7.その視線はおれのもの
石頭だねぇ、と医者はのんびりと告げた。おれの頭はたんこぶができただけで、レントゲンを撮っても異常は見つからなかったようだ。あ、そうですか……いや、よかったです。
犯人になってしまった岳基さんの方が脳震盪を起こしていて、数日入院すると聞いた。もう会いたくないとは思うものの、憐憫みたいな感情は心のどこかにある。
おれは一日休んだけど土日を挟めば元気いっぱいになり、月曜には学校へ行くことにした。しかし朝、いつものバス停に近づくにつれ、だんだん怖くなってしまった。
足が重くなり、胸も苦しくなる。全然平気! と家を出てきたのに情けない。あのアパートに岳基さんがいないとわかっていても、あの部屋はどうなったんだろうかと考えてしまう。隠し撮りされた写真の数々。
決してアパートの方に視線を向けないよう、ぎゅっと眉根を寄せて歩いていると……
「望田。おはよう」
「はぇ? 堤?」
なぜかバス停で堤が待っていた。頭の上に大きな疑問符が浮かんだが、バスが来たのでとりあえず乗り込む。おれが二つ並んで座れる席を選んで先に座ると、堤はまた通路に立ち止まり躊躇った。
「怖くない?」
「堤ならね」
隣の座面をポンポン叩いて呼び寄せる。堤はなにか言いかけたが、今度は運転手に怒られる前に座った。
「おれのために来てくれたの?」
「……迷惑だったか?」
「助かった。ありがと」
さっき、堤の顔をみた瞬間。感じたことのない、おれの語彙力では喩えようのない感情が湧き上がってきた。安心と、喜びと……なんか、愛しさみたいなもの。
(ああ、なんだ。もう好きになってたんだ)
ストン、と納得して妙にすっきりした。先週堤が一年の女子と話しているのを目撃したときから、もやもやしていた所が晴れていく。
おれは恋愛に関してずっと勘違いをしていたらしい。いつか女子に好きになってもらって、付き合うのが目標だと思っていた。
でもそこには、おれから好きになるという部分がすっぽりと抜けていたのだ。一度自己肯定感が地に落ちたせいで、あえて考えないようにしていたのかもしれない。
恋愛のふわふわして甘そうな部分だけ掬い取って、欲しいなと考えていた。でもその下には決して甘いだけじゃない複雑な味が隠れている。
嫉妬や独占欲――おれが堤に対して感じていたものだ。堤がおれに与えてくれた、思いやりや献身もある。それに岳基さんの場合は狂気だろうか。
そういった苦みとか酸っぱさ全部が混じり合って、人によってちょうどいい塩梅になったり駄目になったりする。言葉にしないと伝わらない気持ちや自分の駄目なところもさらけ出して、美味しい組み合わせを見つけられた二人だけが、ふわふわとした甘さを堪能できるのだ。
「堤、SNS交換しようよ」
「う、うん」
「下の名前で呼んでいい? 叶人って」
「うん」
「おれと付き合わない?」
「うん……んん!?」
おれはさらっとバスの中で告白した。こういうのは勢いが大事。堤もバスの中で告白してきたんだし、おれもそうしただけだ。
驚きに目を見張る堤の顔はなかなか見ものだった。おれはにんまりと得意げに笑いながら、堤に肩をぶつける。
「おれさ、よく考えずにお前の告白断ったけど、よく考えたら好きになってたわ」
「嘘だ……」
「嘘じゃないって! なに、信じられないの? 手でも繋ぐ?」
なかなか信じようとしない堤をからかいたくなって、膝の上に置かれていた手の甲に手を重ねてみる。だが堤の手はびくっと震えてから、パンツの布地を握りしめて固まってしまった。
「だって俺、小学校の時から望田のこと好きで。ずっと遠くから見てた存在が、急に……つ、つき、あうとか……」
「えっそんな前から好きだったの」
新情報に、今度はおれが目を丸くする。高校に入って垢抜けたからじゃなかったの!?
