエキスパートであるベアトリス先生の姿があった。皆、私にとっては恩師と呼べる方々だ。


「リリアーナ、よく来てくれた。今日は、改めて君の中退の意思に変わりがないかの確認の場を設けさせてもらった」


学長が優しい声で促す。私は一度深呼吸し、胸のうちを伝える決意を固めた。


「はい、学長。先生方にも大変お世話になり、心より感謝申し上げます。ですが、私、改めて魔法学校を中退させて頂きたく、ご挨拶に伺いました」


私の言葉に、室内の空気が一瞬で凍り付いたのが分かった。フィリップ先生の眼鏡の奥の目が大きく見開かれ、ベアトリス先生は口元に手を当てて驚きを露わにしている。学長もまた、普段の穏やかな表情を失い、真剣な眼差しで私を見つめた。


「……本気なのか、リリアーナ? 君ほどの秀才が、なぜそのようなことを言うのだ」


フィリップ先生が、信じられないというように問いかけた。


「皆様もご存知の通り、我が家は男爵家でございます。この度、弟の病が重篤化し、その治療費、そしてそれに伴う借財が膨らみ、これ以上学費を捻出することが困難となりました」


淡々と、しかし震えそうになる声を必死に抑えながら、私は現状を説明した。私の言葉を聞くと、三人の表情は驚きから一転、深い同情と悲しみに変わった。


「そのような事情があったとは……しかし、リリアーナ。君の才能は、この学校にとって、そしてこの国の魔法界にとって、かけがえのないものだ。ここで学業を終えることは、あまりにも惜しい」


学長が苦渋の表情で言った。ベアトリス先生も、珍しく感情的な声で付け加える。


「そうだわ、リリアーナ。あなたの理論構築の速さ、魔法式の美しさは、めったにお目にかかれるものではない。どうか、再考してはくれないかしら」


彼らの言葉は胸に響いた。私をこれほどまでに評価し、惜しんでくれる恩師たち。彼らの期待に応えられないことが、申し訳なくてたまらない。しかし、私の決意は揺るがなかった。


「学長、先生方。お気持ちは大変嬉しいのですが、この決断は、家族のために他なりません。私だけがここで学び続けることは、今の私にはできないことです」


そう告げた、その時だった。


「待ってください、学長!」


突然、学長室の扉が勢いよく開き、一人の男子生徒が息を切らしながら飛び込んできた。その人物を見て、私の心臓は嫌な音を立てて跳ね上がった。


そこに立っていたのは、すらりとした長身に、整った顔立ち。涼しげなアイスブルーの瞳が、私を射抜くように見つめていた。紛れもない、公爵家の長男であり、私の万年次席、エドワード・ヴァインハルトだった。


彼は乱れた息を整えもせず、真っ直ぐに私を見据え、そして眉を顰めた。


「リリアーナ・グレイ。まさか貴様、このまま私に一度も成績で負けることなく、この学校を去るつもりか? そんなことは断じて認めん!」


エドワード様の言葉に、学長も先生方も呆れたように顔を見合わせる。この状況で、まさか彼がそんなことを口にするとは。しかし、彼の瞳は真剣そのもので、私への一方的なライバル意識を隠そうともしていなかった。


私が言葉を失っていると、エドワード様は学長に向き直り、きっぱりと言い放った。


「学長。リリアーナが中退するなど、認められるはずがありません。彼女の才能を、こんな形で失うのはこの国の損失です。どうか、彼女を辞めさせないでください!」


彼は私の事情など無視して、自分の主張を押し通そうとしている。その態度に、私の中でわずかに残っていた理性が、ぷつりと音を立てて切れた。


「エドワード様! あなたには関係ありません!」


私が強い口調で反論すると、彼の涼しい瞳がわずかに見開かれた。だが、彼はすぐに冷静な表情を取り戻し、真っ直ぐに私の目を見て言い放った。


「関係なくはない。貴様がこのまま辞めるのは、私の、そしてこの学校の恥だ。学長、彼女が辞める理由を教えてください! 何とかする方法があるはずだ!」


学長は、エドワード様の剣幕に気圧されたのか、それとも彼の真剣な眼差しに何かを感じ取ったのか、少し躊躇した後、口を開いた。


「エドワード君。リリアーナ君が中退を希望する理由は、家庭の経済的な事情で、弟君の治療費のために、多額の借財を抱えているからだそうだ」


学長の言葉が、静かな室内に響き渡る。私の心の奥底に隠していた、最も触れられたくない部分が、白日の下に晒された気がした。顔から血の気が引いていくのが分かった。しかし、エドワード様は、そんな私の動揺に構わず、冷徹なまでに理知的な表情で、私に真っ直ぐに視線を向けた。