――今では想像もつかないが、堤は小学生のころ、身体が小さくて苛められていたらしい。一時期不登校になってたまに保健室登校をしていたとき、外で転んだおれが駆け込んできた。
「望田くん、また転んだの?」
「うん! あのねあのね、きのうより一秒早くなった気がする!」
おれは脚や腕に絆創膏をいっぱい貼って青あざもたくさん作っていたけれど、満面の笑みで保健室の先生に報告していたという。そのとき、ポツンと座って自習していた堤の存在に気づいた。
「おなかいたいの? ぼくもね、よくいたくなる!」
「……いたくない」
「よかったね! でも……元気ない?」
「ない」
「すきな子いる? いたらね、毎日楽しくなるよ! ぼく、みゆちゃんに会いに学校きてるんだ!」
「すきな子なんて、できないよ」
「じゃあぼくは?」
「は……?」
「ぼくに会いに学校きたら、楽しいよ!」
おれに言われてから、堤はおれを見に学校へ来るようになった。当時は友だちもたくさんいて遊びに一生懸命だったおれを、それはそれは熱心に見ていたらしい。最初は保健室の窓から。そして教室の窓から。
学校へ来るのが嫌じゃなくなり、確かに毎日楽しいなと納得した堤は、いつの間にかおれに恋していた。ちなみにおれは堤に自分で言ったことも忘れて、堤に会いに行くようなことはしなかった。
その後中学に上がると、今度はおれが苛められるようになった。おれは意地でも学校に通い続けたけど、日に日に表情は暗くなっていく。見かねた堤は苛めの中心人物をひとりひとり調べ上げ、ときには先生に報告し、ときには弱みを握ってやめさせたという。苛めがだんだん下火になっていったのには、裏があったようだ。
進路を調べ高校までついてきた堤は、そこでもおれを守るつもりだったらしい。しかしおれは自分でイメチェンし、元気いっぱいだったので堤の出番はなかった。おれの強さに惚れ直したりしていたとか。
二年になると、はじめておれと同じクラスになった。そして今に至る――
「小学生ならではの暴論……! 堤そんなんでおれのこと好きになっちゃったの……」
「でも初めて保健室で話したときから死ぬほどかわいかった。心臓がギュンってなった」
「そ、そうか……」
あ〜〜〜っ! 全く覚えてないけど小学生のおれ、恥ずかし〜〜〜!!! ていうか堤もなかなかの執着ぶりというか……法には触れてないとはいえ一歩間違えればストーk……
(……でも、嫌じゃないんだよなぁ。どっちかというと、嬉しいかも……)
岳基さんと、何が違うのだろうか。もちろん行動の過激さは違うけれど、たぶんそれだけじゃない。
堤の想いは静かで純粋で、おれを助けてくれていた。苛めっ子の弱みを……って部分はちょっと謎だけど。何したの?
とにかくおれは堤の暗躍がなかったら、今でもめそめそしていたに違いない。この前も多山から守ってくれたし、岳基さんからも守ってくれた。
堤が頼まなくてもおれを探しに来てくれるようなタイプじゃなかったら、あの日もっと酷いことになっていた可能性もある。
「堤、ありがとうな」
「救われたのは俺の方なんだけど。でも、間に合ってよかった。……そういえば、下の名前で呼んでくれないのか?」
そうだった。いや、なんか改めて呼ぶとなると照れるな……? おれは緊張で手のひらに汗を滲ませながら、上目遣いで堤の目をじっと見た。
「か、叶人……」
「柚生」
柚生、とおれの名前を呼んだ堤は、その目に世界一愛しい人を映しているみたいに微笑んだ。堤の手の甲に乗せていたはずの手は、一瞬にして指を絡められる。
「く」
「く?」
「くぁ〜〜〜っ……負けた……っ」
イケメン、強すぎる。おれはカ〜ッと顔に熱が上るのを感じた。おれのなかの眠れる乙女が目覚めた気がする。
あっという間に学校へ着いて、頬の熱を散らしながら歩く。ポーカーフェイス、ポーカーフェイス……。
もしかして汗をかいた手のひらに気づかれてた!? なんて心配をしたりして、先週あった事件のことを考える余裕はなくなっていた。
昼飯のとき、空き教室に佐々木を呼んで全て話すことにした。弁当を持って教室を出る際、堤のじっとりとした視線を感じる。あれ、佐々木には話すって言ってあったんだけどな?