「借金、だと? ……それなら、私が肩代わりしてやる」


彼の言葉は、まるで何でもないことのように、あっさりと告げられた。しかし、その言葉は、私にとって何よりも耐え難い侮辱だった。公爵家である彼にとって、男爵家の借金など微々たるものなのだろう。だが、私にとってそれは、家族の尊厳に関わる問題だった。


私は、ギリと奥歯を噛み締めた。誰かに施しを受けることを私の――貴族の端くれとして生きて来た誇りが、その言葉を断固として拒絶した。


「馬鹿なことをおっしゃらないでください、エドワード様! これはあくまで、我が家の、私の家庭の問題です。あなた様に、ご迷惑をおかけすることはできません!」


私の震える声は、怒りに染まっていたかもしれない。しかし、エドワード様は私の剣幕にもひるまず、一歩、私に近づいた。その真剣な瞳が、私の目をまっすぐに見つめる。


「ならば、こうしよう。貴様が私の小間使いになる代わりに、借金の利息分を給金として支払う。これならば、貴様は私から施しを受けたわけではない。対価を払って働いた結果、給金を得たに過ぎん」


そう言って、彼は私に手を差し伸べた。


エドワード様の提案は、あまりにも唐突で、そして私にとってあまりにも都合が良すぎた。いや、正確には「都合が良すぎる」などという生易しいものではない。それは、私の誇りをぎりぎり踏みにじらない、巧妙な罠のように感じられた。


「……小間使い、ですか?」


私の声は、呆れと怒り、そして微かな希望がないまぜになっていた。彼の差し出す手を、私は呆然と見つめる。学長と教授方も、この突飛な提案に驚きを隠せない様子で、私たち二人を交互に見ていた。


「そうだ。私の身の回りの世話、書類の整理、魔法の実験の手伝い。学業に支障が出ない範囲で、それらをこなせばいい。公爵家の長男の小間使いともなれば、その給金は相応のものになるだろう。少なくとも、貴様の家の借金の利息分くらいは賄えるはずだ」


エドワード様の言葉は、どこまでも冷静で、感情の欠片も感じさせない。まるで、私が彼の研究対象の一つであるかのように。その冷徹さが、かえって私を苛立たせた。


「冗談は……」


私が言いかけた時、学長が口を挟んだ。


「リリアーナ君、エドワード君の提案は、確かに突飛だが、君の才能を失うよりははるかに良い選択肢ではないか? もちろん、小間使いといっても、彼の傍で学び、知識を深める機会はいくらでもあるだろう。学業を続けられるのなら、こんなに素晴らしいことはない」


フィリップ先生も、深く頷いた。


「リリアーナ、君のプライドは理解できる。だが、これは対価のある労働だ。決して施しではない。君が背負っている重荷を、少しでも軽くできるのなら、これほど有難い話はないはずだ」


恩師たちの言葉は、私の心を深く揺さぶった。確かに、これは施しではない。働いて対価を得る。その構図であれば、私の誇りが許容できるぎりぎりのラインかもしれない。何より、このまま中退すれば、私の夢は潰える。そして、家族が苦しむ中で、学費を稼ぐためにどんな仕事を見つけられるというのか。男爵家の娘というだけで、まともな仕事は限られているのが現実だ。


弟の顔が、脳裏をよぎる。高熱に苦しむ幼いルークの姿。彼を救うためなら、どんなことでも耐えられる。


私はゆっくりと、エドワード様の差し出す手を見上げた。彼の目は、私を真っ直ぐに見つめ返している。そこには、嘲りも、憐憫もなかった。ただ、有無を言わさぬ、確固たる意志だけが宿っていた。


「……分かりました」


私の口から、絞り出すような声が出た。


「お受け、いたします。エドワード様の小間使いとして、働かせていただきます」


私が承諾した途端、エドワード様の瞳の奥に、ほんの一瞬、満足のような光が宿ったように見えた。彼は差し出した手を引っ込め、私に背を向けた。


「では、明日からだ。貴様には、私の寮の部屋に来てもらう。詳細はそこで話す。ただし、決して学業を疎かにするな。成績が落ちれば、この契約は破棄する」


一方的にそう言い放つと、彼は学長や教授方にも一礼することなく、そのまま学長室を出て行ってしまった。嵐のような彼の行動に、私はただ呆然と立ち尽くすしかなかった。


「はぁ……エドワード君も相変わらずだな。だが、彼なりの優しさなのだろう」


学長が苦笑いをしながら言った。優しさ? あの横暴で傲慢な態度が? 私にはとてもそうは思えなかった。だが、これ以上文句を言う立場でもない。


私は学長と先生方に深々と頭を下げ、学長室を後にした。


廊下を歩く足取りは、先ほどとは違う重さだった。これで魔法学校を続けられる。弟の治療費の一部を稼ぐことができる。その事実は、私にとって大きな救いだった。しかし、同時に、これからはあの公爵家の長男の「小間使い」として、彼の傍で過ごさなければならない。


彼の不遜な態度、私に対する一方的なライバル心。そして何より、学院中の誰もが羨むあの彼と、貧しい男爵家の私が奇妙な「主従関係」を結んでしまった現実。


これから、私の学園生活は、一体どうなってしまうのだろう。不安と、微かな期待が入り混じった複雑な感情を抱え、私は寮へと続く道を歩いた。



翌日から、私の生活は一変した。朝は通常よりも早く起き、エドワード様の寮の部屋へ向かう。そこでの仕事は、学長室で彼が言った通りだった。膨大な量の研究資料の整理、実験器具の準備、そして時には彼の魔術の演算を手伝うこともあった。


彼は私のことを「小間使い」と呼んだが、私から見れば彼は「暴君」そのものだった。指示はいつも一方的で、彼の機嫌を損ねれば冷たい視線が飛んでくる。少しでも作業が遅れると、「貴様、やはり男爵家出身の限界か?」などと、身分を嘲るような言葉を吐くこともあった。その度に、私の胸には苦い感情が込み上げた。


それでも、彼の知性は本物だった。魔法理論への深い洞察力、複雑な魔法陣を一瞬で解析する頭脳。そして、何よりも驚かされたのは、彼の努力の量だ。彼は常に何かを学び、何かを究明しようとしていた。その姿を見ていると、彼の言う「小間使い」としての役割も、ただの雑用とは思えなくなってくる。むしろ、彼の研究の最前線に触れられる貴重な機会だと、密かに感じるようになった。


「リリアーナ・グレイ。この文献を、この式で読み解いてみろ」


ある日、彼が私に差し出したのは、古代語で書かれた難解な魔術書だった。一見すると意味不明な文字列が並んでいたが、彼の指定した式を適用すると、まるで霧が晴れるように意味が浮かび上がってくる。


「これは……! 光の魔術に応用できる、新たな術式ですね。まさか、このような形で隠されていたとは……」


思わず興奮して声を上げると、エドワード様は鼻を鳴らした。


「やっと気づいたか、愚鈍め。だが、理解は早い。やはり貴様は、私の隣にいるべき人間だ」


褒めているのか貶しているのか分からない物言いだが、彼の言葉に、私の頬は少し熱くなった。私たちは、互いの得意分野を活かし、時に激しく議論しながら、魔法の深淵を覗き込んでいった。彼が私を必要としている、そう感じられる瞬間だけは、この不本意な主従関係も悪くないと思えた。


しかし、そんな魔法学校での日常とは裏腹に、実家の問題は依然として私の心を締め付けていた。毎週、実家から届く手紙には、弟の病状の進展と、それ以上に、借金取りの催促に怯える両親の苦労が綴られていた。私の給金は、確かに利息の返済には役立っていたが、元金が減るわけではない。いつになったら、この悪夢のような日々は終わるのだろう。