とりあえず目が合ったのでにこにこ微笑んで手を振っておく。今日からあいつがおれの恋人。そう認識するたびに嬉しいなぁと思う。
「改まってなんなん? 昨日休んでたことと関係ある? もしかして、コンビニ店員になんかされた?」
「うん。襲われた」
「はぁっ!?」
あ、言い方失敗した。仰天している佐々木の落とした箸を拾ってやって、おれは経緯を話した。改めて話していると、我ながらなんか……
「望田、馬鹿なの? 家までついてくなんて」
「おっしゃるとおりで……」
ちゃんと注意されていたのについて行ってしまったことに関しては、言い訳のしようもない。
「堤くんが来てくれてよかったよ。正義のヒーローじゃん! 惚れちゃったんじゃない?」
「うん! だから付き合うことにした」
「そうなんだ。へー……って……え!?!?」
へらっと笑いながら告げたおれに、佐々木は食べ終わった弁当箱をガシャン! と落とした。それをまた拾ってやりながら、おれは「今朝から付き合ってる」となんでもないことのように言った。今朝って……我ながら意味分からんタイミングだな。
そもそも堤のほうがずっとおれを好きだったらしいと教えると、「執着攻めじゃん」と意味のわからないことを呟く。
「執着……ぜめ……?」
「アカリがさ、持ってる漫画にそういうの出てくんの。今度貸してやるよ。ていうかお前は今後のために読んでおくべきだ」
「ふーん? ありがとう」
おれはそれが男同士の恋愛を描いたえっちな漫画だということを、まだ知らない。
予鈴が鳴って、同時に立ち上がる。佐々木はいろいろ驚いていたものの、応援すると言ってくれたのでひと安心だ。今度ダブルデートしようだってさ、さすが親友だ。
トイレに行くという佐々木と分かれて教室に戻ろうとしたとき、階段の踊り場で堤を見つけた。また……一年の女子と一緒だ。その距離はちょっと気になるほど近く、おれは心の中に嫌な味が広がっていくのを感じる。
彼女の身長に合わせて堤が腰を屈めた瞬間、まるでキスでもしそうに見えた。おれはつい、駆け寄りながら名前を叫んだ。
「叶人!」
「柚生? どうした?」
勢いのまま抱きついたおれは、「あーいまの返事彼氏っぽい!」と悶えそうになって慌ててキッと表情を引き締めた。
「誰? 一年に仲良い子いるって聞いてないよ?」
相手に聞こえたら失礼だから、背伸びをして耳元でこしょこしょと話しかける。すると堤は耳たぶを赤くしながら答えた。
「従姉妹だよ」
――カシャカシャカシャカシャーッ!
「!?」
従姉妹かぁ〜〜〜と安心しかけた瞬間スマホの連射音が聞こえて、おれはビクッと驚いてまた抱きつく。
「叔母さんに送らなきゃ! 今日はお赤飯だね!」
「やめてくれ……」
彼女はおれにぺこっと会釈して一年の階へ走っていった。どういうこと???
堤に問えば、小学校のときから好きな男の子がいるのは家族に筒抜けだったらしい。歳の近い従姉妹もそれは同様で、偶然同じ高校だったので相手を探されていたという。堤は頑なに教えないようにしていたらしいが、今のでバレたというわけだ。
なーんだ。心配して損した。堤に限って浮気なんてしないと思うけど、おれは存外嫉妬深いタイプなのかもしれない。
さっきすごく焦ったことを思い出し、ぎゅっと腕を握る。堤の顔がいまだに真っ赤なことに気づいて、おれはキョロキョロと周囲を見渡した。もう本鈴がなるだろう。だから周囲には人がいない。
――おれはえいっとつま先立ちをして、堤の頬に小さなキスをした。
「叶人、これからもおれのことだけ見ててね」