そんなある日のことだった。エドワード様が、珍しく私を呼び止めた。


「貴様、弟の病のことで、随分と憔悴しているようだが」


彼の言葉に、私ははっと息を呑んだ。私がそんな表情を見せていたとは思わなかった。


「……ご心配には及びません」


私は反射的に答えた。自分の弱みを見せたくなかった。男爵家の人間である私が、公爵家の彼に憐れまれるなど、想像するだけで胸が苦しい。


だが、彼は私の返答に構わず、冷たい声で続けた。


「私が言っているのは、貴様の感情論ではない。貴様の弟の病、そしてその治療と称する詐欺についてだ」


彼の言葉に、私は凍り付いた。詐欺? 弟の治療が、詐欺だというのか? そんなことは、両親から聞いたこともない。ただ、高額な治療費が必要だ、と。


「それは……どういう、ことでしょうか?」


震える声で尋ねると、彼はいつになく真剣な表情で私を見つめた。


「貴様の両親が、奇妙な治療に大金を支払っているという噂は、私の耳にも入っている。そして、その治療師と名乗る者たちが、この国の闇社会で悪名高い詐欺集団と繋がっているという情報もな」


彼の言葉は、私の頭を鈍器で殴られたような衝撃を与えた。詐欺。私たちが、騙されていたというのか。両親は、必死で弟を救おうとしただけなのに。怒り、絶望、そして無力感が、私の全身を駆け巡った。


「そんな……まさか……」


私は言葉を失った。エドワード様は、私の動揺には目もくれず、淡々と続けた。


「貴様は、私との契約で給金を得ているが、根本的な解決にはなっていない。この問題を解決する最善策は、その詐欺集団と、彼らを後ろ盾にしている闇金組織を断罪することだ。そうすれば、貴様の家は借金から解放されるだけでなく、無駄な治療に苦しむ弟も救われるだろう」


彼の言葉は、あまりにも現実離れしていて、信じられなかった。だが、彼の瞳の奥には、確かな意志が宿っていた。


「……あなたは、なぜそこまで?」


私は、問いかけずにはいられなかった。公爵家の彼が、なぜ男爵家の私、そして私の家族の問題に、ここまで深く関わろうとするのか。私には全く理解できなかった。


エドワード様は、私の質問に答えず、ただ静かに私を見つめた。その眼差しは、これまでの冷徹な彼の表情とは異なり、どこか複雑な感情を秘めているように見えた。だが、すぐに彼はいつもの無表情に戻り、私に背を向けた。


「これは、私が貴様を私の隣に置くための、合理的な判断だ」


彼はそう言い放つと、自らの研究資料へと再び目を向けた。私はその場に立ち尽くし、彼の背中を見つめるしかなかった。彼の言葉は、依然として私には理解できないものだった。しかし、彼の言葉の裏に隠された、微かな温かさのようなものを、私は感じ取っていた。



エドワード様の言葉は、私の心をざわつかせ続けた。「合理的な判断」という彼の説明は、いつもの彼らしい冷徹なものでしかなかったけれど、彼の瞳の奥に宿っていた微かな感情が、私の胸に引っかかっていた。同時に、弟の治療が詐欺だったという事実は、私を激しい怒りと絶望の淵に突き落とした。


その日以来、私はエドワード様の「小間使い」としての仕事に、より一層没頭した。彼の研究を手伝う傍ら、彼の机の端に置かれた資料に注意を払うようになった。そこには、確かに見慣れない組織名や、不審な取引を記録したらしき書類の断片が紛れ込んでいることがあった。彼が、密かに詐欺集団と闇金の調査を進めているのは明白だった。


ある日、エドワード様は私に、とある魔術結社の古文書の解読を命じた。膨大な量で、専門家でも数年はかかると言われる難解な内容だ。私は徹夜でそれに挑み、数日かけてほぼ全てを解読し終えた。その功績を彼に報告すると、珍しく彼は一瞬、目を見張った。


「貴様……まさか、ここまでやるとはな」


彼の低い声には、驚きと、かすかな賞賛のような響きが含まれていた。


「あなた様の指示ですから」


私がそう答えると、彼はフッと小さく笑った。その笑みは、私が今まで見たことのない、とても人間らしいものだった。そして、彼は続けて言った。


「よくやった。これでおそらく、決定的な証拠が揃うだろう」


彼の言葉に、私の心臓が大きく跳ねた。決定的な証拠。それはつまり、私の家族を苦しめている元凶を、彼が断罪できるということだろうか。


その数日後、エドワード様の動きは、それまでにも増して活発になった。彼は授業を欠席することなく、合間を縫って何人かの人物と密会しているようだった。ある時は、彼の父である公爵様の私兵らしき厳つい男たちと、またある時は、情報屋のような胡散臭い雰囲気の男と。公爵家という彼の後ろ盾があるからこそ、このような裏の繋がりも持てるのだろう。


私は彼の傍で、彼が指示を出す言葉の端々から、断片的な情報を繋ぎ合わせていった。どうやら、彼が狙っているのは、詐欺を働いた者たちだけでなく、その背後にいる高位の貴族や、不正な金の流れを牛耳る闇金組織全体のようだ。その規模の大きさに、私は驚愕した。


「リリアーナ。この資料を、至急、複製しておけ」


ある日の夜遅く、エドワード様は、分厚い書類の束を私に手渡した。それは、これまで彼が集めてきた証拠の集大成のようなものだった。詐欺集団の計画書、資金の流れを示す帳簿、そして彼らが繋がっていた闇金の記録。中には、驚くべきことに、私たちの両親が支払った高額な治療費の記録も、詳細に記されていた。これらが、私たちを騙した確固たる証拠となるのだ。


私は、夜通し慎重に書類を写し続けた。手が震え、目の奥がジンジンと痛んだが、それでも手を止めることはできなかった。この書類が、弟と家族を救う唯一の道なのだと、強く信じていたからだ。


写し終えた資料をエドワード様に手渡すと、彼は満足そうに頷いた。


「よくやった。これで準備は整った。後は、適切な時期を見計らい、彼らを断罪するだけだ」


彼の言葉には、一切の躊躇も迷いもなかった。公爵家の長男としての、揺るぎない覚悟と、途方もない才能が、そこにはあった。男爵家である私には、到底できない芸当だ。彼の才覚と、それを実行する能力に、私はただ圧倒されるしかなかった。


数日後、王城に緊急の招集がかかった。公爵様、そして司法を司る高官たちが集結していた。エドワード様は、いつものように冷静な顔をして、その場に立っていた。私は彼の隣で、彼の小間使いとして、ただ静かに見守ることしかできなかった。


その場で、エドワード様は、これまでに集めた膨大な証拠の全てを提出し、詐欺集団と闇金組織の悪行を詳細に暴き立てたという。公爵家の長男という彼の立場と、その並外れた調査能力によって集められた証拠は、あまりにも完璧で、反論の余地は一切なかったそうだ。


その日の夜、国中に衝撃的なニュースが駆け巡った。


「悪質な詐欺集団と闇金組織が、公爵家のご長男の手によって一斉に摘発された!」


「その裏には、複数の貴族が関与していたことも発覚したらしい!」


当然学園でもその話題で持ち切りになり、生徒たちのざわめきが、寮の部屋まで聞こえてくる。私はその報を聞きながら、静かに、そして深く息を吐いた。


私たちは、救われたのだ。エドワード様によって。


その後、すぐに実家から連絡が来た。両親からの手紙は、これまでの苦悩が嘘のように、安堵と喜びに満ち溢れていた。


『リリアーナ! 信じられないわ! 借金が、借金がなくなったのよ! 公爵様からの指示で、あの悪質な業者たちが軒並み捕まったんですって! あなたが送ってくれたお金で利息を払っていたけれど、まさか元金まで帳消しになるなんて!』


母の興奮した文字からは、長年背負っていた重荷から解放された歓喜がひしひしと伝わってきた。父もまた、安堵の息を漏らしているのが目に浮かぶようだった。そして、ルークの病状についても、新たな希望が見えたという。


「しかも、ルークの病気についても、あの詐欺師が勧めていた治療は全く効果がなかったそうよ。代わりに、公爵様が推薦してくださった高名な治癒魔術師の方が、ルークを診てくれることになったわ! これまで支払ったお金を取り戻すのは難しいらしいけれど、ルークが助かるなら、もう何もかもどうでもいいわ!」


ルークの治療に目処が立った、という言葉に、私の目から涙が溢れ出した。ずっと、ずっと心配で、どうしようもない無力感に苛まれていた。私の給金は、焼け石に水のようなもので、家族の苦しみを根本から解決することはできなかった。しかし、エドワード様が、たった一人で、この絶望的な状況をひっくり返してくれたのだ。


その日、私はエドワード様の部屋を訪れた。いつもと同じように、彼は書物と資料の山に囲まれて座っていた。私が部屋に入っても、彼は顔を上げず、淡々と作業を続けている。


「……エドワード様」


私が呼びかけると、彼はようやく顔を上げた。その冷たい瞳は、普段と何も変わらないように見えた。


「何か用か、小間使い」


「その……本当に、ありがとうございました」


私は頭を下げた。感謝の言葉は、それしか見つからなかった。私のたった数語の言葉に、彼は何も言わなかった。ただ、じっと私を見つめている。


「弟の病気も、公爵様が推薦してくださった治癒魔術師の方に診ていただけるとのことで、希望が見えました。そして、借金も……全て、あなた様のおかげです」


私の声は、震えていた。感謝と、そして言葉にできない様々な感情が入り混じっていた。男爵家の私が、公爵家の彼から、これほどの恩を受けることになるとは。施しを受けることを嫌う私の誇りは、今、完全に打ち砕かれていた。だが、それは苦しいものではなく、むしろ、温かい感情に包まれていた。


「礼など、無用だ。私が貴様に言っただろう? これは、私が貴様を私の隣に置くための、合理的な判断だ、と」


彼はそっけなくそう言い放ち、再び視線を書物へと戻した。彼の言葉は、いつもの彼らしい、感情を排したものでしかなかった。けれど、私は知っていた。彼が私に手を差し伸べたのは、決して「合理的な判断」だけではなかったのだと。


あの時、学長室で、彼は私のために動いてくれた。そして、私には決して解決できなかった問題を、彼は自らの才覚と公爵家の力を使い、根本から断ち切ってくれた。私の家族が笑顔を取り戻せたのは、ひとえに彼のおかげだった。


私は、彼の隣に立って、彼の背中を見つめた。冷徹な仮面の下に隠された、彼の不器用な優しさが、少しずつ、私に伝わってくるような気がした。彼の「小間使い」としての契約は、借金問題の解決をもって終わるのだろうか。それとも、彼はまだ、私を彼の傍に置くつもりなのだろうか。


私の心には、感謝と共に、今まで意識しないようにしてきた、彼への感情が確かに芽生え始めていた。それは、身分違いだと思い込んできた、密かな憧れとは違う、もっと深く、温かい感情だった。



実家の借金問題が解決し、弟の病気にも希望が見えたことで、私の心は長年の重荷から解放された。これまでの日々は、まるで曇り空の下を歩いているようだったけれど、ようやく差し込んだ光が、私を包み込むようだった。


しかし、その安堵とは裏腹に、私の中には一つの疑問が大きく膨らんでいた。エドワード様は、なぜここまでしてくれたのだろう? 「合理的な判断」と彼は言ったが、それだけでは説明がつかない。公爵家の彼にとって、男爵家の私を助けることなど、何の得にもならないはずだ。私に何か期待することがあるとしても、ここまで私的な問題に踏み込む必要はない。


ある日の午後、いつものように彼の研究室で資料整理をしていると、彼は珍しく私の向かいに座った。その表情は、いつになく真剣だった。


「リリアーナ・グレイ」


彼の声に、私は資料から顔を上げた。


「……はい」


「貴様は、私のことをどう思っている?」


突然の問いかけに、私は言葉を失った。彼の瞳は、私を真っ直ぐに見つめている。そこにはいつもの冷徹さではなく、何かを試すような、あるいは決意のような光が宿っていた。


「どう、と申されましても……」


私は動揺を隠しきれずに言葉を濁した。彼のことは、これまでもずっと意識してきた。高潔で、聡明で、そして恐ろしいほど優秀な彼。密かに憧れ、同時に、私の及ばない遠い存在だと思ってきた。そして、この数ヶ月、彼の傍で彼の仕事ぶりを見て、その偉大さに改めて圧倒された。彼が悪役たちを断罪する姿は、まさにこの国の光そのものだった。


「私の質問に答えろ。私を、単なる高慢な貴族としか見ていないか? それとも、私を、貴様を窮地から救った恩人だとでも思っているか?」


彼の言葉は、まるで私の心を覗き込んでいるようだった。私は震える息を整え、意を決して口を開いた。


「最初は……正直、あなたのことは傲慢で、人の気持ちを考えない方だと感じていました。ですが……」


私は一度言葉を区切り、彼の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。


「ですが、あなたは、私の家族を、弟を救ってくださいました。私には決して届かなかった光を、あなたは差し伸べてくれた。あなたのその才覚と、行動力、そして……私には理解しきれないけれど、その裏にある……優しさに、私は、心を打たれました」


そこまで言って、私はハッと自分の言葉に気づいた。優しさ? 私が、この冷徹なエドワード様に、優しさを見出したと言うのか。それは、私の心の中に芽生えた、特別な感情の表れだった。


私の言葉を聞いたエドワード様の表情が、初めて、明確に揺らいだ。彼の完璧な仮面が剥がれ落ちるように、その顔に微かな戸惑いと、戸惑い以上の深い感情が浮かんだ。


「……そうか」


彼は小さく呟くと、一度視線を床に落とし、やがてゆっくりと、私を見つめ直した。その瞳には、私がこれまで見たことのない、熱を帯びた感情が宿っていた。


「リリアーナ・グレイ。貴様が私をどう思おうと構わない。だが、一つだけ、貴様に伝えたいことがある」


彼の声は、普段の傲慢な響きとはまるで違い、低く、しかし、はっきりと私の耳に届いた。


「私は、貴様がこの学校で一番だと思っていた。誰にも負けない、抜きん出た才能を持つと。だからこそ、貴様がたかが借金で、その才を埋もれさせるのが我慢ならなかった」


彼の言葉に、私は驚きを隠せない。たかが借金……彼にとっては、きっとそうだったのだろう。だが、彼の次の言葉は、私の心の奥底に、ゆっくりと深く染み渡った。


「そして……私は、貴様が、好きだ」


その瞬間、私の時間は止まった。彼の口から発せられたその言葉は、あまりにも唐突で、あまりにも率直だった。私の密かな憧れとは違い、公爵家の長男である彼が、男爵家の私に、まさか「好きだ」と告げるなど。私の頬は熱くなり、心臓は激しく高鳴った。


「……え?」


震える声で尋ねると、彼は視線をそらすことなく、私の瞳を見つめ返した。


「入学以来、貴様の背中ばかり見てきた。常に私の先を行く貴様を見て、苛立ちもした。だが、同時に、そのひたむきな努力と、揺るぎない知性に惹かれた。そして、貴様が家族のために、その才を捨てる決断をした時、私は……貴様のことを、もっと知りたい、もっと傍にいたいと思った」


彼は不器用なまでに、素直に、自分の感情を吐露した。彼の「小間使い」という提案が、私を傍に置くための、彼なりの方法だったのだと、ようやく理解できた。あの冷徹な仮面の下に、これほど深く、温かい感情を秘めていたとは。


「私が貴様を助けたのは、本当は『合理的な判断』などではない。貴様を手放したくなかったからだ。貴様が、私の、隣にいてほしかったからだ」


エドワード様の言葉が、私の心に深く響く。彼の不器用な告白は、私の胸に、これまで感じたことのない温かさを灯した。


私は、彼の瞳を見つめ返した。そこには、もう傲慢さも冷徹さもなかった。ただ、私への純粋な想いだけが、炎のように揺らめいていた。


「エドワード様……」


私の目から、止めどなく涙が溢れ出した。それは、弟を救えた安堵の涙でも、身分違いの恋が成就した歓喜の涙でもあった。そして、何よりも、彼の不器用な優しさと、秘めたる情熱に触れた、感動の涙だった。


身分違いだと思い、密かに蓋をしてきた私の想いは、彼に導かれるように、今、確かに愛へと変わっていた。


私は、彼の差し出す手を、そっと握り返した。



エドワード様の告白は、私の人生を大きく変えた。これまでの私は、家族を支えるためだけに生きてきた。けれど、彼の言葉が、私に新たな光を与えてくれた。それは、愛する人と共に歩む、未来への希望の光だった。


それからの私たちは、もはや主従などではなかった。互いを深く理解し、尊敬し合う、対等な関係へと変わっていった。魔法学校での共同研究は、以前にも増して熱を帯びた。彼の研ぎ澄まされた知性と、私の閃きや直感が融合し、私たちは次々と新たな発見を生み出した。周囲の生徒たちも、私たちの関係性の変化に気づき始めていたが、誰もそれをとがめる者はいなかった。私たちの間に流れる、確かな絆を感じ取っていたのだろう。


やがて、学園の卒業を間近に控えたある日、エドワード様は公爵家で、正式に私への求婚を申し込んでくれた。


「リリアーナ・グレイ。貴様を、私の妻として、生涯を共にしたい」


彼の言葉は、いつもの不器用な表現ながらも、その瞳に宿る真剣さに、私の胸は震えた。私は迷うことなく、彼の申し出を受け入れた。


公爵家と男爵家。身分差は歴然としていた。しかし、彼の両親である公爵夫妻は、私たちの関係を暖かく見守ってくれていた。私がこれまでの学園生活で築き上げた実績と、何よりもエドワード様の強い意志が、彼らの心を動かしたのだと思う。彼らは、私の家族にも丁重に挨拶をしてくださり、私の両親は涙を流して喜んでくれた。


「リリアーナ……本当に、本当に良かったわね。あなたがあの方と……。あの時、私たちがあなたにどれだけ苦労をかけたかと思うと……」


母は私の手を握りしめ、嗚咽を漏らした。父もまた、目に涙を浮かべながら、エドワード様に深々と頭を下げていた。


「このご恩は、決して忘れません。娘を、どうかよろしくお願いいたします」


ルークも、以前よりもずっと元気になっていた。公爵様が推薦してくださった治癒魔術師の方の治療が功を奏し、彼の病状は劇的に改善していたのだ。今は、少しずつではあるが、杖なしで歩けるまでになっていた。ルークは、私とエドワード様の手を握りしめ、満面の笑みを浮かべた。


「お姉ちゃん、エドワード兄様! 結婚おめでとう!」


家族全員が、心から私たちを祝福してくれた。長年、家族の絆を蝕んでいた借金と病という闇が晴れ、私たちはようやく、真の光の中に立つことができたのだ。


そして、季節は巡り、私たちは結婚式を迎えた。

王都の最も格式高い大聖堂は、色とりどりの花で飾られ、多くの人々が祝福に駆けつけてくれた。学園の友人たち、教授陣、そして公爵家と男爵家の親戚縁者たち。皆が笑顔で私たちを見つめていた。


純白のウェディングドレスに身を包んだ私が、父に手を引かれ、大聖堂の長い通路を歩んでいく。その先には、タキシード姿でまっすぐに私を見つめる、愛するエドワード様が立っていた。彼の表情は、いつものクールなものとは違い、どこか感慨深げで、微かに照れくさそうにも見えた。


彼の傍まで辿り着き、父から彼へと手渡される。その瞬間、彼の手が私の手をそっと握った。温かく、そして力強いその感触に、私の胸は幸福で満たされた。


「誓います」


神官の前で、私たちは互いの誓いを交わす。彼の低く、しかし確かな声が、私の心に深く刻まれる。


「汝、リリアーナ・グレイを、いかなる時も愛し、慈しみ、生涯を共にすることを誓いますか?」


「はい、誓います」


「汝、エドワード・ヴァインハルトを、いかなる時も愛し、慈しみ、生涯を共にすることを誓いますか?」


「はい、誓います」


誓いの言葉が響き渡り、互いの指に誓いの指輪がはめられる。そして、温かい祝福の拍手と、色とりどりの花びらが私たちに降り注いだ。


エドワード様が、私をそっと引き寄せ、唇を重ねた。その瞬間、私の人生に、新たな幕が上がったのを感じた。


家族の絆を取り戻し、身分を越えた愛を掴んだ私は、今、隣に立つ愛する人と共に、永遠の幸福を誓う。私たち二人の物語は、ここから、新たに始まるのだ。

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